2017.10.26 木曜日 研究所
朝、5時55分。
久方創はベッドに横たわったまま壁の時計を凝視していた。
今日こそ、朝の迷惑ピアノに抗議してやる。演奏が始まったら隣の部屋に飛び込んで『うるさい!やめろ!』と怒鳴って──
そんなことを考えていたのだが、今日は6時になってもピアノの音は聴こえてこなかった。代わりに、バタンという音と、ゴロゴロという何かを引きずっているような音がした。
何だ?
久方は起き上がって廊下に出た。そこにはトレンチコートを着た結城がいて、手元には大きなスーツケースがあった。
なんだ、寝てる間に消えてやろうと思ったのに起きてたのか。
結城が言った。らしくない笑い方をして。
毎日6時に叩き起こされてるから起きるクセがついちゃったんだよ。
久方は言った。
何してるの?
俺、札幌に帰るわ。
結城が言った。
ピアノは後から業者が取りに来るから。
そして、スーツケースを持ち上げて、ゆっくりと階段を降りていった。久方はその後をついていった。半分信じられないと思いながら。
結城は真っ直ぐ玄関に向かい、外に出て、車にスーツケースを積んだ。それから久方に、
悪いけど、今後車が必要になったら、宇海さんのタクシーを利用して。俺からも話はつけてあっから。あ、保坂にももう連絡しといたから。
と言った。
本当に帰るの?
久方は尋ねた。
ああ、帰るよ。
また会える?
男に会いたがられても嬉しくないんだけど。
結城は冗談ぽく笑ってから、
元気でな。
と笑顔で言い、車に乗ろうとした。
結城。
久方が言った。
今までありがとう。いろいろ迷惑かけてごめん。
それはお互い様だ。
エンジンのかかる音がした。
これからはちゃんと自分の人生を生きろよ。
結城はそれだけ言うと車を発進させた。その姿が見えなくなるまで、久方は林の道をじっと見つめていた。
しばらくして建物に戻ってから、久方は神戸の父親に電話をかけた。
結城がいなくなったよ。もう自分は必要ないからって。
そうか、幽霊もいなくなったからなあ。
これで給料払わなくてもよくなるね。
給料?何言ってる?
俺は元から一銭も払ってないで。
えっ?
あの人はなぁ、昔の自分の行いを深く悔やんでいて、タダでお前の見守りを申し出てくれたんや。タダやで。こっちも家計が苦しいから、そうでなかったら頼んでへんよ。
久方は急に全身の力が抜けて、床にへたりこんだ。
もしもし?創?どうした?電波が悪いんか?
父の声が遠くに聞こえた。それから、今までの結城の数々の言動──よいことも悪いことも全て──を思い出した。あれは全て、本人が善意でやっていた無償の行動だったのだ!
──早く言ってよ!
久方はかすれ声で叫んだ。
少し迷って、久方は昼頃早紀に『結城が出ていったよ』とLINEで知らせた。すると、まだ学校が終わっていないはずの1時頃に、誰かが廊下を走っていく足音がした。どうやら2階に行ったらしい。
数分後、予想どおり早紀が降りてきて、1階のソファーに倒れ込み、久方に背を向けて寝てしまった。
いいよ、好きなだけ落ち込んでなよ。
気持ちはわかるから。
久方は声をかけてみた。すると、
私に何もないの、おかしくないですか。
ふてくされた声が聞こえた。
私だって結城さんや奈々子のためにいろいろ自分を犠牲にしてがんばったのに、別れの言葉もなくいなくなっちゃうなんてひどくないですか。
久方は何も言わず、寝ている早紀に毛布をかけてあげた。そのうち、すすり泣く声が聞こえてきた。猫達は何も気にせずにカウンターの上で丸まっていた。
結城がいなくなったら、僕に気が移らないかなと思っていたけど、
久方は思っていた。
そんなのは無理だな。サキ君は今傷ついてるし──
カウンターに座り、窓の外を眺めた。秋倉の草原は今日も変わらない。今日は朝からずっと曇っていて、風もあまりない。静かだ。
結城はきっと、ピアニストをやり直すよ。
久方はなぐさめるように言った。
そのうち演奏会とか始めるかもしれないから、
また会えるよ。
もうピアノは聞きたくないです。
早紀が言った。
そっか。
もう何も言わない方がいいなと久方は思った。幸か不幸か、そのうち平岸あかねが乗り込んできて『夕飯できてんだけど!?』と怒鳴り始めた。
今日ごはんいらないです。ほっといてください。
早紀は皆に背を向けたまま言った。
あんたがごはん食べたくないなんて重症ね。
あかねが驚いた顔をした。そして、
結城さん、ほんとに出てったの?
と久方に尋ね、久方は黙ってうなずいた。それからあかねは早紀を起こそうといろいろちょっかいを出したりソファーから引きずり下ろそうとしたりしたが、早紀は全く動こうとしなかった。
しょうがないわね。ハゲの車を呼ぶわ。
あかねがスマホで父親を呼んだ。『ハゲ』こと平岸の旦那がすぐにやってきて、娘と2人で早紀を担ぎ上げて車で運び去っていった。
サキ君、大丈夫かな。
久方は心配だった。気を取り直して夕食を作ろうとしたが、もう自分一人しかいないということに気づき、なんとなく悲しくなってきたので、松井カフェに行くことにした。
そこには本堂まりえがいて、結城がいなくなったことを話すと、
え〜!?公民館のおばあちゃん達ががっかりしますよ!
結城さんのために張り切って編み物してたのに!
松井マスターも、
あの人、ここでは態度悪かったけど、
町の人には人気あったわねえ。
と言った。
久方はコーヒーを飲みながら、結城のことを思った。確かに態度は悪かった。でも、人として全力で自分にぶつかってきたのはあいつが初めてだったかもしれないと気づいた。それまで久方はまわりに『傷ついていて、配慮が必要な人』としてどこか腫れ物のように扱われていた。しかし結城はそうではなかった。始めから、バカにする代わりに特別扱いもしなかった。
もしかしたらすごい奴だったのかもしれない。
久方は急に、失ったものの大きさを実感し始めた。




