2017.10.31 火曜日 久方創 秋浜祭
だるい。
行きたくない。
きっと今日も人が多すぎてうるさいだろう。
久方はそう思いながらベッドの中でもんもんとしていた。ちょうど6時。前までは結城が迷惑ピアノで叩き起こしてくれたが、今は静かだ。誰も起こしてくれないので、ここ数日は7時頃までベッドから出られないことが多かった。
でも、サキ君に会いたい。
行かなきゃ。
早紀のことだけを考えて、久方はベッドから這い出た。
朝食を食べていると、スマホが振動した。
平岸パパが、所長も車に乗せてくれるそうです。
一緒に行きましょう。
と言ってきていた。平岸の旦那はともかくあかねまで一緒なのは嫌だなと思ったが、久方は我慢することにした。
祭りの会場は、すれ違うのも困難なほど人でごった返していた。しかもその8割は奇妙なコスプレをしていたので、まるで宇宙人の集会に紛れ込んでしまったようだと思った。人のあまりの多さに恐怖すら感じたが、早紀やあかねは何も気にせずにどんどん先へ進んでいく。
久方は途中で疲れてしまい、レストランのブースが見えてきた所で早紀とはいったん別れて、ヨギナミが用意してくれたテント裏の椅子に座り込んだ。
所長さん、人が多い所苦手でしょ?
今日は来ないんじゃないかと思ってた。
実際、どうやって帰ろうか、そればかり考えてるよ。
無理しない方がいいよ。今年の人の多さはちょっと異常だってみんな言ってるもん。あ、はーい!今行きまーす!
ヨギナミが去って行った。レストランのブースにも長い列ができていて、忙しそうだ。
久方は祭りの喧騒の中で──耐え難いほど騒がしい人混みの中で──自分本来の弱さを思った。
幽霊はいなくなった。
母との過去のあれこれにも心の整理がついた。
それでもなお残ったのは──自分自身の弱さだった。
ああ、これが自分だったな。
久方は思った。人々はこの祭りが楽しいらしい。人の多さもうるささも気にならないらしい。久方はというと、『静かな部屋に帰って、リルケの詩でも読みたい』という感情と戦っていた。今帰ったら早紀ががっかりする。それに、帰る手段がない。平岸の旦那は夜まで帰らないだろうし、宇海さんのタクシーも今日は予約でいっぱいらしい。
久方さん、来てたんですか。
藤木がコーラ片手に近づいてきた。
聞いてくださいよ。
今年も美月がスルメを盗んでいったんですよ。
警察に捕まえてもらえばいいよ。
久方は何の感情もなく言った。
久方さん、大丈夫ですか?今日人が異常に多いですけど。いつもはいない交通整備の警官まで来て『立ち止まらないで進んでください』って言ってるんで、ゆっくり店を見て回れないんですよ。
そんなにひどいの?
ひどいんですよ。俺の浜町のブースからここまで来るだけでもすっげ〜大変だったんですよ。人にもまれて。ちょっと怖いっすね。ここまで人が多いと。
一生帰れないんじゃないか──と思って久方は震えたが、すぐに思い直した。祭りは今日で終わりだ。遅くても明日には帰れる。
辰巳!辰巳〜!
うるさい佐加がやってきた。
やばいよこの人の多さ。さすがに杉浦も今日は詩吟の会やらないんじゃね?
いや、あいつはやる。『人が多い今日がチャンスだ!』とか言って絶対やる。
うわ〜どうやって逃げんのこの人混みで。
2人はどうでもいいことを話しながら消えた。
サキ君はどこに行ったんだろう?
気になったのでLINEしてみると『射的の近くで人が多すぎて動けなくなった。今保坂と一緒にいる』という。
高谷修平からもLINEが来ていた。
祭りはどうですか。twitter見てたら、
人が多すぎるってツイートが多いんですけど。
みんな動けなくなってる。
僕もレストランに閉じ込められてるよ。
久方がそう返信すると、
病院から出られないよりマシでしょ。
俺もそっちに行きたいですよ。
久方さんは健康でいいですね。うらやましい。
と。そんなことを今ここで言われても困る。
久方は立ち上がってレストランのブースを出ようとしたが、人の列で通路がほぼ埋まっていて、どちらの方向にも割り込めそうになかった。
所長〜!
早紀がやっと戻ってきた。
平岸パパが帰ろうって言ってます!
人が多すぎて危ないって!
早紀が叫んで、久方を通路に引き込んだ。そこから駐車場への道のりは、永遠に続くかと思うほど長かった。人々の動きは遅く、列はなかなか進まない。天気もどんよりとして、空は暗い。
今日は家にいるべきだったかなぁ。
久方はつぶやいた。
こんなことになるとは思ってなかったですね。
早紀が言った。
去年土日だったけどもっと普通でしたよね?なんで今年は平日なのにこんなに人が多いんでしょうね?
あかねは『世界中のオタクが集結したから』って言ってたよ。
平岸の旦那がつぶやいた。あかねはアニメ仲間を見つけてイベント会場に残っていた。
やっとのことで車にたどり着くと、久方は疲れてすぐに眠ってしまった。
所長、起きてくださ〜い!
着きましたよ〜!
久方が目を覚ますと、車はもう研究所に着いていた。平岸の旦那にお礼を言って車を見送ってから、早紀と一緒にコーヒーを飲んだ。
やっと平和が戻った。
久方は安心して、かたわらにきたシュネーをなでた。
ヨギナミはレストランのオーナーの車で帰るそうです。もう売るものがなくなったそうです。
早紀が言った。久方が時計を見ると、まだ昼の1時過ぎだった。丸一日会場にいたような気がしていたのに。
やっぱり僕は人が多いのはダメだな。
もう疲れたよ。
今日はちょっと異常ですからね。
早紀が言った。それから天井を見て、
ピアノの音がしないの、なんか変な感じですね。
と言った。久方は何か音楽をかけようかと言ったが、早紀は『いいです』と言って地下に行き、モロゾフのチョコレートの箱を取ってきた。
それからクラスの人達の安否を確認しているうちに、高谷修平の話になった。
修平、ほんとは秋倉にいたかったんでしょうね。
早紀が言った。
だから所長に嫌味言うんですよ。
気にすることないですよ。
だけどね、それで僕はわかったよ。自分がいかに些細なことで悩んでいるかって。健康で、行こうと思えばどこにでも行けるのに、怯えて行動してないだけだってね。
久方はコーヒーを飲みきってから続けた。
でもまあ、人混みも音も苦手だし、静かな所で本でも読みながら過ごすのが自分らしい休みの過ごし方だってわかってるけどね。
自分らしい休みの過ごし方ですか。
それって何だろう?うーん。
早紀が腕を組んで考え始めた。そして、
所長とコーヒー飲みながらおしゃべりすること?
と言った。久方は嬉しかったのだが、
でもそれはダメですよね、
所長はもういなくなるんですよね?
サキ君も大学は東京だもんね。
所長、本当にここを離れるんですか?
早紀が真面目に尋ねた。
ここで静かに暮らすのが所長らしい生き方じゃないですか?私にはそう見えるんですけど。
久方はどう答えていいかわからなかった。確かに、ここでの生活は心地よい。しかし、神戸の両親とも一緒に過ごしたいし、何より、仕事を探して自力で生きていかなければならない。
たぶん、ここでの生活は、
人生の長い夏休みだったんだ。
久方は言った。
自分というものを取り戻すためのね。
でもそれはもう終わりだよ。
ちゃんと自分の人生に戻って、また何かを始めなきゃ。
それから、
サキ君だって、人生はこれから始まるんだよ。
と言った。
これから。
早紀はつぶやいてから、
でも『これまでのこと』も忘れたくないですね。
と言った。それは久方も同じだった。




