2016.2.29 サキの日記
本屋の文庫コーナーに入り浸っていたら、怖い二人組がきつい口調で言い合いしながら近づいてきた。スーツだったから会社員だと思うけど、ああいうケンカみたいなきつい声が本当に苦手。手元にあった本をよく確かめずに持って、入り口近くのレジまで逃げた。店を出てからしばらく歩いたけど、なかなか胸のビクビクが止まらなかった。
本屋でケンカはやめてほしい。
タバコより、公共の場所で怒鳴るのを禁止してほしい。
煙より怒鳴り声の方が、絶対に世の中を悪くすると思う。心臓、つまり健康にも悪い。精神にもよろしくない。
うちに帰ってから本の包み開けたら『わたしの人生の物語』って書いてあった。よく見ないで選んだわりには面白かった。
自分の『人生』から、会いましょうと手紙が来た。
会ってみたら、さえないオジサンだった。
主人公は20代後半の女性なのに。
しかもそいつは、主人公の人生の出来事を全部知っていて、iPADで情報を読み上げながら失敗をバカにしたように指摘してくる。
つまり、さえない彼は彼女の『うまくいってない』人生の化身だったわけ。
私は、読みながらなぜか所長を思い出していた。
私の『人生』でないことは確かだけど、
でもなぜ、あんなに似てるんだろう。
私が思い込んでるだけ?
サキ君。
本当は覚えてるのに、思い出せないことってある?
気にしてたのが伝わったのか、所長から電話が来た。しかもなんか落ち込んでるっぽい。私は本を読み終わり、マルゲリータを焼き始めたところだった。
ほんとは、はっきり覚えてる。
でも、思い出せないよ。
頭に映像が浮かんだだけで気が変になりそうで。
いつも忘れてるのに、本当はいつも後ろにいるんだ。絶対に忘れさせてくれないんだよ。おかげで僕はいつになっても、恐ろしくて何もできない……なんにもまともに手につかないよ。
泣き声みたいに聞こえた。所長はしばらく必死に話してたけど、いくら聞いてもなんの話かさっぱりわからなかった。でも、出来事はわからなくても怯えてるのは伝わってきた。声や話し方で。断片的で、震えていて、息苦しそうだったから。昔起きた辛いことを思い出したのかもしれない。いつかの私みたいに。
聞き役に徹していると、
この世にはもう、優しさとか、
美しいものの居場所はないのかなあ。
3世紀前の詩人のような文句を言い始めた。
サキ君、今笑ったでしょう。
僕は真面目に言ってるんだよ。
最近何もかも刺激が強すぎて、耐えられないんだよもう……。
まさか、あかねの同人誌を見たのか!?
と思ったけど、さすがに聞けなかった。『猫耳つけて助手に似た人とラブラブな漫画見ました?』なんて。
ごめんね。急に電話して。
いい年の大人なのに。
30分くらい話してたかな。所長は落ち着いてから、ほんとに後悔してるような感じでそう言った。
最初に会ったときも言ってたな。『いい年の大人』って。
なんとなく無理してるような感じがする。
結局何が起きたんだか、さっぱりわからないままだ。
マルゲリータは冷めてたし。焼き直したからいいけど。
いつもと逆だなあ。
前は私が夜中に迷惑電話して、所長が黙って聞いてくれてた。
何を思い出したんだろう。
なんであそこにいるんだろう、所長。
そのうち教えてくれるかな。
所長の『人生』がもう一人いたら、それは私じゃないし、『いい年の大人』でもないだろうなあ、きっと。
私にいたら、それはたぶん、古本屋の娘だと思う。いや、部屋がカオスで手作りできないから、息子かもしれない。そして間違いなく、見た目は地味で、女の子が大嫌いな堅い話を、呪われたような暗い顔でブツブツと喋るのだ。




