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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年1月

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2016.1.3 サキの日記


 一緒に大木の所まで行こう。

 今日の天気は完璧だよ!!



 研究所の玄関で、所長がにこやかに笑っていた。冬のピクニック計画だ。楽しみだけど、どれくらい歩かされるか心配だった。このあたりは平原で、そんな大きな木がありそうな山は、はるか遠くに思えたから。



 意外とすぐ着くよ。はるか向こうに見える山じゃなくて、町の近くにある低い山のほうだから。



 所長は今までになく軽い足取りで、歩きにくいはずの雪道をずんずん進む。浮かんで移動してるんじゃないかと思うくらい速くて、私はあっという間に10メートルは離される。ときどき立ち止まるけど、それは私を待ってくれてる訳じゃなくて、景色に見とれているから。

 一枚板のように平らな雪原は、空の色を薄く写したように微かに青く、日光は氷の一粒一粒をキラキラと光らせ、あたりの空気も一緒に輝いて見える。

 見る人によっては、ほんとに、何もない光景だけど。

 前を歩く所長に、楽しそうですねえと呼びかけてみたら、



 天気のいい日に外を歩けるのが、一番幸せだからね。



 そんな答えが返ってきた。夏にも同じようなことを言ってたし、一緒に歩いてると本当に幸せそう。

 雪に反射した太陽光が、空気までも輝かせる。目を細めないで歩くのは難しい。眩しすぎる。


 でも、目が離せない。

 綺麗で。


 所長と外を歩くといつも驚くというか、ほとんど感動に近いものを覚える。景色や空模様にただ夢中というのではなくて、完全にその中に入り込んでしまっているようだ。二人で歩いているというより、雪原と所長が一体化した景色を、一人で見ているような。



 昔、何か嫌なことがあったんだろうか。

 こんなところに一人で引きこもってしまうくらいに。

 だから、こんなふうに、今この瞬間だけに生きようとしてるんだろうか。

 過去にとらわれないようにするために。

 昔の話を慎重に避けながら。


 前を歩く所長を追いながら、私は一人で勝手に、感傷的な空想をしていた。

 でも、そんなに外れているとも思えなかった。

 単に子供っぽいとか純粋なだけとか、

 それだけではない何かがあるような気がする。

 所長の様子を見ていると、なんとなく。



 車道から横にそれて、雪の細いくぼみしかない道なき道に入り始めた。このままついてって大丈夫だろうか。急に不安になってきた『山の中で女性の遺体発見』みたいなニュースの見出しを思い出したところで、森が見えてきた。研究所の林と違って、木々が何倍も高い。冬で葉は落ちているはずなのに、たくさんの枝が空を覆い、日光を遮っていた。



 もうすぐそこだよ。がんばって!



 暗い森から声がした。所長じゃなくて妖精か何か、人間じゃないものの声のような気がした。

 勇気を出して中に入ると、見えてきた。他の木とは比べ物にならない、太いのが。幹のまわりを、土から盛り上がった根の一部が取り囲み、雪から逃れる足場を作っているようだ。この根っこの下の空間に、洞窟か、別世界へのゲートがあってもおかしくはない。

 所長は張り出した根っこをベンチがわりにして座り、楽しそうにこちらを見ていた。来る前からうきうきしてる感じだったし、よっぽどこの場所が好きなんだろう。



 気温さえ高ければ、ずっとここにいたいくらいだけど。



 私が隣の根っこに座ると、所長は少し体を幹にもたれさせて言った。



 でも、1月にここで時間を忘れたら、確実に凍えてしまうんだよね。前にそういうことがあって、なんとか帰れはしたけど、熱を出して助手にバカにされた……あ!



 所長が急に立ち上がり、真面目な顔で私を見下ろした。



 あいつ今日帰ってくるんだ。

 紹介しないと。

 でもほんとにやな奴だから。

 嫌いになってもいいけど、僕まで嫌わないでね?



 ものすごく不安そうな顔でそんなことを言われたので、私は笑ってしまった。なんだかすごくかわいかった。大人だから言わないけど。


 それから、もときた道を戻った。所長は一度も立ち止まらない。でもゆっくり歩いてたからわたしも置いていかれずに済んだ。なんだか緊張しているように見えた。本当は帰りたくないんじゃないかとも思った。



 助手は、入り口に立っていた。

 想像してたのとはだいぶ違った。ピアノを弾いて虫を怖がるって言ってたから、線の細い内気な人を勝手に思い描いていた。



 おー、帰ったか。



 横柄な口をきくその男は、がっちりした威圧的な雰囲気の、目付きの鋭い男だった。眼鏡をかけているけど、なんか不良っぽい感じ。しかも私の顔を見た瞬間に、化け物にでも遭遇したようなびっくり顔をした。

 所長が私を紹介すると、嫌そうな顔であー、どうもとか言って中に消えてしまった。

 態度悪すぎ。



 ね?やな感じでしょ?



 所長は苦笑いしてた。

 一階の部屋に入ったら、テーブルの上に弁当の袋があった。さっきの助手が買ってきてくれたらしい。悪い第一印象が少しだけ回復した。所長は、そんな助手が二階に行ったまま降りてこないのを気にしていて、急に子供っぽくなったように見えた。私はあかねが『所長と助手はラブラブ』とか言い出した理由がわかる気がした。


 歩き疲れて、おなかまでいっぱいになったせいで、ソファーで少しだけ休むつもりが、思いっきり爆睡してしまった。しかも所長の肩にもたれて。所長も私にもたれて寝てた。平岸家からの呼び出しメールではね起きた。夕飯は外で食べるから早めに帰ってこいと。4時だった。昼からずっと、よその、しかも男の人がいる家で居眠りしてた自分にびっくりした。所長と一緒にいると、警戒心がまるで働かなくなる。さっきの森だって、別な人ならまずついていかない。女の子の誘拐や監禁が日常的に話題になる国で女性に生まれると、ありとあらゆる人や場所を警戒しなきゃいけなくなる。親しい恋人や親戚でさえも。しかも田舎の山奥でそんなことになったら、誰も気づいてくれない。


 私は元々、人をあまり信じない。いじめにあってからますます信じなくなった。

 でも、所長はそんな不信を簡単に飛び越えてしまう。

 雪の上を歩くように。

 なぜだろう?


 隣でぼんやりとまばたきをしている所長を見ながら、私は、うちのバカに隠し子がいないか聞いてみようかな、なんていう変なことを考えた。それくらい、偶然会った他人とは思えなかった。



 帰り、玄関を出たところで、所長が走って追いかけてきた。何か言いたそうだったけど、



 ごめん、なんでもない。



 そう言って中に戻ってしまった。

 すごく寂しそうに見えたから、明日出発前に挨拶に来ますからと叫んでおいた。聞こえたかどうかはわからないけれど。


 私は明日帰る。

 4月にはどうせまた来るけど、でも、何かが気になった。このまま帰っていいんだろうか?なぜかすごく心配になってきた。助手はもう帰ってるから、何かあっても大丈夫だとは思うけど。



 所長はなぜ、ここにいるのだろう?

 年末から、ずっと一人で。





 平岸家の車でレストランに行った。なぜかママと純也さんがいない。



 偉い先生だかを訪ねて札幌ヨ。

 あの料理攻撃から逃れられてせいせいするワ。



 あかねがひどい。贅沢な悩みだけど、『作りすぎ』がいかに半端ないかは年末年始で十分わかったから気持ちはわからなくもない。純也さんの方は、町内の友達に会いに行ったそうだ。

 またあのヨギナミがいるレストランかと思ったら、違った。別な町の、古風さを演出した外観のレストランだった。まわりに建物も町もないところにポツンと建っている。なのに新年早々開店してて、広大な駐車場は満員、待たないと座れないくらい混んでいた。車社会独特の現象なのかも。町中にある店より人気がありそうだ。ステーキ定食。味もボリュームも上々。



 せっかく母さんが旨くて健康な飯作っても、学生が喜ぶのはこういうところだったりするしなあ。難しいんだよなあ。



 平岸パパがぼやいていた。あかねはデザートのパフェとジェラートと杏仁豆腐を全部頼みたいと言い出した。3人で違うの頼んで分けようと言ったら、



 ヤダー!!オヤジが口つけたものなんか触りたくない!



 と怒られた。

 その瞬間の平岸パパの悲しげな顔と、照明をまばゆく反射するハゲ頭の輝きは、私の心に悲しいほど深い印象を残した。



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