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片影  作者: あかるい
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水蜜桃


 文吾さんが女を抱いているのを、あたしは知っている。こうして麦茶が温くなっていく間にも、せっせと抱いているのを、あたしは知っている。文吾さんはどういう風に女を抱くのだろう? ご飯の時も、お風呂の時も、買い物の時も一緒にいるのに、それだけは分からなかった。あたしは一度も文吾さんに抱かれたことがなかったのだ。ここに来て、もう一年も経つというのに。

 この家にいると、何だかひとつの置物になったように感じる。木彫りの竜とか、囲碁の盤とか、やけにリアルなフランス人形とか、どこから持ってきたの? という物に囲まれて、あたしは一日を過ごす。今日は飲みに行く予定だった。かつての仕事仲間とどんちゃん騒ぎをする約束をしていた。けれども、文吾さんが許してくれなかったので、こうして置物と化している。彼はあたしが男の子と遊ぶのが我慢ならないのだ。不本意。とても不本意である。自分は女とやりまくっているくせに。でも、文吾さんがタダでこの家に置いてくれるから。セリーヌやシャネルの鞄を買ってきてくれるから。ときどきこっそり遊びには行っているけれど、たいていは素直に話を聞いている。

 文吾さんは大学の先生だ。とは言え、そんなに偉いわけではないらしい。ただの講師だ。ただのなんて言ったら、またたしなめられそうだけど。まあ、気ままに研究している講師なのだと言っていた。専攻は確か漢文学だったかな。あたしは本なんか読まないし、そもそも大学にも行ったことがないので、よく知らない。ムズカシイことは分からないが、文吾さんのお家は代々たくさんの土地を持っているので、お金には困っていないのだと言う。四年前に父が死んでから、天涯孤独の身なんだよ。一人暮らしには広すぎる家で、文吾さんはそう言って笑った。

 金に困らなかった人はちゃんとした人間になれないんじゃないか、というのはあたしの持論だ。文吾さんは、要するに道楽や趣味としての職業なのだから、面白みもくそもない。十八の頃からガールズバーで働いてきたあたしは、それなりに色々な女の子を見てきた。そしてそれと同じくらい、色々なおじさんを見てきた。ダブル不倫をしているおじさん、お国の大臣を務めているおじさん、大きな会社を経営しているおじさん、テレビによく出ているおじさん、右寄りの、または左寄りの思想の中心に立つおじさん……それぞれの顔には、それぞれの地獄が表れていて、あたしはそれを見るのが好きだった。恵まれた人間など、この世には居ないのだと思えたから。ところが文吾さんはどうだろう? 誰に連れてこられたわけでもなく、突然ふらりとやって来た、三十代後半のおじさん。彼の顔には何の地獄も表れていなかった。三度目の来店で、彼はあたしに言ったのだ。僕の家に来ませんか、と。お小遣いも毎週渡しますし、必要なものは購入しますし、家事もしなくて良いですし。何も求めませんから。僕の家に来ませんか? 一般的にいい顔なのだろう、そのおじさんの顔には、あたしが見てきた苦労の「く」の字も無かった。それは逆にグロテスクとも呼べるものであったので、あたしは気味が悪くなった。

 あたしは可愛い。確かに可愛い。あたしは小学三年生から授業についていけなくなったし、未だにお釣りの計算もままならないのだけど、見た目だけは本当に良かった。テキトーに相槌を打って、目が合ったらにっこり笑っておけば、みんなが好きになってくれるのだ。おじさん達はあたしを「知的だ」なんて言うけれど、掛け算もろくに言えない、総理大臣のフルネームも漢字で書けないようなあたしが知的だって? 本当に笑える。そう言って女の子たちの間でネタにしていたのだが、文吾さんは笑わなかった。きみは賢い。きみのようになりたい、とぼそぼそ呟くものだから、「逆に怖い」という評価がバックヤードで下された。でも、あの人みなみのことすごく気に入っているし、金払いも良いし、パパとしては有能じゃない? 仕事仲間の一人が言う。何だか束縛が激しそうだし嫌だなあ、とあたしが言うと、確かにーと同意の声が上がった。現役大学生で、普段はあまり話に加わらない同い年の美里が、「神曲っぽいのよね」と言った。

「しんきょく? 新しい曲?」

「ダンテの『神曲』。あんたはきっとベアトリーチェなのよ」

「ベア……何だって?」

 美里によると、ベアトリーチェとは、煉獄巡りをするダンテを天国へと連れて行く案内人らしい。何度目かの来店の際、そう言われたことを文吾さんに話したら、彼は少し恥ずかしそうに笑った。挙げ句の果てに「今度は美里さんも指名する」なんて言って、彼女を喜ばせたっけ。文吾さんには言わなかったけれど、ダンテは二十代の頃に九歳のベアに一目惚れして、それからずっと追いかけていたらしい。プラトニックな愛。ダンテを導く女神。美里はそう言う意味も含めて話したのだろうが、あたしは何だか気持ちが悪かった。案内人だって? もし、文吾さんがあたしにそう言う意味を見出しているのならば、てめえの道くらいてめえで歩けや、とあたしは思うのである。そんな美里とは、仕事を辞めた今でも頻繁に連絡を取り合う仲だ。

 その日も文吾さんは遅くに帰ってきた。毎週火曜日は遅いのだ。また誰かを抱いてきたのだろう、彼の身体からは、甘ったるいコロンの匂いがした。文吾さんはシャワーを浴びると、あたしが寛いでいる部屋に来た。無視してうつ伏せのままスマホをいじっていたら、近づいてきて、あたしの隣に座った。仰向けになり、蛙みたいに足を開いて手を伸ばすと、文吾さんは足の間に入ってあたしを抱きしめた。文吾さんのハグは力強い。思いを込めて、強く抱く。どうして男の人はハグに思いを込めるのだろう? 達規も悠人も俊も兵吾も、みんなハグが強かった。文吾さんは、お腹空いたでしょう、と言ってあたしの頭を撫でた。飲み会に行っていないかどうか、確かめているのだ。お腹空いた! とあたしが手足をじたばたさせると、彼は愛おしそうな目で見つめてきた。子供のような立ち振る舞いは、時に、男を喜ばせる……。

 スマホでピザとポテトとコーラを頼んだ。文吾さんの背中にもたれ掛かって、あたしはクーポンの使い方を教えてやる。文吾さんが面倒くさそうにしているのが分かる。あたしからするととんでもないことだ。一円も無駄になどしたくない。この前、文吾さんにキャッシュレス決済を教えたら、文吾さんたら、ペイペイを使えるから他のペイはいらないなんて、言いやがった。その時いちばん得する決済で払わないと損するのに。直ぐに届いたマルゲリータピザは、もちもちしていておいしかった。おいしいね、と言うと、文吾さんは残りのピザをくれた。女と食べてきたからいらないのかも。でもあたしにとってはラッキーなので気にしない。こういう調子で、日々を過ごしてきた。そうめんも、生姜焼きも、焼き鳥も、スコーンも、コーヒーも、砂糖をまぶしたきなこパンも、彼はたいていあたしに分け与えた。文吾さんはあまり自分から話しかけない。あたしもずっとこの家にいるので、話すことがない。それでも、夕食の時間は一緒だった。どちらかが食べなくても、一緒にいなければいけなかった。暗黙のルールである。彼があんまりにもあたしを見るので、膝を立てて食事することを辞めた。箸の持ち方もマスターした。食器洗いや簡単な料理もできるようになった。とにかくそういうことを積み重ねていって、少しずつ、あたしは文吾さんの生活に馴染んでいったのである。

 八月も近くなると、文吾さんはパソコンと向き合う時間が増えた。学生のレポートを見ているのだと言う。一方あたしは目の前にある桃の絵を描いていた。文吾さんが買ってきてくれたスケッチブックは、ざらざらしていて描きやすい。お絵描きがマイブームのあたしは、「これはコピペだなあ」と呟く文吾さんに気付かれないように、剥かれた桃を手に取り、口に運んだ。繊細な硝子の食器に盛られた女の皮膚のような果実。桃は水っぽいから、あんまりお腹いっぱいにならないなあ、とあたしは指についた果汁を舐めながら不満に思う。すぐ近くの林で蝉が鳴いていて、モスキート音のように耳から離れない。遠くでヒヨドリの声も聴こえる。夏だな、とあたしは思う。去年……汚く古い部屋に住んでいた時よりもいい夏だなと思う。何だろう、そう、安定しているのだ。その証拠に、あたしによってソファに置き去りにされた、豚の毛で作られた櫛には、髪の毛が一本も絡まっていない。

 胡坐をかいて座っている文吾さんのそばにいき、彼の膝に頭を置く。文吾さんは画面を見たままあたしの顎を撫でた。そろそろとお皿を引き寄せ再び桃に手を伸ばすと、「甘い?」と尋ねられた。びっくりして肩に力が入る。

「甘くてべとべとする」

「白桃だよ。水蜜桃とも言う」

「すいみつとー?」

「中国から来た桃。瑞々しくて蜜のように甘い。だから水蜜桃」

「ふうん。きれいな名前だね」

 文吾さんはあたしを見た。不思議に思って見返すと、彼は頷く。自分に言い聞かせるみたいにして数回頷く。

「きれいだと思うものを増やしていくといい」

「どうして?」

 文吾さんはそれには答えなかった。代わりに「君は何よりもきれいなのだから」と言った。あたしはふふん、と顎を上げ、気を良くして彼の左腕を自分の首に巻きつける。

「文吾さんはいろんなきれいなものを知ってる。その漢文もきれいね。五つの文字が七行に並んでいるのね」

 あたしは顔を上げず、文吾さんの太い人差し指と中指を触りながら言った。あたしはやっぱり知っている。バカな無邪気さの中に鋭い言葉を入れたとき、彼があたしを甘やかに見つめること。「中国語の性質なの? それとも、昔の中国では奇数が好まれたのかな」首を少し傾げて甘えるように見上げたら、文吾さんと目が合った。文吾さんの茶色い眼の中に、あたしが映っているのが分かった。

 文吾さんがあたしに落ちていく瞬間を見るのが、あたしは好きだ。


 最寄りの駅の東口を真っ直ぐ歩いていくと、都立図書館がある。文吾さんに言われた通り、きれいなもの探しをしようと通い始めたのだった。ほんとうは文吾さんが教えてくれた漢詩について調べたかったのだけど、いかんせんあたしは漢字が苦手で、見ているだけで頭が痛くなってくるので、たいていは画集を見ている。鳥獣戯画とか、源氏物語絵巻とか、クリムトの画集とか、そういうものはふだん、誰も借りやしない。それに平日の午前中や午後はあまり人もいないので、あたしはいつまでもそれらを眺めることができたのだった。

 その日はゴッホの絵を見ていた。確か中学校の時に、『ひまわり』を教科書で眺めた記憶がある。画集とともに伝記も読む。ゴッホはゴーギャンという画家と暮らしていた時期があったらしい。しかしどうしたことか、突然ゴーギャンが出ていってしまった。置いていかれたゴッホは発狂し、自分で自分の耳を切り落とした。そこで描かれたのが、あの、包帯を巻いた自画像。ゴッホの絵を眺めながら、あたしは去っていったゴーギャンに自分を重ねた。いつかあたしも文吾さんの中にゴッホを見出すのだろうか? 激しくて、淋しくて、愚かなくらい真っすぐで……。死ぬまで一枚しか絵が売れなかった、ゴッホの姿を。

「すみません」

 頭の上で声がした。顔を上げると若い男が立っていた。司書かと思って身構える。画集を持って来てしまったのがいけなかったか。しかし男は見当違いな言葉を発した。

「あの、今見てて。あの、すごくお綺麗だと思って。その、すごく……タイプです」

 あたしは驚いていたが、直ぐに何か言わなければと思い、「はあ」と返した。はあ、の「あ」に息を乗せて笑うと、彼はほっとしたような顔をした。若い男……あたしと同じくらいの歳だろうか。前の机に座っていたようだ。大学生なのか、紙とシャープペンシルとパソコンが、向かいの席に置いてある。

「もしよかったら、今度、ご飯とか……」

「ごはん……」とあたしは繰り返した。とっさに文吾さんのことを思い出す。彼氏がいる、と言ってしまおうか、と迷ったけれど、男の見た目や服装が好ましかったため、それを言うのもためらわれた。仕事仲間にも彼氏に浮気された子はたくさんいたけれど、彼らはこんな気持ちで知らない女の肩を抱いたのだろうか。

「まあ、連絡先くらいなら」

 とあたしが言うと、男はぱあっと顔を明るくして、ポケットからスマホを取り出した。コードを読み取って連絡先を交換すると、画面には「綾瀬朔朗」の字が表示された。あやせ……とあたしが呟くと、「さくろうです」と男が言った。綾瀬朔朗さんね。あたしの反復に彼は頷く。

「あの、失礼ですが、学生さんですか? おれ今、四年なんです」

「四年です」

 あたしは被せるようにそんなことを言った。綾瀬朔郎は「それなら同じですね」と眩しそうな顔をして微笑んだ。

「また連絡します。いきなり話しかけて、すみませんでした」

 そう言うと綾瀬朔郎はお辞儀をして、荷物を持って行ってしまった。柄シャツときれいに整えられた髪型があたしを新鮮な気持ちにさせた。そういえばあたしはこれまで、若い男……自分と同じくらいの歳の男と喋ったことがなかったように思う。男友達のホストやボーイとはたくさん話したけれど、ああいう普通の、その辺にいそうな大学生と話すのは初めてだったかもしれない。

 その日から、綾瀬朔朗とはラインをする仲になった。綾瀬朔朗は美術を学んでいて、その中でも美術教育を研究しているらしい。あたしたちは毎週火曜に図書館で待ち合わせ、少しずつ話して、少しずつ昼ご飯を食べる仲になっていった。大学名を尋ねられたときは、文吾さんが勤めている大学を名乗った。そして、同棲している彼氏がいることも伝えた。相手を思い通りに動かすためには、嘘だらけじゃ上手くいかないものだ。ほんとうのことを混ぜてリアリティを抱かせる。いつもやってきたことだ。

 五度目の図書館の帰り際、綾瀬朔朗はあたしを抱きしめた。地下の資料室だった。冷房が効いているのか、はたまた地下だからなのか、ひんやりとした空気が肌に触れた。誰も来なかった。彼のシャツのさらさらした素材が、あたしの頬をかすめる。綾瀬朔朗は文吾さんよりも背が高い。だから、あたしは勝手が違う男の身体に適応しようと背伸びをしすぎて、腰を痛めた。

「……嫌じゃない?」

 綾瀬朔朗が言った。

 あたしは嫌じゃない。と即答し、続ける。

「でも、あなたのことは好きじゃないかもしれない」

「それでいいよ、おれが好きなだけでいいよ」

 綾瀬朔朗はぐっと力を込めた。文吾さんの顔が浮かんだ。これは浮気なのか。そして、浮気を気にする自分にも驚いた。あたしは文吾さんの彼女でも何でもないのだ。文吾さんの家にいる、猫のような存在である。そんなあたしの思惑にも気が付かず、綾瀬朔朗は熱っぽく見つめてくる。あたしは困ってしまった。気が合って、善良で、見た目が良い綾瀬朔朗を、手放すのは惜しいと思ったのだ。綾瀬朔朗に抱きしめられていると、なんだかしっくりきてしまったし……。彼はそんなあたしの様子を見て言った。

「アパートの住所と部屋番号を送るよ。いつでもいい。好きな時に、来てほしい」

 あたしはあいまいに頷いた。綾瀬朔朗は身体を離し、照れ臭そうに微笑んだ。

 その日、文吾さんは早めに帰ってきた。綾瀬朔朗の家に行くとしたら何を持っていけばよいのか、スケッチブックにメモしていたあたしは、慌ててそれをひっくり返し、この前の水蜜桃の絵に加筆し始める。文吾さんにただいま、と言われ、あたしもおかえりなさいと返した。みなみは模写が好きなのか。別に、ただ描いているだけだよ。それから文吾さんが夕食の支度を始めたので、あたしは文吾さんの隣でそれを眺めることにした。

「今日は何していたの?」

 どきりとした。綾瀬朔朗のことを探られたら、何を言われるか分からない。なるべく言葉を選んで、短く話す。

「図書館に行った。画集を見たの」

「なんの画集?」

「ゴッホの画集。伝記も読んだよ」

「ゴッホか。ゴッホはいいなあ」

「そうかなあ、あたしはあんまり好きじゃなかったけれど」

「みなみは、ゴーギャンの方が好きなんでしょう」

「え! そうだよ、よく知っているね」

 あたしはゴッホとゴーギャンの関係について文吾さんに聞かせた。途中で、文吾さんは先生なんだからこんなこと知ってるじゃん、と思って恥ずかしくなったが、彼はあたしの話を最後まで、興味深そうに聞いていた。

 夕食に、あたしたちは皿うどんを食べた。皿うどんとワンタンスープと、文吾さんの漬けた大根と人参の漬物を食べた。お腹が膨れていくなかで、綾瀬朔朗のことを思った。あたしの眼を見てにこにこと話してくれる彼の顔を、ぼんやりと思い出していた。


 そして、ついに、その日はきた。綾瀬朔朗に抱きしめられてから、数週間後のことだった。文吾さんと喧嘩した。彼の鞄から名刺が見つかったのだ。風俗店の名刺。あたしは驚いた。てっきり、他に女を作っているのだと思っていた。それが、なんだ。プロの女じゃないか! 文吾さんは今まで、()()()()ここに行って満たしていたのだ。なぜ? 

 風俗にいくくらいならなぜ、あたしではいけなかったの?

 彼は名刺をあたしから取ると、半分に割いて捨てた。何事もなかったように捨てた。彼はあたしがそんなことには無関心だと思っていたのだろう、一点を凝視するあたしに気付くと、ぎょっとしたような顔をした。

「文吾さんは、あたしに何を求めるの?」

 あたしは尋ねた。文吾さんの大きなつま先を見て尋ねた。ばかみたい。あたしはいつの間にか文吾さんを誤解していたのかもしれない。彼はあたしを押し倒すことさえできないのだと。あたしのことがかわいくてかわいくて仕方がない、この研究者の男は、あたしの言動ひとつで死んだような気持ちになるのだと。いつだって、あたしの機嫌がこの人の人生を握っているのだと。毎週、同じ匂いをさせて帰って来ていたのだ。今までだって、気付けたはずなのに。どうしてこの日に限って鞄など預かったのだろう? お疲れ様!ゆっくり休んでね、だって‼︎ ばかばかしい。確信のないものを信じた自分の単純さが、ほんとうにばかばかしかった。あたしがいちばん愛されているのだと。この人はあたしが思うがままになるのだと。それなのにあたしが張り合っていたのは、想像していた女でも何でもない、ただの、プロ。

「……みなみちゃん、あの」

「答えられないじゃん」あたしは指摘する。

「珍しかったでしょう、頭の悪い女が絵描いて、本読んで、お気楽な趣味にはまっていくのを見るのは」

「違うんだ」

「違わないわ」

「……」

「別にいいよ。あたしがバカなのは本当のことだもん」

「みなみは賢いよ。バカなんかじゃないよ」

 文吾さんがあたしの腕をつかんだ。振り払いながら睨むと、彼は痛みを我慢しているような顔をした。あたしは恨めしく思う。彼の無防備な表情を見るたびに、あたしはいつも恨めしく思う。傷つくことを知らない、そして傷つけられることに無頓着な、その、恵まれた者特有の表情。

「あたしはバカだよ」

「いや、賢い」

「バカだよ」

「賢いよ!」

「バカなの!」

「みなみ!」

「ならどうしてこんなところに行くの‼」

 声に出して、愕然とした。こんなところ? 自分だってかつて「こんなところ」にいたではないか。目の前の金銭を求め続けるあたしはもうここにはいなかったのである。自分の見た目と男の欲望を逆手にとって生きていたあたしは。

 文吾さんの家にいることで、何かをきれいだと思う気持ちが増えた。きれいなもの。雨の種類、月の満ち欠け、近所に住んでいる子どもの声。しかし、何の役にも立たないそれらを、どうして知る必要があっただろう? 漢詩だの絵画だの詩だの、何だの。心を潤すものたち? 潤いのある環境があってはじめて成立する感情であるのに? 

「ぼくは……」

 文吾さんが口を開いた。張り詰めた空気が文吾さんの低い声で、細かく揺れる、気がした。

「ぼくは、きみが持っているものに、ずっと憧れているんだ」

 かっとなって文吾さんをぶった。彼はされるがままになって、あたしを見上げていた。一度ぶったら辞められなくなったので、何回もぶった。あたしのことなんて、何にも知らないくせに。あんたなんか、何でも持っているくせに。苦労したことなんて一回もないくせに。ゴッホ? ゴーギャン? そんな知識、一銭にもならないじゃないか。彼をぶったのは今のあたしじゃなかった。ママにぶたれておじさんと寝て、新しい父の前で経血のついたパンツを洗わされていたあたし。ゴミ屋敷でまぐわう男女の前で、国語のプリントを懸命に探していた、十四歳のあたしだった。

 あたしは家を出た。男友達の家に行こうと思ったのだが、昔酔っ払って行ったきりだ、住所が分からず、辿り着ける自信がなかった。タクシーを呼ぶ。綾瀬朔郎の住所を見せて、背もたれに沈んだ。電話を掛けると綾瀬朔郎は慌ててアパートから出てきた。そしてあの時みたいに強く抱き寄せてきた。小さなアパートで、あたしたちはセックスをした。二十二というだけあって、綾瀬朔郎のあそこはよく機能した。あたしたちは一日中やりまくって過ごし、その度に綾瀬朔郎はあたしを撫でた。あたしは少し悲しくて、悟られないように彼の肩に顔を埋めていた。

 台風が立て続けに起こっていた。きしきしと揺れる白い壁の中であたしたちは面白くもないバラエティ番組を見ていた。綾瀬朔郎はよく笑った。何にでも直ぐに笑うのだ。整頓された部屋の壁にはコルクボードが下げられている。フットサルサークルで撮った写真なのだと彼は言った。もう引退してしまったけれど、今でもメンバーとは旅行へ行ったり飲みに行ったりする。就職活動はしているのか、と尋ねると、綾瀬朔郎は小学校の先生の試験を受けるのだと言った。だからもう塾講師のアルバイトは辞めてしまった、と。先生って、朝から深夜まで働くから大変そうだよね。そう言うと、綾瀬朔郎は神妙な顔をして頷く。あまり帰れないんだ。おれの父と母も教員なんだけど、子供の時はいつも寝る時間に帰ってきていて寂しかったな。そのせいか、いつもおれは何故だか寂しいんだ。あたしは頷く。あたしもそうだったよ。母が忙しくて。弟の方がご飯をたくさん貰えて、憎かった。そう心の中で言った。綾瀬朔郎は重い話は辞めよう、と笑い、軽いキスをした。それから電気を落とすと、夕日が沈むみたいにゆっくりと眠りに落ちて行った。部屋の玄関に置きっぱなしにされている仕送りの段ボールが、その重みでガサリとなるのをあたしは見つめる。

 綾瀬朔郎との生活もすぐに慣れた。嫌ではなかった。家に置いてもらっている分、あたしは必然的に家事を担当することになったのだけど、綾瀬朔郎がいちいち感動する様子を見せるので、満足していた。優しい人なのだ。優しくて育ちが良くて、何にも知らない人。綾瀬朔郎は顔も性格も抱き心地も良かった。先のことだけが見えなかった。彼はあたしも大学に行っていると思い込んでいたから、あたしは午後まで図書館に行ったり散歩したりして、夕食の時間に帰る生活を続けていた。


 久しぶりにスマホの電源を入れた。気になってはいたのだが、なかなか見る気になれなかったのだ。起動させると多くの着信が入っていて、案の定、文吾さんがほとんどだった。スクロールしていくと、「文吾さん」の字が並ぶ中に、美里も入っていたことに気づく。彼女から着信が来ているわけはだいたい想像が付くけれど……。あたしは彼女の番号を押した。

『あらベアトリーチェ。ダンテが探してたわよ』

「だろうね」

『直接会わない?わたし、今から出勤だから、明日の昼でも』

「ありがとう。行くよ」

『どう? 元気ではなさそうだけど……』

「あのさー、彼、耳、切り落としてなかった?」

『耳?』美里は少し考えて、ああ、と笑い出した。

『ゴッホさんの耳は無事でしたよ。とても疲れていたけれど』

 目を閉じて天を仰ぐ。

「分かった、じゃあ明日、いつものカフェで」

『はーい』

 美里の声が、あたしを現実に戻らせた。シャボン玉が弾けるように、ぱちんと引き戻したのだった。荷物をまとめようと立ち上がる。その日綾瀬朔郎は、酔っ払って帰ってきた。例のサークルでの飲み会だったようだ。あたしは客を介抱するのと同じように彼に接する。弱いのに無理するから、と呟くと、彼があたしの首筋に頬擦りしたので、鳥肌が立った。綾瀬朔郎を寝かせ、寝顔を一瞥してまた荷物の整理に取り掛かる。

 早朝、あたしは家を出た。色々よくしてくれてありがとう。字が汚いので、なるべく丁寧に見えるように大きな文字でそう書いた。想像力のない人間は時に無意識に人を傷つける。ぼんやりと、そんなことを思った。甘ったれなのか、いや、これが「普通」の若者なのかもしれないな。全く手のつけられていない教科書を、あたしはどうしても不憫に思ってしまうのだ。

 生活用品を袋に入れて、外のゴミ捨て場に捨てた。綾瀬朔郎の最寄りから、十五分ほど電車にゆられる。元職場の最寄りは大きな駅だ。夜は煌めいているが、朝はがらんどうという言葉がぴったりなくらいスカスカの街。東口をまっすぐ歩いていくと、黒いキャップを被った美里がこちらを向いて手を振っていた。落ち合ったあたしたちはそのままカフェに入り、彼女はアイスティーを、あたしはアイスコーヒーを頼んで座った。

「今までどこにいたの?」

「最近知り合った大学生の家」

「生き地獄だなぁ。あんなの、ろくなものじゃないよ」

 美里はそう言って煙草を取り出した。理学部にも、彼女を疲弊させるものがたくさんあるのだろうか。美里から大学の話を聞いたことがなかったなあ。あたしはそんな風に思った。

「……文吾さんさあ」

 唐突な本題に、あたしは身構えた。そんなあたしを見て、美里は少し微笑み、自身のアイスティーをストローでかき混ぜた。

「大泣きして、店に来たよ」

「大泣き⁉︎」

「それはもう、この世の終わりみたいに。こちらとしては情報を教えられないし、そもそもみなみの居場所わからなかったしさ、何にも言えなかったけど」

「文吾さん、それで帰ったの?」

「帰った。けど、私が終わるまで店の外で待ってた。だから悠人たちの所にいるんじゃないかって言ったの。あの人の雰囲気から、みなみを殺すことはないだろうって判断してね」

 結局文吾さんは、収穫を得られなかった。悠人たちも不憫に思って探したようだが、見つからなかったという。それはそう。実際私は、いつもの図書館からそれほど離れていない場所にいたのだもの。そしてあの大学生のことは、美里を始め誰にも話していなかったのだもの。沈黙がふたりを襲った。あたしはおずおずと口を開いた。

「変なこと聞いてもいい?」

「どうぞ」と美里。

「……美里は、何のために勉強しているの?」

「唐突だなあ」

 ごめん、とあたしは顔を赤らめ、続ける。

「理学部って、宇宙の計算とかもするんでしょう。それって、普通に生活していれば、何の役にもたたないでしょう。だから、虚しくなること、ないのかなって」

 美里は飲み物を置いて、少し考える。そして、

「……私が何者かになるため、かなあ」

 と静かに言った。何者かになるため?とあたしは繰り返した。彼女は頷く。

「希望よ。勉強したって何者にもなれないかもしれないけど、何者かになれる可能性もあるでしょう。少なくとも、やらないよりは。まあ、その希望を信じて、勉強しているのかもね」

「美里は、理学部で勉強している、特待生じゃん」

「経歴や持ち物で何者かを証明できるのかしら? もっと強い……信念みたいな、覚悟みたいなものが、何者かを分けるんじゃないかって、私、近頃思うのよね」

「……」

「私には生きる覚悟がないの。だから、それを探している。それにたどり着くための道が、私にとっては学問になっている。正解かどうかは分からないけど、物理学がそれにたどり着くための基礎になるんじゃないか、と仮定しているの。みなみは、自分が何者だと思う?」

 あたしは何者だったろうか。家から逃げてきて、東京に出て、ガールズバーで働いて、それなりに頑張って、文吾さんと会って、仕事を辞めて一緒に暮らして……。お金のために生きてきた。生活するためにはお金が必要だったから。美里みたいに器用にはなれなかったけど、自分なりにきちんと稼いできたと思う。ただ、容姿を持て囃されるたびに、あたしにはこれしかないのだと悟っていった。「これ」はいつか、保てなくなる。今、この瞬間の「これ」は十年後には無くなってしまうのだ。そのとき店はあたしを雇ってくれるだろうか? パパたちは、あたしに金銭を払うだろうか? 若くなくなったあたしには、この先何が残るのか? ずっとそんなことを考えていた。

 だから、文吾さんが暮らそうと言ってくれて、悪くないと思った。いつか価値がなくなることは頭によぎらないわけではなかったけど、文吾さんが丁寧にあたしを愛してくれて、生活の豊かさを教えてくれて、あたしは久しぶりに楽しかったのだ。この家に置いてくれるからじゃない。何でも買ってくれるからじゃない。あたしはあたしという人間をまるごと意味付けてしまいそうなこの男に、心を救われていたのだ。文吾さんに、どきどきしたり、駆け引きしたくなったりはしないだろう。あの大学生がするみたいな恋愛はあたしにはきっと訪れないだろう。それでも良いじゃないか。文吾さんの純朴さとひたむきな愛にやさしく応えてあげれば、良いじゃないか。だって、あたしがこの不安から助かるためには、文吾さんが必要なのかもしれないのだから。

 結局みんなさびしいんだ、とあたしは思う。みんな、ない物を求めているのだ。ねえ、文吾さん。あたし、文吾さんが持っているものが、欲しかった。羨ましくて、妬ましくて。豊かさも知識も、似合わないって思いながらも、ほんとは喉から手が出るくらい欲しかったんだ。文吾さんはさ、


 文吾さんは、あたしの何が欲しかったの?


 それぞれのコンプレックスは異なるから、あたしたちは傷を舐め合うことしかできない。慰め合うことしかできない。癒すこと。互いが互いの薬になること。あたしの支えになってね。あたしの欲しいものを提供してね。その代り、地獄から引き上げてあげる。手を伸ばして引っ張ってあげる。人生の道しるべになってあげる。貰うこと。そして、与えるということ。文吾さんとの物語に必要なのは、それだけだった。それだけのことだったのだ。


 文吾さんのもとに帰ろう、と思った。おじさんが泣いているのなんていたたまれないし、周りにも迷惑すぎる。文吾さんの家の置物たちを思い返し、懐かしい気持ちになった。クーポンの使い方も、あたしが教えてあげなきゃ、文吾さんは一生使えないままになってしまう。

「美里。あたし、文吾さんと暮らそうと思う」

 「覚悟したんだねえ」美里は目線を机に落とした。彼女は少し寂しいけれど、と前置きして、

「みなみは賢いよ。それは私も、昔からずっと思ってる」

 と言った。

「賢さは分からないけど、知らないことを知るのは、案外嫌じゃないかもしれないなあ」

 からから笑うと、彼女は唇をきつく結んだ。

「私、思うの。みなみはさ」

 そして、噛み締めるように言葉を発した。


「大学に行けばいいと思うの」



 家に帰ると、文吾さんは帰っていなかった。今日はリモート授業の日じゃなかったか。あたしは頭を抱える。鍵も持っていなかった。恐らく夕方まで帰ってこないぞ。仕方ないので一度図書館に行き、漢文の読み方を学んだ。それから高校生向けの参考書と大学入試の本を本屋で購入して、カフェで少しゆっくりしてから、また戻った。漢文の読み方は、国語の時間で学んだのかもしれない。あまり学校に行かなかったので、レ点や一二点などはすっかり忘れていた。文吾さんの読むものに返り点は付いていなかったけど、それらを用いて読むと、日本の古文と同じように読めることに気づいた。

 玄関で読んでいるうちに夕方になり、集中力が切れてきた。肌に張り付くような湿気が鬱陶しかったが、眠気がまさって、うとうとしてしまう。がしゃんと音がした。荷物を落とした状態のまま、男が呆然と立ち尽くしている。三十代後半の男の、見知った立ち方にあたしは思わず頬が緩んだ。

「お腹すいたよお、今日は何を食べるの?」

 言い終わるまでに文吾さんは駆け寄ってきて、座るあたしを抱き起した。そして声をあげて泣いた。あたしは少し驚きながら彼の背中に手を回す。文吾さんはたくさん謝っていた。大丈夫だと思った。この人があたしを捨てることはないだろう。だから大丈夫。何の根拠もないけれど、そう思った。

「文吾さん、文系の大学はね、国語と社会と英語ができれば、入れるんだって。しかも一番で入れば、お金払わなくてもいいんだって」

 あたしは続ける。

「色々考えたんだけどね、あたしも文学、やってみたいの。あたしに勉強教えてくれるかな?」

 文吾さんは顔をくしゃくしゃにさせて頷いた。教えよう。何だって教えよう。専門外のことであっても、教えよう。そう言ってもう一度抱きしめた。あたしはありがとうと笑った。彼の上下する背中を見て、ありがとうと笑った。


「そうだ、今日は、家に何にもないんだ。ここ最近、よく食べられてなくて……」

 抱擁後、すっかり雰囲気も戻った後に、文吾さんは冷蔵庫を覗きながらそう言った。

「それなら食べに行こう。駅前に、新しくできたお店があるのよ」

 あたしは素早く立ち上がり、文吾さんの背に声をかけた。あたし、場所分かるよ。だから案内してあげる。文吾さんが慌てて用意するのを構わずに、あたしは真っ直ぐ、夕方の街へと歩き出した。



小説難しい。書けば書くほど陳腐になってく。場面を切り替える手法を学びたいです!

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