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続・橋の下の家  作者: 佐倉蒼葉
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第1章

 水平線の上に星が昇った。

 地上にもまた星のように明かりが並ぶ。

 私は断崖への道を辿りながら、それらの光の点を数えた。

 ───やがて、天地を分かつ海が黒々と広がるのが見えた。

 波音が遠い。目の前の海は静かにうねり、世界にぽっかりと空いた穴のように私を誘った。私は一歩一歩と足元を確かめながら、ごつごつとした岩を踏み締め、崖の突端へと近づいて行った。

 大地の果て。

 しかしながら、果ては海に溶け、海は空に溶け───

 どこまでも果てなき闇であった。

 このまま歩き続ければ、私は足元を失い、冷たい海───いや、世界の穴へと落ちてゆくであろう。

 潮風が撫でた私の顳かみを流れた汗がヒヤリと冷たかった。

 星明かりにようやく浮かび上がる大地の輪郭は、目の錯覚かもしれなかった。私は足を止めた。波頭さえ見えてはこない。

 暫し立ち尽くし、呼吸が整ってくると、波音が聞こえてきた。

 かすかに。遠く。だが確かに。

 あれは海だ。

 空に現れた天の川が途切れる所に水平線がある。

 その先にあるのは───見知らぬ大地だと人は言うが、今の私にはそうは思えない。

 私の目の中で海は巨大な穴に姿を変えた。

 一歩、足を踏み出す。

 また一歩。

 天の川の終わりに目を凝らし、意識の上で空と大地を溶かして私は進んだ。このまま行けば───

「そこで何をしている」

 思わずびくりとして立ち止まった。爪先の蹴った小石がカラカラと音を立てて落ちてゆくのが判った。そこはもう───果て、だ。

 私は顳かみに汗が流れるのを感じながら、ゆっくりと後ろを振り返った。

 静かな、男の声だ。

 しかしその姿は闇に溶け込んで見えない。ぼんやりと白く浮かび上がる何かがちらりと動いて、その横に星明かりを映すレンズのような物が見えた。……眼鏡だ。

 白い物が近づいて来て、男の姿が見て取れるようになった。

 闇と同化していたのは、彼の髪が黒いのと、黒い服を着ていたからだと判った。彼は手にした白い花束を肩に載せて私に歩み寄り、目の前に立った。

 そうして私の目を覗き込み……眉根を寄せて言った。

「どいてくれないか」

 私は、ああ、と曖昧な声を出して退こうとした。踵に感じた何もない空間……彼は「そっちじゃない」と、もと来た方を顎で示した。

 私が退くと彼は一歩前に出て、下手で軽く花束を放り投げた。

 それだけで、彼はくるりと海に背を向け、私に「邪魔をした」と言って歩き出した。

 まさか花を捨てに来た訳ではあるまい。

 気づくと私は彼を呼び止めていた。

 彼は斜に振り返って私を見た。

 邪魔をしたのは私の方ではないのか。今のはどう見ても手向けの花だろう───そう言うと、彼は「まあ、そうだろう」と他人事のように答えた。

「あなたこそ、今にもそこから海に飛び込みそうに見えましたよ。邪魔してすみませんでした。人が居たら出来ませんからね、そんな事は」

 彼は低く、だが快活な声でそう言って、目を細めた───笑っていた。

 立ち去ろうとする彼を、私は再び呼び止めた。君は、私を止めるつもりで声を掛けたのか、と……彼は「まさか」と笑った。

「あなたの人生だ。好きに生きるのがいいだろう。……ああ、飛び込んだら死ぬんでしたね。まあ、最後の選択もまた生きる事であるのには違いない。お好きなように」

 そう言うと彼は肩で軽く笑って背を向け、去っていった。

 大地の果てに取り残された私は、暫し呆然と彼を呑み込んだ闇を見つめていた。そうして───機を逸した私は、町へと戻った。

 町でただ一軒の宿で、私は鞄から地図を取り出してテーブルの上に広げた。大陸の端の港町。都会から汽車で一日。どこにでもある小さな町だ。

 世界の果てが、私の墓に相応しいと思った。

 だが───人はなぜ、こんなにも闇を恐れるのか。

 もしも人が火を手に入れていなければ、野性のままに生きていたろうか。闇に目を光らせ、耳で世界を捉え……

 私はランプの火をふうっと吹き消した。





 翌日は昼過ぎに起きた。気ままな独り身だ。私は髭をあたらず洗面だけを済ませ、表へ出た。街道から少し逸れて川沿いの道を行く。日差しを反射する白い道は眩しく、時折の風に乗った川面からの飛沫が心地よい。いつしか道にひと気がなくなり、私は独り、ゆらゆらと歩き続けていた。

 行く先に見えていた一軒の家の扉がふいに開いて、青年が出て来た。私は思わず足を止めた。───黒い髪。

 都会でも偶にしか見かけぬ、海の向こうの陸の人種である事を示す黒髪の者は、この小さな田舎町にそう何人もいるものではないだろう。

 彼が振り返った。

 眼鏡の奥の黒い瞳。やや低い鼻。細面の輪郭。昨夜の暗闇と薄い唇にまで届く前髪とに隠れていた顔は、思いがけず若かった。きなりの麻のシャツを身に着け、黒い鞄を肩から斜に提げている。左手には手紙の束を持っていた。

 ……彼は郵便配達夫だった。

 私を見つけると、彼はかすかに笑ったように見えた。

 視線だけは鋭く私を射抜く。

 そうして何事もなかったように背を向け、私の前を歩き出した。

 ほんの一瞬迷って、私は戻らずに彼の後に続いた。川と畑に挟まれた一本道だ。私は彼の歩調に合わせ、距離を保った。彼がまた次の家の戸を叩く。立ち止まるのも不自然なので、彼が手紙を渡して歩き出すまでは歩調を緩めた。それを繰り返すうちに、私はだんだんと彼に近づいていった。

 ふいに彼が足を止めた。私もつられて立ち止まった。

 彼のいる先の畑の間の横道から、黒服の一団がゆっくりとやって来るのが見えた。───葬列である。

 葬列は川沿いの道に入るとこちらへ向かって来た。彼は葬列の中程の棺を乗せた小さな馬車を見ていたらしかった。馬車の動きに合わせて体の向きを変え、私から横顔が見えるまでになった時───彼の目の前を馬車が通る時、彼はわずかに頭を垂れた。

 葬列の人々が全て彼の前を通り過ぎると、彼は手許の郵便物を確かめ、畑の中の坂道へ曲がっていった。私の横を葬列が通ったが、私は彼が畑の作物の緑に隠れるまで、そこに立ち尽くしてその姿を見ていた。

 そして、辺りには誰もいなくなった。

 日差しは照り返して、頭の上から、足元から、私をじりじりと焦がした。日陰を探して見回すと、少し先に橋が架かっているのが見えた。石造りの跳ね橋の下には濃い影が出来ている。私は土手を下って、橋の下の日陰に逃れた。そこだけ空気がひんやりと冷たい。大きく息を吐いて草の上に座った。

 たぷんたぷん、と川はゆったり流れ、他には何の音も聞こえない。しばらくここで休んでいこう……私はごろりと上半身を倒した。





 どれ程眠っていたのか、人の近づく足音で私は目を覚ました。目を開けると視界の隅に見える西の空は茜に染まり、黒い影がその中にくっきりと浮かんでいた。私は慌てて跳ね起きて、その細い人影に目を凝らした。

 若い女だった。顎の辺りで切り揃えた栗色の髪を揺らして身を屈め、私の顔を覗き込もうとしていたところだった。黒い服。また黒だ……そう思っていると、彼女は微笑んで私に言った。

「お客様かしら?」と。

 客?何の事だ。

 私は自分が旅行者であり、偶々ここで一休みしていたのだと述べた。

「そうでしたの。ここは……そうですね。一休みには良い所ですわ」

 彼女はクスッと笑って、「失礼ですけど、まだいらっしゃるのでしたら、ご一緒してよろしいかしら。人を待っているんです」と言った。私は頷いた。こんな美人の申し出なら、断る者はいないだろう。彼女は私の隣に腰を下ろした。

 とは言え、沈黙していては間が持たない。黙って一緒にいるのもおかしいような気がした。何か気の利いた言葉はないものか、とあれこれ考えた。あなたのような方が黒い服を着ているなんて、もっと明るい色がお似合いでしょうと言うと、「今日は友人の葬儀でしたので」と答えた。非礼を詫びながら、先刻の葬列の中に居たのか、と思った。

 ふいに彼女が顔を上げて、土手を見遣った。

 誰かが土手を下りて来る。西日を浴びた黒髪───郵便配達の青年である事が判って、私は急いで立ち上がった。私はこれで、と言おうとすると、彼が私に気づいて……あの、鋭い眼差しで……唇だけで笑った。

 彼はこちらへ歩み寄り、彼女ではなく……私に話しかけた。

「いらっしゃい」

 背筋に寒いものが走った。

 どういう意味だ───?

 そして彼は腰を下ろしたままの彼女に視線を落とすと「やっぱり来たね」と言った。

「あなたも」と答えて彼女は微笑んだ。

「今日は一杯だけでも飲んでいくといい」

と彼は言って、草の上に座ると小さい瓶を前に置き、傍らの草の葉を摘み取って丸めた。

「おじさまはお酒がお好きだったものね」

「あんなに飲まなければ長生きできたろうに」

 フンと笑って葉の盃に酒を注ぐ。私を見上げて「良かったらあなたも一杯やっていってください。この人の、」と目で彼女を示した。「大事な人が亡くなってね。最後の酒宴とでも言えばいいかな」

「…あら、あなたにも大切な人だったでしょう」

「僕にはおかしな爺さんにしか見えなかったが」

 二人の会話を聞きながら、私は再び腰を下ろした。

「おじさまもあなたが見送りに来てくれて喜んだと思うわ」

「僕は葬式には出ていない」

「こっちまで配達に来たでしょう。いつもは町の方なのに」

「…同僚が夏休みを取ってね。それだけだ」

 彼女は目を伏せて、ふふ、と笑った。

 勧められるままに酒を飲んだ。つんとする酒と、草の葉の青い香りが鼻をくすぐる。───私は一体……ここで何をやっているのだろう。

「幸せな最期だったろう。家族や君という友人に囲まれて」

「あなたの事も気にかけていらしたわ」

「…お節介だな」

「おじさまの残り少ない時間を、私が一緒に過ごせたのはあなたのおかげだもの。どっちがお節介なのかしら」

「ハ、ばかばかしい」

 彼は酒を啜って軽く溜息を吐いた。

「僕は何もしていない」

「そうね。でも、あなたがいるだけで、おじさまには幸福だったのよ」

「………」

 俯いた彼は目を見開いて、きゅっと唇を結んだ。

 何の話をしているのか、私にはよく判らなかった。ただ、亡くなった老人が二人にとって大切な人物であったという事だけ判った。

 彼女は「日が暮れるから、帰らないと」と立ち上がった。

「もう来ないでくれ」

 今度は彼女が目を見張った。彼は手にしていた葉の盃を投げ捨てた。

「…あの人は死んだ。もうここに来る理由はない筈だ」

「………」

 彼女は何も言わず、私に会釈して駆け出した。私は首を左右に動かして、走り去る彼女と、川面を見つめて黙り込む彼を交互に見た。

 差し出がましいようだが、今のは彼女を傷つけたんじゃないのか、と私は尋ねた。彼は両手を枕に仰向いて寝転がった。

「…あなたもお節介だな」

と言って彼はフッと笑いを洩らした。

「ここはいつからお節介焼きの溜まり場になったんだ?冗談にも程がある」

 冗談とは何だ、と思わず声を上げた。彼は横目で私を見て……冷たい目だ……片方の口の端を上げた。

「全部だよ。……そう、何もかも。追求するのもばからしいからやめておきなさい。……判りませんか。例えば…そうだな、あなたが崖から落ちそうで落ちなかった、そう言えば判りますか?」

 頭を殴られたような気がした。

 拳をぎゅっと握って、体の震えを抑えた。

 ───何て無神経な男だ。

 彼は目を閉じた。

 私は震える拳を彼の上に振り下ろした。

 彼は両手の枕の上で首を動かし、目を開いて私を見た。フッ、と笑うと口の端から血が流れ落ちた……そしてまた目を閉じた。

「…眠いんですよ。起こさないでください」

 私は無言で立ち上がり、土手を上って町への道を走って引き返した。


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