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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年11月

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2017.11.25 土曜日 研究所

 ここ数日、久方創は毎日人に会っていた。会わずにいられなかったと言った方が正しい。あの広い『研究所』に一人でいるのは、やはりどこかさびしく感じられるようになってきたのだ。猫達がいるとはいえ、時間はあり余っている。ならば、今のうちに人に会っておこうと思ったのだった。

 今日、久方はタクシーを頼んで町外れに向かっていた。米田老人を最近見かけないので、どうしているか確かめたかったのだ。前はよく研究所の敷地に迷い込んできて、次男夫婦が迎えに来ていたものだが。

 米田家は、隣町と秋倉の境い目にあった。草原通りからはだいぶ離れている。この距離をよく歩いてあの建物まで来れたものだなと久方は驚いていた。家そのものの大きくて裕福な様子には驚かなかった。あの老人は、ボケてパジャマを着ていても、どこか大物の風格があったから。

 インターホンを鳴らすと、大きな鉄格子のような扉の向こうから、次男の奥さんが出てきた。久方を見て一瞬嫌そうな顔をした。『なんであんたここにいるの?』という顔だ。その表情はすぐに作り笑いに取って代わった。長居しない方がいいなと久方は思った。

 奥さんは久方を中へ案内し、重厚な木材でできた低いテーブルの座布団を勧めた。久方は手作りのキーライムパイが入った箱を差し出した。


 あら、わざわざすみません。

 でも、お父さんはもうここにはいないんですよ。

 隣町の老人ホームに入ったんです。


 奥さんの話によると、米田老人の徘徊癖は日増しに酷くなり、家族の手には負えなくなった。ちょうどそこに老人ホームの空きができたと連絡があったので、入れてしまったのだという。


 老人ホームでもしょっちゅう外に出ようとしてるらしいんです。でもあそこはスタッフさんがしっかりしているから、外に出る前に見つけてくれるんです。


 そうですか。


 久方は出されたお茶に手をつけず、その表面を見つめていた。


 しばらく姿を見なかったので、どうしているのか気になって来てしまいました。急にすみません。


 久方は下を向いたまま言った。


 僕は3月に神戸に帰るので、それまでに一度会いたいと思っていたんですが。


 あそこは親族以外面会できないんですけどねぇ。


 奥さんが言った。少し迷惑そうな口ぶりだった。久方は何も言えなくなってしまった。


 まあ、お友達と言えばなんとかなるかもしれませんけど。でも、もう家族のことも誰だかわからないくらいボケちゃってるから、会っても仕方ないんじゃないかしら。


 窓の外からびゅう、と強風の音がして、久方はビクッと身を震わせた。もう帰った方がいい、と何かが言っていたが、久方はもう少し話を聞きたいと思っていた。

 あの老人は何者だったのか。


 米田さんは昔何をしていたんですか?


 建設会社の社長をしていました。今は夫があとを継いでます。秋倉の役所の建物を作ったの、あれ、うちの会社なんですよ。本当は大手の企業がやる予定だったけど、こういうことは地元企業に任せたほうがいいと説得したのは俺だなんてずいぶん自慢してたけど、本当の話かどうかはわかりませんね。


 そうですか。


 昔は元気だったんですよ。でもお兄さんが早く死んで、それで急にやる気なくしちゃってねえ……あら、もうこんな時間だわ。すみません。私出かけなきゃいけないので。


 暗に『早く帰ってくれ』と言われたようだったので、久方は急な訪問を詫びてからすぐ外に出た。宇海さんがタクシーの運転席から同情するような視線を送ってきた。



 久方は研究所に帰ってから、カウンターの席に座り、いつか、迷い込んできた米田老人を座らせた椅子のあたりをじっと見つめていた。あの存在感は今でも思い出せる。何もわからないはずなのに、部屋の空気を圧するほどで、自分の存在が小さく感じられたものだ。

 でも、それはなぜだろう?

 あの頃の自分が精神不安定だったからかもしれない。『別人』の問題で『自分』というものが揺らいでいたからかもしれない。だから、ボケたとはいえ、90年以上もの人生をしっかりと生きてきた老人の存在感に負けたのだ。


 神戸に帰る前に、会っておきたいな。


 とやはり久方は思った。『一郎』と間違われてもいい。今の安定した自分で米田老人と向き合っておきたいと思った。

 そして、自分が歳を取った時にも、そのくらいの存在感を身につけていたいものだと思った。ボケるのら嫌だが。

 そのためには、これからの人生をしっかりと生きなければならない。

 老人になるまで、まだ先は長いのだから。




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