2017.12.27 水曜日 研究所
朝6時、まだ暗い頃に久方は目覚めた。デスクランプをつけ、昨日読みかけだったカズオ・イシグロの『夜想曲集』の続きを読んだ。終わった頃7時になったので着替えて一階に降りて顔を洗い、朝食のトーストとオムレツを焼き始めた。外は曇っているが、時々日がさしてきて窓の下にきれいな模様を作る。それに気を取られてオムレツが少し崩れてしまった。
一人で朝食をとっていると、槙田利数から『昼頃行く』とLINEが入った。昔の友人と話すのは久しぶりだ。楽しみにしながら時間つぶしにウクレレの練習をする。コードを4つほど覚えた。そろそろ簡単な曲に挑戦してもいいかもしれない。
友人のためにサンドイッチを用意し、地下からイギリスのビスケットを取って戻ってきた時、ちょうどよくインターホンが鳴った。
そうか、あいつはもういなくなったのか。
槙田はコーヒーを飲みながら少しぼんやりした目をした。橋本とケンカしたことがある男なので、昔のことを思い出しているのだろう。
どう?幽霊から解放された気分は。
それが、思ったよりさびしいんだ。前はあんなに嫌ってたのに。なんだかんだ言ってあいつは、どこかで僕を支えてくれていた。それに気づくのが遅かったんだと思う。
久方はそう言ってから、
結城もいなくなったし。
と付け足した。
あの人おもしろかったよな〜。今どこにいるの?
わからない。たぶん札幌のどこかでピアノを弾いてるんじゃないかな。
それから槙田はいつも通り家族自慢を始めた。娘がかわいくてしょうがない、こないだアンパンマンのイベントに連れて行った、奥さんとも仲が良い、産休を取った、そんな話を。
久方はぼんやり聞きながら、自分にも家族を持てる可能性はあるのだろうかと考えた。早紀と一緒に暮らしている自分を想像した。彼女の腕の中にはかわいい赤ん坊がいる──
いや、そんなことあり得ない。
久方は頭を振って想像を払った。
どうしたの?
何でもない。サンドイッチ食べて。昼まだでしょ。
久方はサンドイッチの皿を槙田の前に押し出した。槙田はものすごい勢いで全て平らげた。
本当に神戸に帰るの?
槙田が尋ねた。久方はうなずいた。
もったいないな。北海道はお前に合ってると思うけどな。
うちの大学で職員募集してるから、どうかなと思ったんだけど。
ありがたい話だけどやめておくよ。
しばらくは家族と過ごしたい。
家族ね。
槙田が笑った。
やっと本当の家族だと思えるようになった。
久方は言った。
僕は今まで自分は捨てられた子だ、本当の子じゃないって悩んできた。でも、そんなことは、父さんと母さんにとってはどうでもいいことだったんだ。あの人達は最初から僕を自分の子どもとして育ててくれていた。僕が内にこもってしまってまわりを見ていなかったから気づかなかっただけだ。
もう、そういうのはやめにしたい。
それから久方は、クリスマスパーティーで自分そっくりの像を叩き割った話をできるだけ面白おかしく話した。槙田は手を叩いて笑い、
俺もそのショコラティエに頼んでみようかな。
と言った。
え?槙田に間違ったイメージなんてないでしょう。
いや違うよ。ゼミで学生に見せて、どんな反応するか見てみたいんだよ。ついでに叩き割る時の顔もチェックしたい。俺をどう思ってるかが出そうじゃん。
槙田は大学の愚痴をいろいろ話した後、
じゃ、そのショコラティエんとこに寄って帰ろうかな。
と言って立ち上がり、
お前がいなくなると、さびしくなるな。
と言った。
せっかく北海道にいるうちに、利尻島にでも行って高山植物でも調べたら?あ、でももう寒いか。
それもいいかもね。でも僕はこの町が気に入っているから、残りの時間はここで過ごしたい。
久方が言うと、槙田はニヤリと笑った。
恋の方もがんばれよ。好きな子がここにいるんだろ?
と言って出ていった。
結城だな。きっと余計なことを話したんだ。
久方はそう思いながら皿を片付けた。かま猫がキッチンまでついてきて、足元にすりよってきた。久方はおやつをあげることにした。シュネーも近寄ってきた。
君達、3月には神戸に行くんだよ。
久方は猫に話しかけた。
ここより暖かいから気に入ると思うよ。家は狭いけど。
言いながら、猫が環境の変化に弱いことを考えて少し心配になっていた。そして、先程槙田と話しているときにうっかり見てしまった、早紀と結婚している自分のビジョンを思い出した。
何を考えているんだ、僕は。
早紀とは10歳近く歳が離れているし、向こうは久方と付き合う気はないとはっきり言っている。なのに、なぜ自分はこんなに諦めが悪いのだろう。3月からは新しい生活が始まるのに。
久方は気分を変えるために散歩に出た。今日は晴れている。空が異様に青い。地面の白と木々の黒とのコントラストがひどく、地上の色のなさは、かつて迷い込んだモノクロの森を思わせた。
いや、もう僕は、あんな世界に迷い込んだりしない。
何か色を見つけようと久方は雪を踏んでいった。雪の下の草がまだ緑色だ。
みどり。
本当の母の名前。
言葉遊びでもなんでもなく、自分はこの北海道の大地から生まれたのだ。だから一度戻って来る必要があったのだ。自分自身を見つけるために。
久方には今やっとそれがわかった。
林の道に戻る。木々の影が雪の上に切り絵のような模様を作る。雪はほんのりと空の色を映している。木々の間から見える青空は、モザイクのように美しい。
この美しさとも、もうすぐお別れだ。
でも大丈夫。神戸に戻っても、自分はきっと同じような美しさを見つけることができるだろう。ここでいろいろなことがあって、おかげで自分を知り、心を、悲しみや怒りを浄化することができたから。今度こそ、本当の故郷の姿を、家族や友人の姿を、はっきり見ることができるだろう。幽霊のものとしてではなく、自分のものとして。
久方はしばし空に見とれた後、ゆっくりと建物に戻っていった。




