2017.11.2 木曜日 研究所
学校が終わった後、保坂秀人は研究所に向かっていた。結城に『時々久方の様子を見に行ってやれ』と言われていたし、家にはあまり早く帰りたくなかったからだ。母は離婚後すぐ出ていったし、父は仕事を辞めたのかずっと家にいて映画ばかり見ている。息子とは口を聞こうとしない。
研究所の鍵を取り出し、『まだこれ、持ってていいのかな?』と思いながら中に入った。廊下を歩いていくと、話し声がした。
君達はいいね。いつも友達がいて。
久方の声だった。どうやら猫に話しかけているようだ。
僕は一人になってしまってさみしいよ。
あの〜!
保坂はわざと大声を出した。
わあっ!
ソファー近くにしゃがんでいた久方は驚いて飛び上がった。
保坂君、いつからそこにいたの?
ちょっと前っす。結城さんいなくなってそんなにさびしいっすか?
保坂がニヤけると、久方の顔が真っ赤になった。
ポット君が近づいてきて、白けた楕円形の目を表示した。どうやら、保坂のことは結城の仲間として認識して嫌っているらしい。
ポット君、コーヒー2つ持ってきて。
久方が言うと、ポット君は不満げな顔を表示したまま出ていった。
あのね、何ていうか──自分でも不思議なんだけど!
久方がやけに荒っぽい声で言った。
あんなにうるさいうるさいと思ってたのに、いざあいつがいなくなってピアノの音がしなくなったら、何ていうか──音楽を聴きたくなったんだ。それでクラシックのCDをいろいろ聴いてみたんだけど──
保坂が見ると、棚やテーブルの上にCDケースが散乱していた。
どれを聴いても気に入らない、でしょ?
保坂が言った。ニヤニヤ笑いながら。
わかりますよ。俺が初めて結城さんの演奏聴いた時もそうでしたもん。同じレベルの演奏をネットで探しても全然見つかんねえし、学校の音楽室のCDやレコードにも超えるものがない。
結城さんは、ヤベえピアニストなんですよ。
有名じゃないけど、本物だったんすよ。
久方さん、あれを毎日聴いて慣れちゃったら大変すよ。どのピアニストもしばらくは気に入らないはずです。
じゃあ、チェロにするよ。
友達がCDを出したから。
久方は、駒が最近レコーディングして送ってきた音源を流した。
保坂君、結城がこれからどうするか聞いてる?
ピアノを弾き続けるんでしょうね。
それしかできないんすよあの人。
久方がちらちら時計を見ていたので、
新橋なら、今日は佐加ん家行ってるから、いませんよ。
と保坂が言うと、久方はあからさまにがっかりした顔をした。
結城さんが前に言ってましたよ。
『新橋が本当に好きなのは久方だ。自分で気づいてないだけだ』って。
やめてよ。僕はもう振られてるんだから。
変に期待させること言わないでよ。
でもあいつほぼ毎日ここに来てるっしょ。
ここが秘密基地で、僕が友達だからだよ。
息抜きできる場所として使ってるんだよ、きっと。
そうっすかね〜?
あ、せっかくだから俺何か飯作りますよ。
保坂はキッチンに行って冷蔵庫を開けた。
バターと卵しか入っていなかった。外の戸棚も見たがろくな食糧がない。前なら、作りおきのグラタンや野菜サラダ、ローストビーフなどが必ず入っていたし、冷蔵庫も冷凍庫も食べ物でいっぱいだったのに──
久方さん。ダメです。
部屋に戻るなり、保坂が言った。
これから駅前のスーパー行って食糧買いましょう。
いいよ。一人だと作る気しないから。
ダメです!今日は俺がいるんだから行きますよ!
ほら!
保坂は無理やり久方を連れて駅前のスーパーに行き、地元のおばさん達に好奇の目を向けられながら買い物をした。帰ってから、保坂は唐揚げを揚げて黒酢をからめ、手早くサラダとトマトパスタを作った。
保坂君、料理うますぎるね。
横で見ていた久方が言った。
久方さんほどじゃないですけどね。久方さんこそなんで料理うまいんすか?
ドイツに行った時、日本の料理が懐かしくなって自分で作るようになったのと、やっぱり『これからは一人で生きていかなきゃ』って思いが強かったから、何でもできるようになろうとしてたんだよね。
食事をしながら保坂は祭りの話や学校の話をし、スマコンの変な言動を面白おかしく真似して再現したりした。久方はそれを聞いて笑った。こんなに楽しいのは久しぶりだと思った。この数週間、いろいろなことが起きすぎて、すっかり考え込んでしまっていた。
でもそれは、そろそろやめにしなくては。




