ブルー・マーブル・ブルー
「後のことは、松本さんが引き継いだから」
「すみません……ありがとう、ございます」
右足の骨折と全身打撲。身体中、痛みと内出血だらけで、頭を下げることもままならない。痛々しい包帯だらけの私を見ても、職場の上司――生田チーフに同情の気配はない。元より細いキツネ目は、銀のフレームの奥で、呆れたようにキツくつり上がった。
「繁忙期に困ったわねぇ。ま、早く治してよ」
「はい……すみません、チーフ」
エルメスの青いコートをバサリと翻して、彼女は病室を出ていった。
パーティションのカーテンが、30cmくらい開いたまま揺れている。ナースコールを鳴らすまでもないから我慢するけど、きちんと閉めて欲しかったなぁ。
柔らかなクリーム色の天井を眺め、ハァ……と溜め息がこぼれる。
信号が変わるタイミングで、慌てて車道に踏み出した私も悪い。でも、左折してきたタクシーも、5m先のお客さんに気を取られていて、過失があった。
撥ねられた時に、左折なのでスピードが落ちていたことは、ラッキーだった。
一方で、抱えていた複数の案件を他の同僚達に明け渡さなきゃならなくなったのは、アンラッキーだ。難しい内容の仕事もあったが、やり甲斐を得ていたことは確かで――それらが突然私の手を離れてしまった寂寥感は拭えない。
救急車で運ばれ、あれやこれやと検査に次ぐ検査に追われていた時は、仕事のことなんて意識が向かなかった。入院の手続きや今後の説明を聞かされ、何度か反芻する内に、ようやく現実味が増してきた。
『早く治して』――そう言ってくれたのは、戻る場所があるということだ。戻れば、仕事が待っているということ。
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『そう。ケガだけなんでしょ。あんた、そっちで出来るわね?』
電話口から返る実家の母の反応は、予想通り素っ気なかった。別に大騒ぎして欲しい訳じゃない。どうせ来ないと分かっているのだ。ただ一言、『大丈夫?』その言葉があっても悪くないのに――虚しくなる。
『一応、知らせておいただけ』
失望するだけ馬鹿らしい。そう思っても、頭のどこかで微かに期待していたことに苛立った。
地方都市から、親の反対を押し切って、心理系の資格が取れる大学に進学した。奨学金とバイトを掛け持ちしても無理を通したのは、目指す仕事があったから。いち早く目標を定めたのは、それを口実に、あの家を出たかったから。
父の顔も知らない頃に、両親は離婚した。母は再婚することもなく、女手一つで育ててくれた。彼女の苦労には頭が下がるし、感謝もしている。
しかし高校進学後、事ある毎に、彼女は私の将来について口を挟むようになった。それが当然のことであるかのように。彼女は、自分と同じ公務員――しかも彼女が就けなかった教員にさせたがった。だから、大学も教職課程の学科がある、地元の大学に行くことを強く望んでいた。
一人っ子で育った私は、子どもの扱いが飛び抜けて苦手で、子ども相手の仕事に就くなど考えられなかったのに。
進路指導や三者面談の度に、言い争いは激しくなった。母は、自分の思い通りにならない私に苛立ち、それでいて外面を気にした。だから、他人には「反抗期で困ったものね」などと涼しい顔で溢していた。
――この人とは、分かり合えない。別の文化から来た、エイリアンなんだ……。
私は、母と歩み寄ることを諦め、独りで生きていく道を探した。
18の春、志望校に合格した私は、計画通りに家を出た。そんな私に、母は大いに失望し――『恩知らず』と罵った。
進学後、カラーセラピストとカラーコーディネーターの資格を取って、今のコンサルティング会社に就職した。母には、一応報告していたが、一度も祝福めいた言葉をもらったことはない。この頃には、もう期待もしていなかったが。
繰り返された母との確執の日々は、どす黒い憎しみと、真っ赤に煮えたぎる激しい怒りが渦巻いていた。やがてそれらを覆い隠して、冷めた孤独が凍てついた。グロテスクなマーブル模様を内包したままの蒼白い氷河は――この先もきっと、溶けることはない。