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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年11月

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2017.11.28 火曜日 研究所

 昔の出来事が不意に蘇ってくる。心臓が激しく打って足元が震える。それはよくあることだ。

 久方は何の気なしにテレビをつけた。すると、虐待を受けた子どものケアの特集をやっていた。──それがきっかけで自分が小さかった頃のことを思い出した。母親に殴られたり、罵られたりしたことを。

 テレビは、今はそういう子どもを保護する場所があると報じている。

 久方は動かずに、話題が何でもないスポーツに移っていくのを見ていた。頭の中は子どもの頃に戻っていて、いかにも今自分が殴られているかのような気分を味わっていた。殴られた腹のあたりに違和感があった。


 大丈夫。

 これは昔の話だ。もう過ぎたことだ。


 久方はそう言い聞かせながらテレビ画面を見た。元プロ野球選手が、現役の選手にふざけたインタビューをしていた。


 ほら、世の中は平和じゃないか。

 今はもう何も起きていない。


 かま猫が足元にすり寄ってきた。シュネーもミャーミャー鳴いている。そうだ、猫達にエサを与えなくては。

 久方はキッチンに行き、猫達のエサを運んでから、自分のためにコーヒーをいれた。テレビは消し、カウンターの席で外を眺めた。

 景色が白くなっている。夜の間に雪が降ったらしい。


 ああ、僕一人が勝手に動揺していても、

 自然は何事もなく動いているなあ。


 久方はそう思いながらコーヒーを飲んだ。

 昔の出来事はやはり消えない。たまにふっと現れて今の自分を脅かす。でも、やり過ごせる。待っていればおさまって去っていく。これからは、自分はそうやって生きていくのだろうなと久方は思った。


 午後、久しぶりに早紀が現れた。


『いい人』についてずっと考えてたんですけどね。


 コーヒーを一口飲んでから、早紀が言った。


『人間関係を大切にする人』ではないかと思うんですよ。

『いい人』って言うと、なぜか『都合のいい人』とか『損をする』とか言われるけど、実際はそうじゃないと思うんですよ。適度に人に気を遣ってまわりの人といい関係を築けるひとが『いい人』で、世の中にとっても、本人にとってもいいことのはずなんですよ、それは。


 それから早紀はモンロワールの木の葉チョコを手にとって口に入れた。外からは風の音がしている。かま猫とシュネーは暖房の近くで丸まっている。

 

 ああ、今、幸せだ。


 久方はそう思っていた。目の前で早紀が話していて、猫達がのんびりしている。心は安らかだ。これがずっと続けばいいのに──と思った瞬間に、午前中の名残りなのか、昔の映像が頭をかすめる。慌てて振り払う。


 上手く説明できないんですけど、いい人で『ある』という状態と、いい人に『なろうとする』のとではだいぶ違うんじゃないかと思うんですよね。

『いい人』というのはあくまで人間関係を大切にした結果生じる『状態』であって、そこを目指してわざと行動を変えたり、人に気に入られようとして本心にないことをするのとは違うんじゃないかって──


 早紀はひたすら持論を語りながら木の葉チョコレートを減らしていく。窓の外に一時、鳥が来て、猫達が動いた。でもすぐに飛び去っていき、猫達も元の位置に戻った。


 ──結局、人に気を遣えるだけ、みんないい人なのかなって思ったりしますね。河合先生が『みんな』って言葉は使うなってよく言うんですけど、この場合はいいんじゃないかって。


 そうだね。


 久方は穏やかに相づちを打ってから、


 サキ君、今はもう、昔のことを思い出して苦しくなったりしない?


 と尋ねた。


 今でも一日に一回は昔を思い出したりしますよ。でも、前みたいに動揺することはなくなったかな。うまく気をそらせるようになったというか。佐加が面白い動画を教えてくれたりしますよ。あと、最近また本を読むようになりました。ほんとは受験直前だから勉強しなきゃいけないんだけど──


 早紀はモンロワールの最後の1枚を口に入れてから、


 そろそろ帰りますね。受験勉強しないと。


 と言って去っていった。

 風が窓を揺らした。見ると、雪がちらつき始めていた。今年の冬は今までとは違うことになりそうだ。結城も幽霊もいない冬。早紀と過ごす、秋倉での最後の冬。

 午前中の名残りは消え、久方のまわりにも内側にも、静寂だけがあった。

 全てのことはこうやって通り過ぎていく。

 これからも自分は、たまに昔のことを思い出しながらも、平和に生きていくことができるだろう。

 シュネーが足元に絡みついてきた。お腹が空いたのだろう。久方はキッチンに行って猫のエサを出し、これからを生きる自分のために、ちょっと手の込んだ夕食を作ることにした。




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