2016.2.18 研究所
クララ・ヴィークの主題による変奏曲が空気を揺らしている。シューマンは、未来の妻クララが作曲したアンダンティーノを使ってこの変奏曲を作った。当時はクララの親に交際を禁じられていたそうだ。やがてクライスレリアーナに移った。どちらも恋人に捧げられた、情熱的で美しい音色だ。
これが、助手の乱暴な演奏でなければ。
そして、朝の6時でなければ。
隣の部屋からの騒音で目覚めた久方は、すぐに着替えて廊下に飛び出し、走って一階に逃げた。寒い。ヒーターの前で熱を独占していても、体から冷たさが抜けるまで時間がかかる。
ポット君はいいね、気温関係なくて。
すると、珍しく電子音声が返事した。
寒スギルト凍ッチャウヨ?
返答を期待していなかった久方は一瞬困ったが、次には笑っていた。寒すぎると凍る。当たり前のことなのに、それをストレートに言語化されるとおかしいのはなぜだろう。
天井からピアノが聴こえ続けている。最近助手は降りてくると汗臭い。きっとヒーターをガンガン焚きながら乱暴に鍵盤を叩いているのだろう。どんなに美しい優美な曲も自分色に破壊してしまう。才能なのか、単に人柄が邪悪だからか。この曲もさっきの変奏曲も、別な人に弾いてほしいものだ。ホロヴィッツとか、リリー・クラウスとか、近所のピアノの先生か生徒でもいい。要するに、助手以外のまともな人間なら誰でもいい。美しく弾いてくれるだろう。
コーヒーを飲みながら、朝の空気には似合わない迷演奏にうんざりし、コーヒーカップを片付けようと思った頃、インターホンが鳴った。わざわざ鳴らすということは、佐加や変態ではない。久方はやや緊張しながら玄関に向かった。
おう、おはよう!
黒光りする髪に眼鏡の、修理屋だった。
久方はその、良く知らない人間からの、親しみがこもりすぎた笑い方に見覚えがあった。
別人の仲良したちの顔だ!!
そう、過去に別人が仲良くなった人物が、久方を『ノリのいい友人』と勘違いして近づいてきたとき、みんなこういう笑い方をしていた。いたずら好きの子供のように屈託のない笑い方。おもしろいキャラクターを期待する笑い方。
まだ顔色悪いなァ。昨日もえらい落ち込んで、せっかくフィーバー連発したのに玉ほおって帰っちゃったべ。男が玉忘れちゃだめだァ。八坂のやつが横取りしてたから代わりに確保して景品に変えたんだけど、
久方が固まってるうちに、修理屋は調子よく喋りながら、大きな紙袋を差し出した。『パチンコのマンボー』と書いてある(ちなみに、真面目な久方は、パチンコが何をする所かも良く知らない)。
何が好きかわかんなかったからお菓子にしたべ。あとこの、なんだ、ナメタケ?なんかわかんねえけど、このきのこ人気なんだべ?
陽気なメガネ親父が、頭とほぼ同じ大きさのぬいぐるみを取り出した。
うちのエリカもこれのちっちえぇの車に積んでるわ。遊びに来る女の子にでもあげたらいいじゃない。
久方の体がショックでぴくっと引きつった。つまり、この修理屋は、自分が、久方創が、女の子を『呼んで』『遊んでいる』と勘違いしているのだ。
冗談じゃない。あれは『勝手に』『向こうが』やっている『不法侵入』だ。自分が呼んだことなど一度もないし、今後も永久にない。
しかし、それをどう説明していいかわからず、久方はただ曖昧に笑っていた。目もとはうるみ、口もとはひきつっていたのだが。
まあ、その顔は寝不足なんだべ。俺もしょっちゅうフィーバーしてるから気持ちはわかる。ガンガン出た日にゃあ興奮して眠れねぇ。エリカとフィーバーした日の朝なんてなぁもう腰がなあ……。
スケベ親父はわざとらしく真面目な顔をしてうなずき、
ま、それ食って元気せ、な?
散々好き勝手にしゃべった後、俺はあんたの女好きが気に入ったとか、草食男子はよくわからんとか、知らず知らず、久方の衝撃にさらに追い討ちをかける言葉を追加して、毛深い修理屋は帰って行った。
8時過ぎ、ピアノを弾き終えた助手は、廊下にキノコと紙袋が放置されているのを発見した。
久方はソファーで、『寒すぎて凍っちゃった』かのように、まっすぐに硬直してうつ伏せに寝ていた。呼びかけても返事をしない。
来客のことも、ショッキングな誤解の内容も知らない助手は、わからんなあと呟きながら廊下のキノコを蹴り飛ばし、紙袋の中身がお菓子だとわかった瞬間、満面の笑みで覗き込んで中を探った。




