2016.3.9 研究所
それは、利用されてるんじゃない?
駒から近況を尋ねるメールが来ていた。返事に早紀のことを書いたらこんな反応だった。身内に東京に出て『悪い女に引っかかって痛い目見た』のがいるそうだ。
サキ君は、そういうのとは違うと思うけどな。
久方がメールを見ながらぼんやりしていると、タイミングよくサキから電話が来た。
今日はマカロンの日になりまシタ。もうお腹いっぱいでス。所長は好きでスか?買いすぎたから送りますよ。あ、賞味期限どうだっけ……。
突然マカロンにはまったらしい。好きなのか聞いてみると、
昔は普通でシタ。
でも、ある事件がきっかけになって、しばらく食べていなかったのでス。
でも、過去を克服するために今日から食べることにしまシタ。
今テーブルがカラフルマカロンに覆われてスイーツデコ状態でス。
写真後で送りまス。きれいでスよ。
まだ16歳なのに『克服しなきゃいけない過去』がある。久方は笑えなかった。たぶん前に聞いたいじめが絡んでいると思ったし、自分が同じ年の頃を思い出しても、そこには絶望と混乱があるばかりだったから。そういう意味でも、久方と早紀はよく似ているらしい。
所長はなんか嫌いな食べ物ありまスか?
考えてみたが、特に思い当たらなかった。好きなものも聞かれたが、それも浮かばない。前に食べておいしかったものくらいあるはずだ。でも、思い出せない。久方は予想外に焦った。まさかこんな軽い話題で、記憶の壁に当たるとは。
好き嫌いなくていいでスね。私は肉食だから野菜は食べまセンよ。
野菜は食べなきゃだめだよと無難に大人らしい注意をして、よくわからない会話は終わった。いや、これでも早紀は真剣に、過去に起きた辛いことと折り合いをつけようとしているのだろう。はた目にはカラフルなお菓子で遊んでいるようにしか見えなかったとしても(あとで、おもちゃの広告のようなカラフルな写真が送られてきた)。
好き嫌いがないって、あまりいいことじゃないのかもしれないなあ。まるで個性も判断力もないみたいじゃないか。
久方はしばらくそんなことで悩んでいた。すると、カリカリと窓をひっかく音がした。
かま猫だ。
ここ数日見かけなかったが、帰ってきてくれたようだ。
何かを口にくわえている。
久方は窓を開けた。
夕飯何ギャアアアアア!!
部屋に入ろうとしていた助手が、すさまじい悲鳴とともに廊下を走って逃げていった。
かま猫がくわえていたのは、蜘蛛だった。
かま猫はカウンターの上に獲物をおろすと、キラキラした誇らしげな目で久方を見上げた。
『捕まえちゃった!褒めて!』
という意味なのだろうか。
久方は久しぶりに大きな感動を覚えてしまった。
かま猫が蜘蛛を捕まえたことではなく、わざわざ『自分に』見せに来てくれたことに。
前は人を警戒して、なかなか建物のひび割れから出て来てくれなかったのに。
かま猫はいい子だね。
久方は猫を抱き上げて笑った。食べ物ではないが好きなことが一つ見つかった。
助手がすぐ戻ってきて、
その汚い猫を追い出せ!!
と叫んだので、久方は蜘蛛をつまんで助手に向かって投げつけた。助手はまた叫びながら逃げていき、久方は猫を抱いたままキッチンに向かった。ご褒美になりそうな食べ物があるか確かめるために。




