72%
ベッドに体を投げ出した。腕の端から漏れる蛍光灯の光が眩しい。
もう絶対に届かないと分かってその存在が大きかったことを痛感する。
後悔の言葉が頭をよぎる。もし、どこかで私の行動が違ったら、何かが変わっていたのかもしれない。でも、そんなことを思ってももう仕方がない。
それに、五年後とか十年後とか大人になったときにきっと良い思い出として頭に浮かぶ。そんな気がする。
机の上に置かれたお菓子の箱を取る。一粒取って口の中に入れる。ほろ苦さと少しの甘さが口の中に広がる。
* * *
日曜日の午後、近所の図書館で勉強するのが習慣となっていた。入り口を通って奥の方、自習に許されたスペースの片隅で参考書やルーズリーフを広げる。中学生のときから変わらない三時間。それは一人で過ごすこともあれば、
「よっ」
「おっ。今日は来たんだ」
十年来の幼なじみと一緒のこともある。
「もう部活もねぇし、勉強するしかねぇだろ」
そう言って彼――翼は私の前の椅子を引く。私はフッと息を漏らすと解いていた数学の参考書に目を戻した。
夏がそこまで来ている気配がする昼下がり。特に何を話す訳でもなく、それぞれが自分のやることに目を向けるこの時間が結構好きだった。
翼と私は幼稚園から中学までずっと一緒だった幼なじみ、もっと言うなれば腐れ縁という奴だ。家も近くて親同士も仲が良い。小さい頃はよく公園や互いの家で遊んでいたが、年齢が上がるにつれてそんなことも減った。中学生になると廊下で会ったときぐらいしか話さない。それでもなんだかんだ言って付き合いが変わることはなく、高校が別々になってもこうして週一回あるかないかの頻度で顔を合わせている。
「……ごめん、翼。この問題分かる?」
私の問いに翼が顔を上げた。参考書をクルッと回してある一点を指差す。
「ここの(2)のところなんだけど……」
「……ああ、ここは、まずこれ見りゃいいんだよ」
翼が参考書の向きを戻して横に書かれたグラフを指差した。骨張った長い指が視界に入る。低い声を少し抑えた説明は耳に心地よかった。翼は昔から数学が得意で難しい問題なんかもサラッと解いてしまう。
「で、ここを計算すると……」
「あ! そっか、分かった! ありがと!」
「ん」
「いやー。さっすが理系だね」
「お前も文系っつったって経済系目指してんだろ? 数学バリバリ使うだろ」
「うーん、そうなんだけどさー。積分苦手なんだよねー。こういう面積求める系は特に」
「まあ、慣れじゃね」
言いつつ翼が自分の参考書に戻っていく。私も教わったばかりの問題を終わらせるためにシャーペンを持ち直した。さっき言われたことを反芻しながら答えをルーズリーフに書く。無事正解に辿りついてホッとしながらチラッと前を見ると、翼がすごく真剣な眼差しで英語の長文に向かっていた。こういうときの表情ってずっと同じだなー、と思わず笑みが零れた。
図書館で一緒になった日には帰りも一緒になる。家が近い、それも同じ区画の翼が三番目、私が七番目という並びだから当然と言えば当然だ。
まだ空は青いけど、太陽の熱は弱まっていて、もう夕方であることを十分に感じさせる。
「ほら、一つやるよ」
「やった、これ好きなヤツ」
翼が差し出したのはよく見る深緑のチョコレート菓子のパッケージだった。カカオ72%の少しほろ苦いそれを一粒つまむ。口の中に広がる程よい甘さは勉強疲れの体を癒やしていく。
「そういえば翼は進路どうすんの? どこの大学にするかとか決めた?」
「いや、俺大学行かないよ」
「ふーん。じゃあ専門学校ってこと?」
「ん、まあ、そう」
翼はあまり多くを語らない。だから私も多くを訊かない。それが時間と経験で積み上げた私と翼の距離感だった。リハビリトレーナーになりたいというのは前に聞いていたから、そっか、で済ませる。
「どの辺にあるの? その行きたい学校は」
信号がチカチカと瞬き、色を変えた。車が目の前を行き来する。
翼の口がぼそっと一つの単語を吐き出す。
「……そっか」
信号の光が目に眩しかった。翼に聞こえないように静かにゆっくりと息を吐く。
翼が言ったのは二つ隣の県にある町だった。電車で行くと二時間以上かかる。
「……一人暮らしするってこと?」
見上げると翼は一瞬だけ目を合わせると黙って頷いた。
* * *
あのとき、翼が遠くに行ってしまった気がした。明確に将来のことを考えていて一人暮らしをすると決めていた翼が大人に見えた。地元の国立大学に行くと決めていた私が取り残されたような、置いていかれたような気がした。
寝返りを一つ打った。
何でこんな気持ちになるのか分からない。もう恋愛みたいな浮ついた気持ちなんてないのに。上手く言葉に表せなくてモヤモヤする。
箱をスライドさせてまた一粒、口に入れる。
* * *
翼のことを恋愛的な意味で好きな時期はあった。
小学校の高学年から中学生のとき、ちょうど周りもみんな恋に目覚める時期だった。休み時間や放課後になる度に女の子同士で集まって、クラスや学年の男子の話をする。
「ねぇねぇ、今日、――が体育のときにね……」
「ねぇ――が掃除のときに……」
「……そしたら――がこう言ってくれたのー!」
こういうときに翼の名前はよく出てくる。運動神経がいい男子が人気だったお年頃。背が高くて足も速かった翼がモテるのは、当然の成り行きだった。
「ねぇ、理香ちゃんは翼くんのことかっこいいとか思わないのー?」
「ええー。特に思わないよー」
「何でー? 幼なじみなんでしょ?」
「すっごい仲いいじゃん!」
「好き、とか思ったりしないの?」
急にそんなことを言われても、好きということがどういうことなのか分からない。この手の話のときも、私は大体聞き役だった。
「好きって、どういうことなの? そっからよく分かんないよ」
「理香ちゃん知らないの? えーっと、好きっていうのは、その人のことを考えると胸がキューってするとか、あとは……」
「その人のことを考えるだけでワクワクしたり、ずーっとその人のことを考えちゃったりするとかのことだよ」
そう言われると、なんとなく想像できた。
「別に私、翼のことばっか考えないし、ワクワクとかキューってするとかもないよ」
「へぇー。そうなんだ」
「じゃあさ、理香ちゃんは翼くんのこと、恋愛対象として見てないってことだよね?」
一人の子が顔を輝かせて言った。翼のことを好きな女子たちの一人で、よく恋愛占いとかおまじないとかをしていた子だった。大分年上のお姉さんがいるとかで、クラスの中では一番ませていた。
微妙に首を傾げながら頷くとその子は「よかったー」と胸を撫で下ろした。
「そしたら私、翼くんに告白してみようかな……」
その場が一気に色めき立つ。
「え、すっごーい‼」
「頑張って!」
「もしかしたら付き合えちゃったりするかも!」
口々に応援されて照れ笑いを浮かべるその子を見て、何だかモヤモヤした。その子と翼が並んで歩いているところを想像すると、そのモヤモヤは余計に強くなった。
* * *
後に小学校からの親友が言った。
「理香はそのときにはもう、尾崎くんのこと好きだったんだね」
そう言われるとそうなんだと思う。
きっかけなんてもういつか分からない。気づいたら翼のことが好きだった。
自覚したら止まらなくて、好きで好きでたまらなくて、翼を目で追っていた。よく話しているのは変わらないのに、話せただけで心が弾んだ。
今思えば多分、そのときが一番幸せだった。
また一つ、チョコを口にする。
* * *
一度だけ、翼に告白しようかと考えたことがある。高校は別になると言うことは知っていた。あるあるだけど、卒業式のときならいいんじゃないか、とか思っていた。いつもの何気ない話をする感じで話しかけて、サラッと言えたら、などと浮かれていた。その矢先だった。
尾崎翼に彼女ができた。
受験を乗り越えてリラックスした雰囲気の中、その噂は瞬く間に広まった。聞くところによると、相手は同じ塾の子らしい。彼女を知っている子によると、「めちゃくちゃ女の子らしくてスタイル良くて可愛い」ということだった。
「何か尾崎くんから告ったらしいよー」
「え、そうなの⁉」
「うん、皆で遊びに行った帰りに? らしいよ。その子から聞いたー」
「へぇー。男らしいとこあんだねー」
……私は今、上手く笑えているだろうか。心臓が早鐘を打っている。指先の感覚がなくなってきている。この場を離れたいと思っているのに耳が話に集中してしまう。無理に口角を上げて聞き役に徹する。友だちが話す「彼女」は、何もかもが私と正反対だった。
日曜日。ずっと気になっていたシリーズを借りようと訪れた図書館で、翼に会った。翼は意外と読書家で、今も分厚い本を抱えている。――私が読もうと思っていたシリーズだった。
特に勉強することもなかったが、流れでいつもの席に座る。一方的にだけど、少し気まずい。あんなに浮かれていたのが、馬鹿みたいだった。一番近い男子のはずだったのに、今はもう一番遠い。
彼女のことを訊こうと思った。でも訊かなかった。正面に座る翼はいつもと一緒で、彼女ができたと言う風には見えなかった。
「翼は高校ではサッカー続けんの?」
「多分。でも、塾の先輩に柔道やんないかって誘われてる」
「塾の先輩と同じ高校なの?」
「うん」
「へぇー。柔道ねぇ。これまたジャンルが随分と違うことで」
「お前は? 高校でもテニス?」
「んー、今のとこはね。でも高校って中学とは違って部活いっぱいあるでしょ? 換えるかも」
とりとめのない話をたくさんした。いつものように何でもないような話。その一つ一つが嬉しくて、でも寂しかった。もうこんなこともなくなるんだろうなー、と思うとちょっとだけ切なかった。いっそのこと、このまま時間が止まれば良いのに、と叶うはずのないことを願った。
* * *
翼の口から彼女の話を聞いたことは一回もない。それどころか恋愛話も殆どしたことがない。ただの友だちで幼なじみ。高校に入ってからは週に一回あるかないかの勉強仲間。それが翼と私の関係だった。
高校生になってからお互いにスマホを持ち、LINEを交換したけど、やりとりらしいやりとりはそんなにしない。何度か送ってみようかと思ったけど、彼女でもない女から送られてきたって迷惑なだけだと思いとどまった。彼女との関係も多分良好だと思う。仲を引き裂くようなことはしたくない。そのきっかけにもなりたくない。それに、メッセージを送るという行為が未練たらたらな感じがして嫌だった。
それなのに。
また一つチョコを口に入れた。
翼はたまにすごく優しいから狡いと思う。
* * *
センター試験の出願も終わった秋。模試の結果がガタ落ちした。終わった時点での手応えもそんなに感じなかったが、マーク模試も記述模試も正答率が格段に下がり、今まで少しBよりのCだった志望校判定はDになっていた。成績表を確認すると、得意なはずの英語でも点が取れていなかった。結構頑張って勉強して、成績も少しずつ上がってきて、第一志望も行けるんじゃないかと思っていたところにこれは痛い。先生はしっかり復習すれば大丈夫だなんて言っていたけど、そんなこと言われても安心できる訳がなかった。
図書館で一人、解き直しをする。最近は閉館時間ギリギリまでいることにしている。このままだと受からないかもしれない。不安があとからあとから襲ってくる。
国語。時間配分間違えた。しかも漢字で凡ミスしてる。
社会、理科。苦手な分野を揃いも揃って間違えている。今度から集中的にワーク解いていかないと。
英語。いつもは取れるはずの問題も取れなかったのは痛い。もっと問題数を増やしていった方がいいのかもしれない。
そして数学。ⅠAはともかく、ⅡBが壊滅的だった。最初から解き直す。三角関数、数列、指数対数。落ち着いてやるとちゃんと解けて、それなのに何であのときできなかったんだろう、と泣きたくなる。微分積分。参考書や教科書で解き方を見直す。でも分からない。どこをどうしたらこの解が導き出せるのか分からない。
唇を強く噛む。手が震えて上手く文字が書けない。
「そこ、こないだできてただろ」
突然掛かった声に肩が跳ね上がった。シャーペンが勢いよくずれてルーズリーフに濃い線を残す。ハッと顔を上げると、翼がいた。何で。何でここにいるの。もう受験終わったはずじゃ。そんな疑問を余所に翼はガタガタ椅子を引いた。
「……受かったんじゃないの」
「受かった」
「じゃあ」
「お前が俺より数学できるようになるのは癪」
それより、と翼は今私が解いていた問題を指す。
「ここ。こういうの解くときはここ見ればいいって言っただろ」
「あ……」
そうだ。だからこの式が……。急に頭が冴えてきた。
「分かったわ、ありがと」
問題に戻ると翼も黙って問題集を広げた。
結局翼は閉館時間まで一緒に勉強していた。もう二度とないと思っていた時間にさっきとは別の意味で泣きたくなる。
「ほら」
翼がいつものチョコを放ってきた。一粒取って返すと、「全部やる」と返ってきた。
「どしたの、今日は? 気前いいね」
「ん、別に」
特に会話をすることもなく黙って歩く。いつも食べているチョコレートはいつもより少しだけ苦いような気がした。
空は最後の光を残していて、グラデーションが綺麗だった。
次にこうして会えるのはいつになるだろうか。もうないのかもしれない。ない可能性の方が高い。今日だって奇跡のようなものだ。
家が見えてきた。感傷的な気持ちを振り払う。いつも通りに。いつもの私らしく。失恋してから常に言い聞かせてきた。
「じゃあ、またね。合格おめでとう」
「ああ」
背を向けて歩く。少し切ないけど、落ち込んでいたのはなくなった。明日からはまた、志望校に向けて頑張れる気がする。
「理香!」
足が止まった。振り向くと翼はまだ家に入っていなかった。真っ直ぐに私を見つめる。私も真っ直ぐ見つめ返す。
「焦るなよ」
口元に笑みを浮かべた。大きく頷く。クルッと振り返って家に入る。扉を閉めるとなぜだかまた泣きたくなった。
* * *
箱の中のチョコが残り三粒になった。カカオ72%の市販のチョコレート。翼から貰っていたのもいつもこれだった。
翼は今日引っ越していった。私は無事、第一志望である地元の国立大学に受かった。もう気軽に会うことも、話すこともできない。
一粒、口に入れる。
翼が好きだった。彼女がいても、ずっと心のどこかで好きだった。
告白しておけば良かった、と今更のように後悔が漏れる。
LINEしようと思えば簡単にできる。でも、送るのが怖い。いろいろ理屈を並べてもそれはただの言い訳に過ぎなくて、結局何も返ってこないかもしれないことが怖いのだ。
また一粒、口に入れる。
楽しかった。翼との時間は、いつだって特別だった。「理香」と呼ぶ声が好きだった。何だかんだ言って側にいてくれたのが嬉しかった。不器用な優しさがいつだって温かかった。
最後の一粒を口に入れる。
いつも食べていたチョコレートは、ほろ苦くて、少し甘い。