2018.1.18 木曜日 研究所
もうピアノのレッスンはないのに、木曜にここに来るのがクセになっているのか、保坂がやってきた。結城とは今でも連絡を取り合っているらしい。あるピアニストの話で口論になりかけたという。
俺はピアニストもタレントみたいにテレビに出たりネットに動画出したりして自分をアピールするべきだと思うんですけどね。
結城さんはそういうの大嫌いらしいんすよ。ピアニストはあくまでもピアノだけで勝負すべきっていう。でもそれじゃ、自分の存在を他人に知ってもらうのは難しいですよ。
あいつ変なところが頑固だからね。
女には軽いくせに。
あ〜なんか言ってましたね。サックス吹いてる女の子がかわいいとか。
変わらないね、そういうとこ。
久方と保坂がそんな話をしていると、
どういうことですか?
いつのまにか、後ろに早紀が立っていた。腰に手を当てて足を大きく開いて立ち、怒りのこもった目で2人を見ていた。
やべえ。
保坂が小さくつぶやいた。
2人とも、結城さんがどこにいるか知ってて、私に黙ってたんですか!?ひどくない!?
ごめん。
久方がつぶやいた。早紀はひとしきり2人をにらんでから、ソファーへ行って座り込み、背中を丸めて頬杖をついた。そして、しばらく動かなかった。
結城さん、札幌のジャズバーでピアノ弾いてる。
保坂が言った。
そこの楽団と仲良くなって、一緒にジャズシンガーの伴奏してる。
早紀は止まったまま動かない。ポット君がコーヒーを運んできて早紀の目の前に置いたが、それにも手をつけようとしない。
何かお菓子持ってこようか?
久方が言うと、
やめてくださいよ、子どものご機嫌取りみたいなの。
早紀が言葉を発した。
2人とも、私に気を使いすぎです。
それから、1回伸びをして、コーヒーに手をつけた。保坂は『帰ります』と言って出ていき、久方は早紀の隣に座った。
結城さん、元気にやってるんですね。
早紀がコーヒーカップを持ったまま言った。
あいかわらずピアノ弾いて、女の子に色目使って。
奈々子のことが吹っ切れてもそこは変わんないんですね。
そうだね。
私もそうです。ここに来ていろんなことを乗り越えて成長したつもりだったのに、元の嫉妬しやすい性質は変わらない。
人の本質は3歳から変わらないって言ってる人いましたけど、それ、本当なんですね。
僕も、橋本がいなくなっても変わらなかった。
久方が言った。
あいかわらずいろんなことを心配しながら、ぼんやり本を読んでる。
何を読んでるんですか?
詩集だよ。
久方は本を持ってきて、堀口大學の『夕ぐれの時はよい時』という詩を早紀に見せた。
『夕ぐれの時はよい時
かぎりなくやさしいひと時』
早紀が最初の2行を声に出して読んだ。
所長らしいですね。
学生の頃、詩ばっかり読んでいたことがあった。今思うと、自分は恐ろしい考えを抱いていて、世界を怖い場所だと思っていたから、詩の世界に平和を見出したかったのかもしれない。
でも今は、この詩が実現したみたいに平和だ。
すると早紀が、
平和って、自分の心が決めるんですね。
と言った。それから、
私はどうしてすぐに平和を乱しちゃうんだろうなあ。
と言いながら立ち上がり、
帰ります。騒いですみませんでした。
と頭を下げてから、出ていった。
少し他人行儀な感じがして久方はさみしくなったが、結城のことで心の折り合いをつけるのが難しいのだろうなと思い、気にしないことにした。そして、思いつきで夕ぐれを見に行くことにし、コートを着て雪原に出ていって、夕日が雪面を輝かせる様に見とれた。
何も変わらない。
自然の美しさも、それを感じる自分も。




