ペールピンク・ベール
「あ、ありがとうございます」
廊下の方から聞こえた、特徴のある男性の声に、現実に引き戻される。もしかして――。
「若奈?」
やっぱり、だ。
カーテンを引いて現れたのは、角田公志。付き合って2年半になる、彼氏だ。
「うん。忙しいのに、ごめんね」
シャッとカーテンをきっちり閉めて、ベッドサイドの丸椅子に腰かける。グレーのスーツに、淡いピンクのネクタイ。色素の薄い猫っ毛の茶髪は、窓からの光を受け、柔らかな質感が際立っている。
「びっくりしたよ。大丈夫……じゃないよね。どのくらい、かかりそうなの?」
男性にしては、やや高めのハイトーンボイス。迷子の仔犬のような眼差しで、私の髪をそっと撫でる。
「単純骨折だったから、半月くらい。その後はリハビリだって」
「そっかぁ……」
途方に暮れた声。もぅ……分かってるわよ。
「コーシ、ご飯、ちゃんと作れる? コンビニ弁当ばっかりじゃダメだよ?」
痛む左手をゆっくり持ち上げ、彼の頬に触れる。私がいなければ、多分この人は、外食か出来上がりのお惣菜ばっかり食べるんだろう。
「うーん。自信ないから、早く帰って来て」
困り顔で、ふにゃっと小さく口元を綻ばせる。
「たった2週間でしょ。頑張って」
この台詞、何か逆、だよねぇ。全く。どっちが怪我人か分からない。
無理に微笑むと、つられたように笑顔になった彼は、私の額に口づけた。
「あとね、悪いんだけど、下着とか着替えを持って来てくれないかしら」
「うん。明日でいい?」
「いいよ。ありがとう」
私の部屋の合鍵を持っている彼は、快く引き受けると、手を振って帰って行った。
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3つ年下のコーシとは、仕事先で知り合った。
お客様のメンタリズムに合ったネイルの提案をしたい――というネイルサロンからの依頼で、私が講師として出向いた。カラーセラピストの資格は、こういう時にも活かされる。
20代前半の可愛らしい女性ネイリスト達に混じって、唯一線の細い男性が受講していた。それが、今回の依頼を持ち掛けてきたマネージャーのコーシだった。
『ご依頼いただき、ありがとうございます』
初回講義の後、彼の誘いでイタリアンレストランで食事した。
『茂上さんのお話、とっても分かりやすくて、楽しかったです!』
明るく、はつらつとしたコーシは、人懐っこい笑顔で、お店のオススメだというロゼワインのグラスを掲げた。
『ありがとうございます』
何となく雰囲気で、グラスを合わせる。
『……ふふっ』
ピンクに白のストライプ柄のYシャツと同じくらい頬を染めながら、コーシは嬉しそうにはにかむ。
『角田さん?』
運ばれてきたサラダを取り分けながら、彼はキラキラした瞳を向けてくる。
『あ、はしゃいでしまって、ごめんなさい。僕、茂上さんに会いたかったんです』
『……え?』
少年のような煌めきを放ちつつ、彼の頬は更に色付いた。
『半年前、夕方ワクワクテレビに出てましたよね』
フォークをパプリカに突き刺したまま、しばし固まる。「夕方ワクワクテレビ」とは、地元で放送されている情報番組だ。時期は忘れたけれど、確かに出演した覚えはある。10分程度のミニコーナーで、私が開発に関わったスィーツが特集された。開発と言っても、味や材料はパティシエの仕事。私は、シーンに合わせたカラーの提案だけだ。例えば、疲れた女の子が自分へのご褒美に食べるなら、元気が出るハニーイエローが良い、とか。
『僕らの仕事は、指先からお客様を応援します。貴女が話していた色の魔法について、ちゃんと聞いてみたいと思ったんです』
『恐縮です』
フォークを置いて、私は頭を下げた。1つの仕事が次の仕事に繋がる。だから、どんな些細な仕事でも手を抜かない。一生懸命携わらせていただく。喩え、仕事の評価が、個人ではなく会社に還元されるとしても――。
『そんな……畏まらないでください。ご飯は、楽しく食べましょう!』
桜色に上気した頬が、可愛いと思った。男性に対して、そんな感情を抱いたのは初めてで、私はすっかり戸惑っていた。
全6回の講義は、毎回終了後にコーシからの食事の誘いが待っていた。
年下は恋愛対象ではなかった私だが、彼との時間は癒されて、いつしか特別なものになっていた。
依頼された講師の仕事が終わっても、コーシから食事の誘いは定期的に続いた。その年最後の桜を観に出掛けた夜――淡くライトアップされた桃色の雲海の下で、私達の関係はプライベートな領域へと踏み出した。