グリーン・アイド・モンスター
入院して、最初の3日くらいは慌ただしかった。手術があったことはもちろんだが、装具士さん、作業療法士さん、栄養士さん……等々、意外に院内の訪問者は多く、気が休まらなかった。
加えて、事故の加害者――タクシー運転手の代理人、保険会社の担当者も挨拶に来た。仕事中の事故なので労災扱いになるから、実費はほとんど掛からないのは安心だけど、折につけあれやこれやの書類を書かなければならないのには、閉口した。
入院生活に慣れてきた、5日目の午後。
2年後輩の同僚、矢萩ちゃんが、百貨店の紙袋を手に病室に来た。
「先輩、コレ好きでしたよねー」
ニコニコと、紙袋の中から取り出した、緑色の小さな包みを床頭台の上に置く。
「わぁ、ありがとう。こんな気を遣わなくていいのよ」
私の好物の高級チョコレート店のラッピングに、ちょっと申し訳なさすら覚えた。しかし、そんな私の呑気な謝意は、すぐに打ち砕かれた。
「いいんですよぉ、若奈さん。福元様の案件、あたしに譲ってくださったんですもん」
「え……」
「これから末長くよろしくって、あたし、社長さんにすっかり気に入られちゃってぇー」
それから私は、三顧の礼よりもっと多く頭を下げて、ようやく取り付けた大型契約を、あっさり彼女に浚われたことを知った。
引継ぎ――主任はそう言っていた。休職期間中の一時期なことだろうと安心していたが、現実は甘くなかった。私が抱えていた案件が、退院後の私に戻ってくる保証など、全くなかったのだ。
「はぁ……」
天井のクリーム色のグラデーションを眺めながら、溜め息が出る。
福元様の仕事、苦労して取ったんだけどな。
私が勤めるコンサルタント会社では、ライフスタイル全般、多岐に渡って、お客様の生活がより快適に豊かになるように提案させていただく。だから、クライアントは一般の個人よりも、ショップや企業が主になる。
例えば、カフェのオーナーが拘るデザインの食器を調達したり、建設会社にから委託されて、インテリアやカラーコーディネートを受け持つこともある。
中には「話だけ聞きたい」という依頼もあり、それが正式な仕事として成立するかどうかは、担当者の努力次第だ。福元様の仕事も、この類の依頼だった。
この分じゃ、他の案件も手を離れたと思って間違いないだろう。
受け持つ仕事の大半は、会社に入った依頼が回ってきたものだ。でも、稀に――ネイルサロンでの講師依頼のように、私個人を指名した仕事が入ることもある。
私には、いずれは――カラーセラピストとして独立する夢がある。今携わっている仕事が、いつかは繋がるかもしれない。だから、日々、必死に走り続けてきたのに。
床頭台で存在を主張する緑色の包みが、無性に憎らしい。矢萩が悪い訳でも、このチョコレートが悪い訳でもないのは、理屈では分かる。けれど――気持ちが割り切れない。
『はい、どうかされましたか?』
気付けば、ナースコールを押していた。
虫歯が痛むからとか適当な言い訳をして、看護師さんに引き取ってもらった。このまま視界を侵略し続けたら、ベッド脇のゴミ箱に叩き捨ててしまいそうだったのだ。
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翌日は土曜日で、午後からコーシが着替えを持って来てくれることになっていた。入院後、彼が来るのは3回目。それが多いのか少ないのかは、分からない。ただ、新しい店舗が来月開店するらしく、その準備にかり出されていると言っていたから、忙しいことは間違いない。
ベッドのリクライニングを起こして、小雪がちらつく窓の外を眺める。床頭台に備え付いたテレビがあるが、のんびり観る気にはならない。雑誌が本でもあれば良かった。スマホで国内外のニュースを素通りして、メールを確認すると、後はすることがない。
「こんにちは、茂上さん」
爽やかな笑顔で、リハビリ担当の吉野さんがカーテンから顔を覗かせた。
「調子は、如何ですか?」
卵形の輪郭に、大きめなフレームの眼鏡。親しみのある雰囲気の彼は、私の状態が記された薄いファイルを手に、毎日現れる。
「はい、変わらないです」
可もなく不可もなく。痛むとか浮腫むとか、そういう主観の確認だ。
「そろそろ、松葉杖の練習しましょうか」
手術の翌日から顔を見せた彼は、左足にマッサージや簡単なストレッチを施してくれていた。入院中は安静が基本だが、寝てばかりいると筋肉が減ってしまう。そこで、負荷をかけ、残存機能維持を図るのだ。
「まずは、車椅子に移ってくださいね」
彼の手を借りて、ゆっくりと身体を移動する。5階の病室から、リハビリテーションセンターがある7階へ、運んでもらう。
フロア全体がリハビリ施設になっていて、至る所で担当者さんの指導を受ける患者達の姿があった。
ダンベルを上げる人、バイクを漕ぐ人、マットの上でストレッチ運動している人……老若男女、様々いる。
「茂上さんは、こっちで松葉杖合わせましょう」
吉野さんは、クルリと90度右に向け、平行棒の近くに車椅子を止めた。そして、装具庫から何セットか松葉杖を抱えて来ると、身長と使い心地から、私の第2の脚が決まった。
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――疲れた。
リハビリセンターから戻って、ベッドに伸びる。たった数日動かなかっただけなのに、思った以上に身体は鈍っていて、驚いた。
「若奈ー、来たよー」
夕方になって、ようやくコーシがやって来た。仕事帰りらしく、チャコールグレーの少しよれたスーツ姿だ。
着替えを入れたと覚しきショップ袋を携えている。
「ありがとう」
冷えた冬の空気を貼り付けたコーシは、床頭台に付いた引き出しの中に持参した下着類を収める。代わりにビニール袋に入れて置いた洗濯物を紙袋に入れた。
「あ、そうだ。コレ、お見舞い。食べ物の制限は、なかったよね?」
屈託ない笑顔で振り向いて、紙袋の中から丁寧に出す。枕の横に置かれた緑色の包みを見て――私は強張った。
どうして。間が悪すぎる。
「あれ? ここのチョコ、好きでしょ?」
よりによって――矢萩が持ってきたのと同じ、高級チョコレートの包み。
イガイガした気持ちが、また蘇る。優しい言葉を選べない私が、居る。
「……ごめん。それ、持って帰ってくれる? ……入院中動かなくて、太るから」
取って付けたのが、ありあり。コーシの表情も、流石にちょっと曇る。
「……そっか」
粗暴な手付きで掴むと、彼は入れてきた紙袋の中に包みを放り込んだ。
「松葉杖、使ってるんだ」
沈黙を埋めるように、彼が話題を変えた。けれども、ささくれ立った気持ちは、すぐには治まらず。
「今日からね。疲れて、やんなっちゃう」
「頑張ってよ。これから必要なんだから」
「分かってる」
「あのさ、他に用事ある?」
「――え。ううん……」
「じゃ、帰る。明日も休日出勤なんだ」
「うん……」
「じゃあね。また2、3日したら来る」
「うん」
サッと身を屈め、紙袋を拾って、コーシはカーテンの向こうに消えた。微笑みも、挨拶もなく。
ドアの閉じる乾いた音が小さく聞こえた途端、後悔だけが溢れてきた。
――最低だ、私。
仕事帰りで、疲れているのに。明日も、忙しいのに。「ありがとう」の一言も口にしなかった。
自己嫌悪で、涙が出る。胸の中のどす黒い感情を持て余した挙げ句、コーシを傷付けてしまった。
窓の外の雪は、思ったより激しく降っている。滲んで、目の前が白く霞んだ。