運命の時
室内は辺境の村に相応しい質素な造り。
木彫の何処にでもあるような家具が並び、カーテンやカーペットも特別趣向を凝らしたものでもない。
ベッドだって所々綿が抜けていて、手放しで良い部屋とは同郷びいきでも言えなかった。
だけど……そこにバニラさんがいるだけで部屋のグレードが一つも二つも上がるような、彼女にはそんな不思議な存在感があった。
「……さぁ、貴女も座って」
彼女は窓際に置かれた椅子へ物音一つ立てずに座ると、丸机を挟んだ向かいの椅子を指し示す。
そこで話をしようというのだろう。
「ぁ、うん! ありがとう!」
少し上ずりながらもわたしは答えると、バニラさんに倣って椅子へと腰掛けた。
注意していたつもりだけど、ギィ……と椅子を引く音が出てしまっていた。
「さて、まずは何から……と言いたいところだけど、その前に」
バニラさんはそう言うと、丸机から僅かに身を乗り出して、わたしの喉元に手を添えた。
「うひぇ!?」
くすぐったくて、恥ずかしくて、なんだか変な声が出てしまう。
だけど彼女は気にせず、わたしの喉元ーーそこに小さく付いた傷を優しく撫でていた。
「ごめんなさい、リアの事を嫌わないであげてくださいね。彼女はわたくしの護衛として気を張ってくれているだけなのです」
「あ、いや……それは全然気にしてないから……!」
むしろ悪いのはこっちの方だし……。
わたしがそう続けると、バニラさんは「ありがとう」と感謝を述べながらーー
「……《メディア》」
それから、そう言霊を紡いだ。
と同時、周囲の空気が張り詰めたような気がした。
一瞬、彼女の手を伝って流れ込んできたのは謎の全能感。
喉元に僅かな熱を感じ、そのすぐ後には、嘘のように綺麗さっぱり傷が無くなっていた。
「あ、あれ……!?」
喉元を擦ってみても、傷はおろか些少ばかしの痛みもない。
完全に傷を付ける前の状態に戻っているようだった。
「こ、これ……もしかして」
わたしの問いに、バニラさんは微笑みで応じる。
そっか、これが魔術なんだ。
こんな事が出来るのが魔術という力なんだ。
わたしはますますその力の正体に惹かれていた。
「よければ、他の傷も治させて頂きませんか?」
包帯だらけのわたしの身体に目を這わせながら、バニラさんはそんな風に話を持ちかけてくる。
その気持ちはとても嬉しいけど……。
「いやいや……そんな! 大丈夫だから!」
魔術、というのが無限に使える力なのかは知らないけど、そう何度も迷惑を掛けたくもないし。
それに、わたしの身体なんて今はどうでもいい。
魔術について知りたい、その一心だから。
「そうですか……」
その旨を伝えるとバニラさんは少し残念そうにしながらも、わたしの意向に沿ってくれることにしたようだった。
「……それでは、何から話しましょうか?」
小さな丸机を挟み、彼女のそんな疑問が聞こえてくる。
確かに、魔術について知りたい、だなんて抽象的に聞かれても困ってしまうだろう。
わたしは思考をフル回転させると、脳裏によぎったとある疑問を率直に投げかけてみることにした。
「……空って、飛べるのかな」
いや、これも抽象的なのかも。
その証拠に、バニラさんは首を傾げちゃってるし。
「あ、ええと! 魔術で空を飛べるのかなって意味で!? そういう効果? の魔術があるのかなって気になって!」
慌てて付け足すけど、可笑しな所はなかったか。
どうにもバニラさんに見つめられていると上手く思考が纏まらない。
結果、あたふたと手を忙しなく動かしながら言葉を続ける羽目になってしまった。
滑稽極まりない、恥ずかしい。
「……ふふ」
そんなわたしを見て、相対するバニラさんは含み笑いを零す。
だけどその笑いに、わたしの馬鹿さ加減を嘲笑する意図がないことは不思議とすぐに分かった。
「……えぇ、飛べますよ」
「ほ、ほんと!?」
答えを聞いたわたしは、反射的にバン! と机を叩いて立ち上がっていた。
空を飛べる?
本当に?
だったらわたしも鳥みたいに色んな所へ羽ばたいて、世界中の見たことのない光景に立ち会えるってこと?
だとしたら、その魔術を使ってみたい。
それこそ……どんな手を使ってでも。
「……あの、大丈夫ですか?」
「へ?」
バニラさんの一言で、わたしの思考が現世に舞い戻る。
また悪い癖が出て、自分の世界に入り込んでいたみたい。
それに加え、先程の態度があまりに不躾なものだったと気付いたのは、さらに数秒後のことで。
「あ、ご、ごめんね! 急に大きな音を立てて……!」
「いいえ、どうかお気になさらないで」
だけどやっぱり、バニラさんは温和な態度を崩さない。
大人だなぁ、と感じた。
歳は同じくらいに見えるのに、どうしてこうも違うのだろうか。
わたしはその疑問がまるで解けなかった。
「ただ、飛ぶと言ってもどちらかと言えば浮くといった感じですが」
「浮く?」
「はい」
どうやら魔術の一つに、《フィアー》という浮遊魔術なるものがあるらしい。
全身に魔力を滞らせ、大気と一体となる事で風の加護を授かり、その身体を宙に浮かせるのだと。
そういう、今のわたしにはにわかには信じられないことをバニラさんは話した。
「……凄い」
本当にそんな事が出来るの?
そう問いかけてみたかったけど、バニラさんがそんなタチの悪い冗談を言うとは思えない。
真実だと信じ込むしかなかった。
「だけど、さ」
わたしは歯切れ悪く口火を切る。
一つ懸念材料があったから。
「魔術って、わたしにも使えるの? そんな事が出来るとはとても……」
魔術は先天的な素養が色濃く出るもので、適正は大抵が血筋により決まるものとされている。
ノエルがそう言っていた。
だけどわたしは魔術とは無関係な家柄。
そもそも魔術すらこの歳までよく知らなかった。
お母さんも魔術が使えるような特別な人間に思えないし、わたしが物心付く前に死んだお父さんが何か名を残した人物というわけでもなく。
とどのつまり、ただの一般的な家庭だった。
そんな家に生まれたわたしが魔術なんて使えるのだろうか。
やる気だけあって、素養がゼロだなんて言われたら溜まったものではない。
空を飛べる方法があるのに自分にはそれが叶わないと知れたら、わたしはきっと悔しさから喉元を掻きむしって死んでしまうのではないか?
そんなある種の自信があった。
「……心配しないで」
そんなわたしの不安を察してか、バニラさんは一際優しい声音と共に口を開いた。
「魔術が使えないと絶対に超えられない壁……についてはご存知ですか?」
「う、うん」
それはノエルから聞いた。
なにも物理的に壁があるわけでなく、人間には限界があるという話。
魔術が使えればその限界を超えられるという例えの話だ。
「それがなに?」
「ふふ、超えられないのならね……超えてしまえばいいんですよ」
「は? そ、それってどういう……?」
「言葉通りの意味ですよ。頑張って努力して、壁を無理矢理よじ登ってしまえばいいのです」
単純。
彼女が提示してきた打開策は実に単純なものだった。
頑張って頑張って頑張ってーー魔術をマスターしてしまえ、と言うのだ。
だけど単純ゆえーー難しい。
「そ、そんな事が……」
できるの?
そう聞くよりも早くーー。
「できるとしたら?」
逆に彼女にそう聞かれてしまった。
「もしかしたら、魔術のせいで人生を棒に振るかも知れません。結局魔術を使えずじまいで、歳だけ重ねた貴女は露頭に迷ってしまうかも。それよりも前に、死んでしまう可能性もあります」
「…………」
「でも、魔術のまの字も知らぬ方が歴史に名を馳せる魔女になったという前例はあります。彼女もまた、好奇心から茨の道を選んだそうです」
「……!」
わたしは彼女の言葉に、ハッと顔を上げていた。
もしも、もしも本当に出来るのなら。
やりたい。
いや、やらなければならない。
魔術について知らないと。
そう、わたしは知らないといけないんだ。
そうすることでしか、もうこの渇きを抑えられる気がしなかったから。
「……やる」
やりたい、ではなく、やる。
他の全てをなげうってでも。
そう決意を口にしたわたしはバニラさんにはどう見えただろう。
彼女の満足そうな顔を見れば何となく分かった。
「……一つ、贈り物をさせてください」
そう断ってからバニラさんが取り出したのは、一冊の年季が入った本だった。
「それは……?」
「これは魔術書と呼ばれるものです。魔術の簡単な歴史から使い方のコツまでが載っています」
これは入門書のような物なので、低級の魔術しか記載されていませんが……と彼女は申し訳なさそうに眉を潜めた。
「いいの? そんな凄そうなもの……しかもこれって」
「えぇ、わたくしが初めて魔術に触れる際に父に買ってもらったものです。何度も読み直して中身は全て記憶しているので、是非」
「い、いやいや! そんな大事な思い出の品、もらえなーー」
「お願いします」
わたしが魔術書を貰うのを渋っていると、何故か彼女が頭を下げてきた。
本来それはこっちがするべきことなのに、どうして。
「わたくしはですね、見てみたいのです」
「え?」
「かつて、無能力者から魔女の頂きに達した魔女を……わたくしが魔女を志すきっかけとなった彼女の軌跡を、この目で見てみたいのですよ」
「……そ、そんな」
そんな言い方、ずるい。
そんな風に言われてしまったら、もう魔術書を受け取るしかなかった。
「ふふ、ありがとうございます。……いえ、ごめんなさいと言うべきですね。少し意地悪が過ぎました」
「ほ、ほんとだよ……!」
わたしはそう言って彼女を睨むけど、次の瞬間ーー無意識に笑みが溢れてしまった。
それに釣られて、バニラさんも柔らかな笑みを浮かべる。
二人して少しの間、笑顔で見つめ合っていた。
「……ありがとう、バニラさん。わたし、絶対に魔女になるから」
「えぇ……ですが最後に」
「?」
「お名前、伺ってませんでしたよね?」
「……あー!」
そういえば、一方的に知っているばかりで名乗ってすらいなかった。
わたしは照れ笑いのあと、彼女のオーラに気圧されないように大袈裟に胸を張って名乗りを上げた。
「わたし、ティアラベル! いつか凄い魔女になるから、絶対に忘れないで!」
「ティアラベル……ふふ、はい。またきっと会いましょう。今度は立派な魔女になって、ね」
「うん! それじゃあ!」
最後にぎゅっと硬い握手を交わすと、わたしは別れの言葉と共に部屋を後にして、その勢いのまま村へ飛び出した。
見慣れた村の光景。
そのはずなのにーー。
「(……あぁ、気持ちいい)」
身体が軽い。
空気が美味しい。
心なしか視界が鮮明になった気がする。
理由は分からないけど、なんだかこのまま飛んでいけそうなーーそんな気さえした。
「……待っててねー!」
天を仰ぎ、脇目も振らずそう叫ぶ。
空高くに見えた鳥を羨ましいと思うことは、もうなかった。