茜色の空
雨が降っている。
目が覚めた時は、たしかに晴れていたのに。
PCのメール受信をゴミ箱に入れて削除する。
迷惑メールは300件を超えていた。
仕事を少し片付けながら、珈琲を4杯飲んだ。
窓を打つ雨音に気づいた時、午後16:00を回っていた。
『歩いて数分の一番近いコンビニまで、この雨風だと全身びしょ濡れになるかな?』
傘をさして歩くことが苦手な私は、キャンプ用品店で見つけた迷彩柄のポンチョ型雨カッパを愛用している。
家を出た。
メンズのフリーサイズだから、頭から膝下まですっぽり身体を覆ってくれる。
灰色の雨雲に混じって、明るい晴れた水色があちこちに覗いている。
弱いシャワーほどの雨が降っている。
生暖かい風がふわふわ吹いて来て、お湯の様な雨粒が顔にポツポツあたった。
ふと、子供の頃を思い出した。
風が強く吹いて雨が斜めに降るような嵐の日だった。
私は、外に出た。
カッパを着て、そこいらを走り回って一人で遊んだ。
水溜りを見つけては、思いっきりの大ジャンプ。
出来るだけ大きな水しぶきを上げたいと躍起になった。
長靴を履いていても靴下までびしょ濡れになったから、家に帰ると母に叱られた。
今、またそうしたいと思った。
ぼんやりした気持ちで歩いていると、聞き覚えのある声に足が止まり、振り返る。
「栄ちゃん?」
「え?」
「びっくりした、久しぶりだから。なんか楽しそうだね。」
振り返った私の顔は、笑っていたようだ。
ピンク色のチューリップが鮮やかな傘を背景に、彼女は優しい笑顔で話し出した。
「私ね、今仕事の帰りなの。」
「そう。」
「ねぇ、元気そうだね。今、何してるの?」
「うん、なんかね、絵を描いたりしてね、いるよ。」
「そうなんだね、栄は小学生の頃から絵が上手で、展覧会で入賞したりしていたもんね。やっぱり凄いね。」
「あ、いや、ぜんぜん凄いとかじゃ無い。ゆきちゃんは、あの、な、中野さんは何しているの、今は?」
「やだ、ゆきちゃんで良いってば。前から同じ職場だよ。ホテルの受付ね、これから夏休み時期に入ると忙しいんだよ。今日は、たまたまこの時間に帰ってきたの。」
「あ、雨だしね。あ、関係ないかな。ごめん…」
「やだ、謝らないでよ。あは、面白い。栄ちゃんは昔から変わらないね。」
「変わらない?うん。たぶん、ね。」
「私はね、色々あったよ。でも今は、だいたい落ち着いているかな。ねえ、久しぶりに会えて偶然に会えて、本当に嬉しい。」
私は、もう何と答えて良いのかわからなかった。
物心ついた頃から、ゆきとは仲の良い友達だった。
学校が終わると毎日のように、どちらかの家で遊んだり宿題をやったりして過ごした。
家が隣だったから、母親同士もとても仲良しで、家族揃って休日などに食事をする事もあった。
賑やかで楽しかった。
中学を卒業する頃、私達家族が世話になった父方の祖父が亡くなった。
色々あり、駅の近くに引っ越した。
ゆきと私は、別々の高校に通うようになり、二人で会う機会も無くなっていった。
それぞれの新たな生活は、幼少期の思い出を綺麗に記憶の中に閉じ込めて、そのまま月日が経った。
それでもたまに、駅などでゆきの姿を見かけたりしたが、私から話しかけようなどと考えた事も無かった。
今、正に数年ぶりにこうして二人で話をしていることが、なんだか現実と思えないような、不思議な気持ちだった。
二人は、話しながら歩き出していた。
実際には、ゆきが話すばかりで、私は少しの相槌をうったりして聞く側に勤めていた。
ゆきのお喋りは相変わらずであった。
真っ直ぐに一連になって、私が先頭になり歩いている。
何処へ向うわけでも無く、ただ歩いた。
何でもない最近の日常を、取り止めもなく楽しそうに話しながら後ろを付いて来るゆきを、私は素直に可愛いと思った。
目的であったコンビニは、とっくに通り過ぎていた。
いつの間にか、歩道は川沿いの小さな公園で行き止まりになった。
不意に立ち止まると、背中にゆきのおデコがぶつかった。
「あ、ごめん。」
「雨、止んでるよ。」
傘を閉じながら、ゆきは前髪をかき揚げて笑った。
「ここの公園、久しぶり。小さい頃、栄ちゃんとよく遊びに来たよね。」
「ああ、うん。」
「ねぇ、ブランコに乗ろうよ。」
雨は止んでいた。
薄ら夕焼け色の曇が浮かんでいた。
公園の地面は雨水で泥濘んで水溜りばかり。
おまけにゆきはクリーム色のヒールを履いていたから、遊具で遊ぶことなんて勿論のこと難しい。
「今度さ、晴れた日にブランコ一緒に乗りたいな。」
私は、水溜りに軽くジャンプして泥水を跳ね上げて笑った。
「栄ちゃんったら、もう。そうだね、今度、きっとだよ。」
「うん。」
「ねぇ、約束だよ。」
「うん。暗くなる前に、帰るかな。」
「…うん。」
遠くの空、沈み消えてしまいそうな紅い夕陽が薄く覗いている。
「ゆきちゃんさ、家はこっちだったよね?」
「そうだよ。覚えてる?いつも栄ちゃんが私を家まで送ってくれるの。そしたら今度は、私が栄ちゃんを家まで送って行きたいって駄々捏ねて、お母さんに笑われてさ。」
「うん。なんか、それ覚えてる。」
レインコートのフードを下ろして、ゆきの顔を見た。
素直な可愛い笑顔は、昔のままだ。
今度は、二人横に並んで歩いた。
お喋りなはずのゆきは、急に黙りだした。
私も合わせるように黙ったままに歩いた。
いつのまにか私は、ゆきの手をにぎっていた。
直きに、ゆきの家に着いた。
「ありがとう、送ってくれて。」
「いや。あぁ、うん。」
「大人になったのに、また栄ちゃんに送ってもらっちゃった。」
「うん。」
「今日、栄ちゃんと話しが出来て楽しかった。また、二人で会いたいね。」
「うん、そうだね。じゃあ、また。」
私は、今来た道を戻った。
ドアの閉まる音と合わせて、ゆきの声が背中に小さく聞こえた。
「ただいま、お母さん…」
私は、足取りを速めた。
呼吸が早まり、胸の中を重い物で潰されていく感じに吐き気がした。
口の中を強く噛み締めた。
もう、殆どの夕陽が沈みかけている。
夜が直ぐそこまで迫って来ている。
『早く、早く。』
家に着いて、玄関にカッパを脱ぎ捨てた。
びしょ濡れの靴を脱いだ。
服を脱いだ。
雨が止んでしまったからいけなかった。
ずっと私の目から流れ出て止まないものを、頭の中の思い出したくない景色を熱いシャワーで溶かし流した。
出来る事なら今、消えてしまいたいと思った。
長い時間シャワーに打たれ続けた。
バスルームの鏡に映る自分の顔は、目は赤く腫れて悲しそうに歪んでいる。
『まだ、ここに居なくてはいけないの?』