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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2018年3月

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2018.3.2 金曜日 サキの日記

 所長が神戸に帰る日がやってきた。

 朝3時頃に目覚めてしまってそのまま寝付けなかった。どうしよう。去ってしまう前に何か言っといた方がいいんだろうか、と考えたけど、何もいいことは浮かばない。

 朝食を食べてすぐ、研究所へ向かった。

 荷物はもう運び出しが始まっていた。秋倉では引っ越し作業も幸福商会がやる。所長はスーツケースと、シュネーが入ったキャリーケースのそばにいた。


 かま猫が見つからないんだ。


 私を見るなり、所長が言った。

 2人で建物内やまわりをひととおり探したけど、この時点ではかま猫はどこにもいなかった。元々野良猫だったから、遠くに遊びに行ってしまったのかもしれない。


 このままじゃ出発に間に合わないよ。


 所長はかなりあせっていた。


 見かけたらすぐにつかまえて、僕に連絡してくれない?


 そうすると約束した。

 キャビネットやソファー、カウンターにあった椅子。慣れ親しんでいたものがどんどん外に運ばれていき、1階の部屋は空っぽになった。


 長かったようだけど、あっという間だった。


 所長が空になった場所でつぶやいた。


 僕は過去にさいなまれてここに来たけど、新しい思い出ができた。

 つらい記憶があっても、生き続けていれば新しい過去ができて、それが自分を支えてくれることをここで学んだ。


 ひとりごとのようだった。

 秋倉で過ごした思い出は、これからも私達を支えてくれるだろう。あまりにも変わっていて、それでいて普通で、めちゃくちゃだけど平和な毎日だった。

 本当にこれで終わっていいんだろうか。

 何か、所長に言っておかなくてはいけないことがあるのでは?

 そう感じて気はあせるのに、口からは何も言葉が出てこない。

 そのうちに平岸パパがやってきた。所長を車で空港まで送ると申し出たのだった。

 スーツケースをつかんで、所長が車に入っていくのを、私は黙って見ていた。

 本当に、行ってしまう。

 行ってほしくない。

 でも、何も言えない。

 所長は前を向いて新しい人生を始めようとしている。私には止められない。

 

 サキ君。


 所長が車の中からこちらを見て笑った。


 今まで、本当にありがとう。

 サキ君がいなかったら、僕は──


 それ以上は、向こうも言葉にならないようだった。言いたいことがたくさんあるのは、何も言わなくても伝わってきた。秋倉で過ごした日々の全て、語り合ったことの全て──


 気をつけて行ってください。


 ようやく口に出せた言葉は、それだけだった。私って嫌な奴だ。あんなにお世話になったのに、あんなにいろいろあったのに、気のきいたセリフの一つも言えないなんて。普段何のために文章を書いているんだ。自分が情けなくなってきた。

 

 元気で。


 その言葉と同時に、車は走り出した。見えなくなるまで立ち尽くしてから、


 ──かま猫を探さなきゃ。


 と思った。今私にできるのはそれだけだし、何かしてないと悲しみに打ちのめされそうだった。


 所長は、本当に行ってしまった。


 予想をはるかに超えてそれは、私にとってつらい出来事だった。所長はすでに私の一部になっていて、急に引きはがされたような痛みを感じた。こうなるなんて昨日までは全然思ってなかった。

 なぜ気づかなかったんだろう。

 今まで所長と一緒に過ごした日々がフラッシュバックしてきて、大声で泣きたくなるのを必死で我慢した。


 かま猫〜。


 私は叫びながら建物のまわりを歩いた。入り口にはもう鍵がかかっているのでもう中に入ることはできない(合鍵はもう業者に回収されていた)。この『中に入れない』ということも私を打ちのめした。今まで自由に使っていた場所はもうない。この建物は来週中には取り壊されると聞いている。

 かま猫は、あっさり見つかった。

 裏の、例の割れ目に戻ってきていた。中にちょこんと座って、何も知らないのんきな目でこちらを見返していた。


 かま猫、おいで。


 私は手を伸ばして声をかけた。


 この建物はもうすぐ取り壊されちゃうんだよ。そこにいたら瓦礫に埋もれて死んでしまうよ。こっちにおいで。


 言葉が通じたのか、単なる気まぐれなのか、かま猫はあっさり出てきてくれた。すぐに抱き上げた。もう離さない。


 一緒に東京に行こうね。


 私はかま猫をアパートに連れて帰った。

 今、かま猫は私の部屋を、興味深げに探索している。知らない所に連れてこられてかわいそうだなと思ったけど仕方ない。この子を死なせるわけにはいかない。秋倉での、あの研究所での暮らしの象徴みたいなかま猫。所長と一緒に過ごしていた猫。

 私は約束を破ることにした。

 かま猫を見つけたことを所長には教えないことにした。

 だって、この子は私のものだから。

 これから、この子と一緒に新しい生活を始めよう。新しい思い出を作って所長のことは忘れよう。


 文章を書きつづけよう。全てを記録するんだ。

 だって、それが私だから。






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