2017.11.17 金曜日 ヨギナミ
学校が終わった後、ヨギナミは一人林の道を歩いていた。杉浦に会うのが気まずいので塾にも行けず(教室で姿を見るのもつらい)、高条にも会いたくないのでカフェにも行けない。かといって一人で部屋にいるのも嫌だ。そこで、なんとなく向かってしまったのが、久方のいる研究所だった。
サキがここに来たくなる理由、
わかったような気がする。
ヨギナミは思った。学校の世界が嫌になった時、ここがいい逃げ場になるのだ。
玄関の階段をのぼり、行儀よくインターホンを鳴らした。
出てきた久方は、ヨギナミを見て意外そうな顔をした。
今日は塾じゃないの?
行きたくないの。
ヨギナミは正直に言った。久方は「どうぞ」と言ってヨギナミを中に入れた。廊下を進むと音楽が聴こえてきた。CDをかけているらしい。モーツァルトのピアノソナタだと久方は言った。
まさか自分がこんなことを言う日が来るとは思わなかったけど、
久方はCDプレーヤーを見ながら苦笑いした。
今、結城のピアノが聴きたくてたまらないんだ。
でも、あいつはもういないから、
リリー・クラウスで我慢してる。
結城さん、今どこにいるんですか?
ヨギナミは保坂から聞いて知っていたのだが、知らないフリをして尋ねた。
わからないよ。
どうせまたどこかでピアノに狂ってるんだろうね。
久方はヨギナミにテーブル席を勧めてから、
橋本がいなくなって、さみしい?
と尋ねた。
おっさん。
ヨギナミは急に思い出してつぶやいた。最近、杉浦のことばかり考えていて、おっさんのことも母のこともすっかり忘れていた。まだいなくなってそんなに経っていないのに。
その様子だと、大丈夫そうだね。
橋本がよく言ってたよ。『ヨギナミは旅行中も杉浦のことばっかり見てやがって、肝心の旅先の景色を見てこなかったんだ』とかなんとか。
久方が笑って言うと、ヨギナミの顔が真っ赤になった。
ごめんなさい。
謝ることじゃないよ。若い人は未来を見なきゃ。
それから久方は、
僕は今でも、一日の半分は橋本のことを考えてる。
と言った。
それはよくないってわかってるんだけどね。僕だって神戸に帰ったらやらなきゃいけないことはたくさんある。人並みに働いて生きなきゃいけない。未来を見ようって、これでもがんばってるんだよ。心の中では。
心の中では。
私も、心の中では、杉浦との未来ばかり夢見ていた。
ヨギナミは思った。
でも、それではもうダメなんだ──
今、おっさんと話したいなってすごく思ってます。
ヨギナミは言った。
どうしたらいいかわからないから。
おっさんなら、うまく叱ってくれそうな気がする。
でももう、いないんですよ。
僕でよければ、話は聞くよ。
あいつみたいにうまく答えられないけど。
久方は言った。ヨギナミは、小さい頃からの杉浦への想いをぽつぽつと話し始めた。外では雨が降り出し、やがてみぞれになって窓や屋根から音を立て始めた。ヨギナミが生まれてから今まで、ずっと鳴り続けていた音。それは、母や杉浦、あの小さな家の思い出を優しく包み込み、すべてを音楽のように流していく。
最近になって、杉浦は私に興味がない、女性として見ていないってわかるようになってきてた。でも、私は夢を壊したくなかったからずっと見ないフリをしてたの。でも、今ならわかる。少なくとも結婚はないって。夢見ていたような家庭は築けないって。
そんなことないさ。
久方は真顔で言った。
まだわからないじゃないか。人の気持ちなんて、下手すると本人もよくわかっていないし、まだ杉浦君が本心を見せていないだけかもしれないじゃない。
それに、杉浦君がダメでも、他にいい男はいくらでもいるよ。
そう言われた時、ヨギナミの頭に浮かんだのはなぜか高条の顔だったのだが、ヨギナミはそれを打ち消すように首を横に振った。
寒くなってきた。もう冬だな。
久方はそう言いながら立ち上がり、暖房の設定温度を上げ、
ポット君にホットチョコレートを作ってもらおう。
サキ君の好物なんだ。今日は来なくて残念だよ。
久方はそう言いながらキッチンに消えた。ヨギナミは、本当は早紀にここに来て欲しかったのだろうなと思い、なぜこんな優しい人に好かれているのに早紀は何もしないんだろうと不思議に思ったりした。
久方はニコニコ顔を表示したポット君と一緒に戻ってきた。
女の子が来ると機嫌がいいんだよなあ。
ホットチョコレートをテーブルに置くポット君を見ながら、久方がつぶやいた。
ヨギナミが一口飲むと、チョコレートそのままの濃いカカオ風味が口の中に広がった。思わず夢中になって飲んでいると、久方が、
ヨギナミ。
『おっさんの棚』を指さしながら言って、ニカッと笑った。
橋本のリュック、欲しくない?
10分後、ヨギナミは『おっさんのリュック』を背負って林の道を急いでいた。中に何が入っているのかまだ見ていなかった。
早足で平岸アパートに行き、自分の部屋に飛び込むと、ヨギナミはリュックをベッドの上に置き、中身を全部出した。
しわくちゃの千円札が2枚、100円玉が3枚、1円玉が6枚。
松井カフェのコーヒーチケットが1枚。
それから、なぜか、川辺で拾ったのであろう、角のない、磨かれたようになめらかな丸い小石がいくつかと、どこかで拾ったのであろうガラスの破片が入っていた。
手紙のようなわかりやすいメッセージを期待していたヨギナミは、中身がこれだけだとわかるまでリュックの中やポケットを何度もしつこく調べた。しかし、他に何もないことがわかると心底がっかりした。もっとおっさんらしいものが残っていたらよかったのに。持ち物がこれだけなんて──
しばらく少なすぎる『遺品』を並べてふてくされていたのだが、そのうちヨギナミは、丸い小石を手に取って、一つ一つ丁寧に眺め始めた。
よく見ると、ただの石ではない。
透き通っていて、きれいだ。
もしかしたら、名前のある宝石なのかもしれない。
これは、何も持たないおっさんが川や道を歩いていて見つけた『宝物』なのかもしれない。そう思えてきた。何もない所からこういう楽しみを見つけ、町中を歩き回り、あのヨギナミの家を見つけてくれたのだ。
なんという純真さだろう。
あんなに心のきれいな人には、もう出会えないかもしれない。
私もあんなふうに、大人になってからも、
きれいな心を持っていたい。
ヨギナミは一つ一つの石をライトの光に透かせてその美しさを楽しんだ後、それらを丁寧にハンカチにくるんで、引き出しにしまった。佐加に頼んで余った布を分けてもらって、この石を入れるポチ袋を作ろう。1個くらいなら佐加にくれてやってもいい。佐加はおっさんが好きだったから、この石の価値もわかってくれるだろう。




