春風と、甘酸っぱい香り
いかがでしょうか。
ちょっとした休憩になればよいのですけど
「ツヅラ。いるんだよね?」
私は視えない妖に語りかける。
そういえば、子供の頃は彼の前でだけ素の自分を曝け出していた。独りでいる時でさえ、心の壁を作っていたと思う。
彼と一緒の時だけ気負わずにいられた。私は自分の心にさえ気付いてなかったんだ……。
忘れていた感覚を思い出す。必死に堰き止めていた想いが溢れ出しそうになった。
まだだ。これから始めるんだから。
「お願いがあるの。私の力を返して」
桜の木に寄りかかる彼を思い描きながら、続ける。
「勝手なのは分かってる。でも返して欲しいの。その力は私が背負うべきものだから」
私は我儘な人間だ。
あれほどまでに普通を願っておいて、一日も経たずにそれを捨てようとしている。
しかも本心では捨てたくない。
もし視ずに済むのなら、と今でも思っている。
自分に嫌気が差す。
それでも、もう一度会いたかった。たとえ彼が私の前から去ってしまうとしても。
二度と会えないよりはずっと、いい。
「もう私に縛られる必要なんかない。ツヅラは十分過ぎるほど尽くしてくれた。だから背負ってくれた家業も、力も私に返してほしい」
本当は違う。
いつまでも縛り付けていたい。私のために存在して、私のために尽くし続けて欲しい。
真実を知った時、心の奥底では喜んでいた。
私は醜い。我儘だ。卑怯だ。
「ツヅラはもう自由だよ」
返事はなかった。
縋りついていた幻さえも見失いそうになる。
彼はここにいないのかもしれない。
いや、いる。あの包み込むような暖かい感覚を覚えている。
だとすれば差し出すものが違うだけ。
「ツヅラの願いは何?」
私には分からなかった。
何を望んでいるのか。何ができるのか。いくら考えても分からなかった。
私は何も持っていない。何の力もない。そんな私にできることなんて、数えるほどもなかった。
「ツヅラにこの身を捧げる」
返事はなかった。
「ツヅラに心も捧げる」
返事はなかった。
「ツヅラに魂も捧げる、から」
返事はなかった。
止まったはずの世界で、花びらが舞い落ちる。
「……お願い、だよ」
もう私には頼むことしかできなかった。
「何でもするから、お願い、叶えてよぉ」
返事はなかった。
彼の願いを叶えるはずなのに、私の願い事だけが虚しく響く。
なんで私はこんなにも我儘なんだろう。
もう分かっていた。
私は嫌われたんだ。
「……たい」
でも、どうしてだろう。
抑えつけていた想いが一気に流れ出す。
「会いたい。会って顔を視たい。会って声を聴きたい。会って謝りたい。会ってありがとうって伝えたい。会って、会って、会って……」
いけない。これ以上は駄目なのに。
「伝えたいの」
顔を視て言うって決めてたのに。
笑顔で伝えるって決めてたのに。
「ツヅラに大好きだって伝えたいの!」
柔らかな風が頬を撫でていく。
地に積もった花びらが一斉に舞い上がり、薄紅色をきらめかせた。
それは何度となく見た光景と全く同じで……。
「我儘な奴だな」
またこの光景を何度も夢見るのだろう、と思った。
彼は当たり前のようにそこにいた。
桜の木に寄りかかり、眠るように目を閉じていた。
「……どうして?」
「お前が願ったんだろうが」
「でも、わたし何もしてない」
「それ俺に説明させる気かよ? 鬼だよ、お前」
彼は目を開くと、鼻の頭を物凄い勢いで掻いた。
「ああ、もう! 一番欲しい言葉をくれただろうがよ」
言葉。それが意味することに気づき、顔が熱くなっていく。
恥ずかしかった。でも嬉しかった。
「黙ってりゃ、好き勝手言いやがって。そもそも俺は縛られてるなんて思ったことはない。全部好きでやったこと。自由も何もない。感謝されても、謝られても困るんだよ」
「……うん」
「何より腹立たしいのはその後だ。身も心も魂も捧げるとか、ふざけてんのか。俺が悪鬼だったらどうするつもりだよ。それに対価としてもらって嬉しいと思うか? お前はそんなに安いのか? あの時の対価まで安く思えるだろうが!」
「うん」
「馬鹿馬鹿しい。やめだ、やめ! お前にこれ以上言っても無駄だ」
誤魔化すように捲し立てる彼がとても愛おしい。
どうして彼はこんなにも優しいんだろう。
「ツヅラ、ありがとう」
その言葉だけで、十分だと分かっていた。
それでも対価には足りないと思った。だから本当の対価を差し出す。
いや、違う。それは誤魔化しているだけだ。他ならぬ私が望んでいること。
「私も謝らないよ」
「……っ」
何かを言いかけた彼の口を無理やり塞いだ。
春風が吹き、甘酸っぱい香りが漂う。
ああ、私の大好きな香りだ。




