2018.1.6 土曜日 研究所
結城さん、札幌のジャズバーでピアノ弾いてるらしい。
画面の向こうの駒が笑った。
今度一緒に演奏会やるかって話してるんやけど。
そうか。
久方はひざに乗ってきたかま猫をなでた。
一人で、平気?
平気だよ。少しさみしいけどね。
でももうすぐ神戸に帰れるし、今、荷物をまとめるために掃除してるところ。長くいたからモノが増えちゃって。
サキちゃんとは何もないんか。
ないよ。
久方は真顔で答えた。
元から、何もなかったんだ。
モーツァルトのピアノ協奏曲をかけながら床にモップをかける。猫達が遊びと勘違いしてまとわりついてくる。かわしながら廊下に移動すると、そこではポット君がいて、変な電子音で鼻歌を歌いながら壁を拭いて回っている。
昔、結城とポット君がケンカしてたっけなあ。
2階へ行くと、廊下の一番奥に見事なクモの巣が張ってあった。久方はしばしその造形に見とれてから、かわいそうだが仕方ないと思い、クモを外に逃がした後、巣をすべて取り除き、廊下全体をきれいにした。
かつて、ピアノか響いていた場所。
今は、風の音しか聞こえない。
久方は空になった結城の部屋をしばし眺めてから、モップをかけ、窓を開けた。
きれいに晴れていて、山並みが美しく見える。
その下はまっすぐな雪の白がどこまでも続いている。
絵みたいな景色だな。
と久方は思った。
でも、遠くから見るより、あそこに実際に行った方が、いろいろなことを感じられるだろうな。
久方は出かけることにした。
玄関を出るとさっそく、冷たい冬の風が出迎えに来る。驚くほど澄んだきれいな風だ。
雪原は日光できらめいている。雲の動きで日差しが動くたび、光と影がその表情を変える。
久方はまっすぐに歩いていった。そして、山の頂が正面に見えるあたりで立ち止まった。
光が、降りてきた。
雲の隙間から、ちょうど真上に。
ああ、きれいだ。
久方は空に見とれ、それから、きらめく雪の表面に見とれた。こんな美しい景色の中にいられたら、何もかもどうでもよくなる。
それから、光を手で受け止めるかのように、手のひらを前に差し出した。冬の太陽の力が、目に見えるかのようだった。
しばし自分の手を見つめて、それから、建物に戻っていった。
ポット君が廊下にモップをかけていた。
ポット君は結城がいなくなってさみしくないの?
久方が聞くと、ポット君は怒ったような半円の目を表示した。『あんな奴、思い出したくもねえ』と言いたいようだった。
わかったよ。
久方は笑いながら言った。
少し休憩しようか。外は寒くて冷えてしまったからホットチョコレートを作って。それから、フィンランドのポルカを聴こう。
すると、ポット君はうれしそうな顔を表示して、キッチンに向かって走っていった。久方は部屋に戻り、カウンター席に座ると、まだ見飽きないのか、窓の外の空をじっと見つめた。
残りの日々はこうやって過ぎていく。
たぶん、これでいい。
結城は先に進んだ。自分もこれから前に進む。昔のわだかまりは全て解けた。もう北海道にいる理由はない。
だけど──
サキちゃんとは何もないんか?
駒の声がよみがえってきた。久方は考えまいとした。ポット君がホットチョコレートを運んできた。久方はそれを一気に飲もうとして熱さにむせ、心配したポット君に背中を叩かれた。ものすごく痛かった。




