旅立ち
家に帰ったわたしを待ち受けていたのは、腕を組んで仁王立ちするお母さんとその脇に控えるノエルだった。
お母さんの厳しい面持ちの横で、ノエルはあくまで優しい表情を崩さないでいてくれてるけど。
「……う、うぅ」
それにしたって、お母さんの視線がとても痛い。
いや、怒られる心当たりが山程あるわたしが十中八九悪いんだけど。
「ご、ごめんなさい、お母さん。ノエルに配達の帰りのこと、頼んじゃって。だけどね、わたしーー!」
今はそれどころじゃないの。
魔術についてもっとよく知りたい。
それにはこんな辺境の町を出て、もっと大きな世界に触れなくちゃいけない。
だから……旅に出たい。
そんな突飛な話、口にすれば怒られるに決まってる。
だけど、喉元まで上ってきた言葉を今更飲むなんて出来ずーー。
「ほら」
「へ?」
言ってしまおうーーそう思った間際、お母さんがドサっと袋を放り投げてきた。
肩に斜めがけ出来る類のその袋。
なんだかぱんぱんに膨らんでいる。
「え、な、なに……?」
恐る恐るその袋の中を覗いて見ると、そこにはお金の入った小包や薬草、地図に歯ブラシ、替えの下着や包帯などが綺麗に纏められていた。
「え、え? これなに?」
状況を理解出来ず首を傾げていると、お母さんは呆れた風に笑った。
「前々から準備してたもんだよ。ノエルからあんたが魔女様の所に魔術について聞きに行ったって言われたもんだから、引っ張り出してきたのさ」
「……わ、分かってたの?」
「手の掛かるあんたに世話焼いてきたのは誰だと思ってるんだい? 魔術なんて凄いもん知っちまったら、いても立ってもいられないんだろう?」
「う、うん……」
流石はお母さんだ。
わたしの考えなんて全部お見通しみたい。
「むしろアタシは、あんたはある朝忽然と姿を消してるものだと思ってたからね。こうして別れの挨拶をしてきただけ驚きだよ」
「そ、そんなこと……」
ない、と思うけど。
自信を持って言えはしなかった。
「で、でも……いいの? お母さん、一人になっちゃって」
「止めたってあんたはいつか出てくさ。それに、厄介な娘がいなくなって清々するってもんだよ」
「むぅ……」
迷惑ばかり掛けてきたのは事実だから、反論の余地もない。
わたしはせめてもの反抗をぷくーと頬を膨らますことで主張した。
「……ふん」
するとそんなわたしを見て、お母さんは少し憂いを帯びた様子で笑った。
「……誰だって同じさ。いつかは家を出て独り立ちする時が来る。あんたはそれが早かっただけってね」
「お、お母さん……」
やっぱり寂しいんだ。
お母さんの顔を見れば分かる。
お母さんはわたしのことを良く知ってくれているけど、それはわたしだって同じ。
今のお母さんの気持ちくらい、わたしにも分かる。
やっぱり行かないって選択肢もあるのかもしれないけど。
……それでもお母さんの親心を無下にするわけにはいかなかった。
「……今までありがとう。お母さん」
わたしは袋を担いで、そう感謝の言葉を口にする。
改めて口に出すのは恥ずかしいから、目を逸らしてだけど。
「まぁ待ちな。それだけじゃないよ」
お母さんは言うと、脇で成り行きを見守っていたノエルを顎で示す。
それに合わせて、彼はお母さんと入れ替わりでわたしの前に歩み出た。
「ベル、これを持っていくんだ」
渡されたのは、わたしみたいな子供でも振り回せる軽めの剣だった。
柄には町の武器屋では見たことのない装飾。
もしかして特注品だったり……ノエルもこんな日が来るのを分かっていたのかも。
「剣術に関しては多少教えたはずだ。役立てなさい」
「……うん」
わたしは身体に染み付いた動きを思い出しながら頷いた。
何年か前。
ノエルが昔は騎士だったと知ったその日から、剣術を教えて欲しいと彼にはしつこくせがんだものだ。
彼はわたしのような子供に武器を握らせたくないと中々頷いてくれなかったけど、ある時から意欲的に剣術を教えてくれるようになった。
それは、わたしがスライムの生態を知りたいと洞窟に飛び込んだあの日の翌日から。
せめて自分の身は自分で守れるように、と、自衛術を基本として剣術のみに留まらず、戦いのイロハを教えてくれたのだ。
ノエルにも本当にいつも迷惑をかけてばかりで、頭が上がらない。
今更ながら、わたしは恵まれていたのだと実感する。
少しだけ、目頭が熱くなるのを感じた。
「ベル、魔術について知りたいなら王都に向かうといい。あそこは魔術発祥の地にして最もこの世の心理に近き場所。必ず君の求めるものが手に入るよ」
彼はそう言いながら、わたしの袋に入っていたのと同じ大きな地図を取り出して道順を示してくれた。
中央大陸中央部に構える、まさしく世界の中心ーー王都。
東大陸の端っこ、南東部の山あいに位置する《ミルク》からは何日、何ヶ月ーーいや、下手したら何年も掛かる距離かも知れない。
だけどわたしはそれをまるで苦痛だとは感じなかった。
「うん、分かった!」
むしろ楽しみで仕方がない。
今まで何度か衝動のままに村を飛び出そうとしたことがあったけど、その時は決まってすぐにノエルに連れ戻されていた。
言わば首輪が繋がった状態だった。
だけど今この瞬間、見えないわたしの首輪が外されたんだ。
囚われていた、だなんて言うつもりはないけど……わたしは正真正銘自由の身になったんだ。
そう考えると、否応なしに心が高まる。
あぁ早く。
早くこの村の外にーー世界に飛び出したい!
そして魔術の真髄をこの身で体感してみたい!
そこまで考えるともう抑えが利かず、わたしは玄関扉に飛びついていた。
が、そこで。
「ベル、最後に一つ」
お母さんの言葉に後ろ髪を引かれ、わたしは振り返りつつ首を傾げる。
すると彼女は、その手に見慣れた物を持っていた。
「ほら、これも持っておゆき」
「え? これって……」
そう、それはわたしがここ最近配達していた牛乳瓶ーーその一本だった。
中は満タン。
道中これを飲んで喉を潤せと言うのだろう。
しかし、ミルクなんて対して長持ちするものでもないのに、どんな意図でこれを持たせようとするんだろう?
邪魔にしかならないと思うんだけど。
わたしが怪訝な表情を浮かべていると、お母さんは無理矢理それを手に握らせてきてーーそれからぎゅっと抱きついてきた。
「え? え?」
不意の出来事に回らない思考。
だけどわたしの事などお構いなしにお母さんはーー
「……たまにでいいから、その空瓶、返しに来るんだよ」
少し涙ぐみながら、そう言葉を紡いだ。
「(…………あぁ)」
お母さんの心中を察したわたしは、もう何も言わなかった。
本当に素直じゃない人だ。
寂しいならそう言えば良いのに。
たまにでも帰ってきてほしいなら、そう言えば良いのに。
だけど、お母さんはそういう人。
わたしが一度気になったことにどうしようもなく夢中になってしまうのと同じで、お母さんはそういう人なんだ。
「……うん。ありがとう」
わたしはお母さんの腰に手を回し、ぎゅーっと抱きしめ返す。
温かい。
そういえばこうやって抱き合うこともなかったっけ。
たまになら帰ってきて、こうするのも悪くないかも。
「……それじゃ、行ってきな。くれぐれも人様に迷惑かけんじゃないよ」
抱擁を終えたお母さんは、もういつものお母さんに戻っていた。
本当に強い人だ。
自分で言うのもなんだけど、わたしを女手一つで育ててきただけはある。
「……なるべくね、気をつけるよ」
「気をつけるじゃなくて、かけんじゃないって言ってんだよ」
「えへへ」
お母さんの追求をわたしは笑って誤魔化す。
そんな姿を見て、お母さんは深ーいため息を吐いた。
うん、いつも通り。
大丈夫そうだ。
「ベル、私はついていけないけど、頑張るんだよ」
「もちろん! ノエルはわたしの代わりにこの町を守ってね!」
「……君はやらかす側だったと思うけどなぁ」
調子の良いわたしの言葉に、ノエルは参ったと言わんばかりに頭を掻く。
……彼もいつも通りだ。
ノエルさえいてくれたらこの町は大丈夫。
それが分かってるからわたしは、心配事もなく旅立てるんだもん。
「……それじゃあ」
今度こそ玄関扉に手を掛け、わたしは二人に目線を送る。
お母さんとノエルは揃って笑顔を見せて、それから何を言うまでもなく頷いていた。
その瞳と視線を交わしあえば、胸の奥から込み上げてくる物がある。
その正体不明のなにかを、わたしは勇気と決めつけた。
「ーー行ってきますッ!!」
わたしは扉を開き、ついに外の世界へ飛び出した。
いつものちょっとした散歩とは違う。
魔術を追い求める長い長い、そして激動に満ちた旅の始まりだった。