2016.1.8 研究所
だるい……。
久方は朝から窓辺のカウンターに伏せて、小声で何かをブツブツとつぶやき続けている。雪かきだけでこんなにだるくなるのはおかしいとか、かなりきつかったときもあるけどそれはだいぶ前だとか、助手が手伝わないから悪いとか。
やっぱり歳かなあ。
後ろの助手がコーヒーを吹いたが、『所長』は気にせずぼやき続けている。
歳を取るとどんどん神経過敏になって、いろんなことがつらくなってくるよね。
若い頃ってどうしてあんなに無感覚で、いろんなことが平気だったんだろう?
今よりずっとひどい扱いを受けてたのに、神経までは響いてなかった気がする。自分に起きたことでも、遠くから見てるみたいだったし。
それは今よりその時のほうが問題なんじゃないかと助手は思ったが、口から出たのは全く別の疑問だった。
お前は今いくつなんだ?
ガキのくせにさっきから何を老人みたいにブツブツブツブツ言ってんだ?
こんな寒い日に朝っぱらから小汚い猫と遊んでるから風邪ひくんだろ?
早紀が見つけた猫は、今もこの真下にいる。久方は毎日、朝の散歩ついでに猫の存在を確認していた。ただ、人を怖がるのか、隙間からこちらを見るだけで、呼びかけてもなかなか外には出てこなかった。
その猫が今日は珍しく出てきたのに、助手が別な動物と間違えて悲鳴をあげたせいで、また隠れてしまった。
久方はちらりと助手を振り返り、冷めた目でにらむと、
汚くない。あれはかま猫だから。
除雪しない人には、このだるさはわかんないよ……。
と言ってまた伏せてしまった。そんなに具合悪いなら部屋に戻ってベッドで寝てろと言っても、動かない。昼間はカウンター窓に座っていないと気がすまないのだろうか。
助手は説得を諦め、ピアノを弾くために二階へ戻った。
久方は頭をテーブルに押しつけ、額に心地よい冷たさを感じながら考えていた。この疲労は絶対に別人の仕業だと。夜中に出かけているに違いない。
でも、どこだろう?
カフェか?誰と会っていたんだろう?
記憶に残っていたあの、夜中に会っていた女の子は誰だろう?ヨギナミ?佐加?まさか平岸あかねではないだろうが。
自分の知らないうちに、誰かと親しくなって変なことをされては困る。
かと言って、止める方法がわからない。
この体じゃ、できることはそんなにないだろうけど……。
久方は伏せたまま自分の手を見つめた。小さな手だ。大人の男の手ではない。実際、子供みたいとか、かわいいとか言われることがある。全く嬉しくない。もう慣れているから、手酷く傷つくことはないが。
寒くなってきた。
部屋に戻ろうにもピアノが始まってしまっている。久方はまたソファーで眠ることにした。ベッドホンをつけて、低く音楽を流しながら。
リリー・クラウスのモーツァルト。
同じピアノでも、助手の破壊的な演奏とは別物だ。きっと感受性のレベルが違いすぎるのだろう。
リリー・クラウスは傷つきやすい人だったに違いない。あの助手くらい無神経になれたら、きっと人生は楽だろう。ああなりたいとはもちろん思わないが。




