願い事
少し分量が多めで申し訳ありません。
削ろうとしたのですが……。
お気軽に、お読みください♪
母の部屋を出た私は、月の明かりに照らされた廊下をぼんやりと歩いていました。
「此花か。こんな時間に珍しいな」
今はまだ会いたくなかった人の声がします。
この前までは、あれだけ会いたかったというのに。
「……本当に間の悪い人」
ついつい本音が零れてしまいます。
私の返事を聞いて、彼は一瞬だけ顔をしかめたように見えました。
「失礼な奴だな」
「あなたも大概失礼な人ですけどね」
「そうそう、その顔だよ、その顔!」
彼はからからと笑います。
何も気にしていない、そんな風に装う優しさに私も自然と笑みが零れました。
「葛籠さんこそ、こんな遅い時間にどうしたんですか?」
少し気が楽になって、私は尋ねました。
「常葉さんへの挨拶だ。野暮用も終わったことだし、明日には発とうかなと。東京に行く予定があるんだよ」
明日。
今を逃すとまた彼と再会する日はいつになるか分かりません。
私は決心して聞いてみることにしました。
彼に嫌われるかもしれません。
それでも、このまま疑念を抱いたまま別れるのは嫌でした。
「あなたは家業を継ぎたくなかったんですか?」
「はぁ? 突然どうした。別にそんなこと考えたこともなかったぞ。あれか、また常葉さんに何か言われたな。あの人の遊び癖にも困ったもんだ」
「……では、どうしてあんなこと聞いたんですか?」
「何の話だよ」
「お願いのことです。本当に約束を果たすために聞いてくれたんですか?」
「はぁ? そりゃ約束したんだからな」
「でも私の返事を予想してたんですよね? それでも聞いたんですよね? どうしてですか?」
畳み掛けるように、疑問をぶつけていく。
「まぁ。常葉さんから近況を聞いて、思うところはあったからな」
頭を掻きながら、彼は答えてくれた。
私の疑念は、とうとう頂点に達しました。
「……もしかして葛籠さんは私の心境を探っていたんじゃないんですか?」
「なるほどな、そういうことか。俺が常葉さんの駒になっていると思っているわけか」
「だって、仕方ないでしょう。今まで便りもなかったのに、急に手紙を寄越してくるなんて。何かあると思ってしまいます」
「……その答えを言う前に、確認しておきたいことがある」
「何ですか?」
「本音を言ってくれ。お前は視えなくなることが望みなんだな」
今度の彼は視線を逸らしませんでした。
ここで私が誤魔化す訳にはいきません。
「はい。この力が大嫌いです。私は視えなくなりたいです」
「理由を聞いてもいいか」
彼の目は、とても傷ついているように見えました。
それでもやめる訳にはいきません。
私は、この力のせいで散々な目に合ってきました。
この話で彼には嘘をつきたくなかったのです。
「視えてしまうモノを無視することは難しいです。私は異常なものを普通と認識します。私には全てが同じに視えます。葛籠さんも思ったことはありませんか? 本当の普通になりたいと」
「俺たちはそもそも異常だからな。普通になるとか考えるだけ無駄だ」
彼のことを少し理解できた気がしました。
それと同時に、私と彼の間には途方もない距離があることが分かりました。
彼のように諦められれば、どんなに良かったことでしょう。
「私の願いは普通に生きることです。この力さえなければ私はみんなと同じ位置に立てると思いました。だから視えなくなりたいんです」
「そんなに普通がいいのか」
「ええ、たとえ全てを他人に押し付けることになろうとも、私は普通になりたかった。いえ、普通になりたいんです。それで他人を縛り付けてしまっていたとしても、私は普通になりたい」
「……やっぱり常葉さんから聞いたのか?」
おそらく、葛籠さんに全てを押し付けていることを指しているのでしょう。
「はい」
あの女狐め、と彼は呟きました。本気で怒っているようでした。
「それでも願うんだな」
私はとても我が儘な人間です。
卑怯なことが分かっていても、頷くしかありません。
それが私なのですから。
「……はい」
私が頷くと、彼はため息を吐きました。
「その願い叶えてやるよ」
私は耳を疑いました。
彼は何を言っているのでしょうか。
「嘘ですよね?」
そんなことできるはずがありません。
あの母ですら、それはできないと断言しました。そんなことができるとすれば……。
「嘘じゃない。もちろん、それなりの対価をもらうけどな」
「対価?」
私は戸惑いました。
そんな私に構うことなく、彼はゆっくりと顔を近づけていきます。
顎の下に冷ややかな感触が走ります。
細い指だと気付いた時、無理やり私は顔を持ち上げられていました。
「お前は望むものを手に入れる。その代わり俺も望む対価を頂く。それが契約だろ」
「そ、そんなことできるはずありません」
「できる。俺は人の望みを叶える妖だ。個人で完結する望みなら叶えることができる」
「妖? 個人で完結? 意味が分かりません!」
葛籠さんが妖だなんて、聞いたことがありませんでした。
そんな。
ありえない。
私は何かとんでもない過ちを犯したのかもしれません。
しかし、気づいたときにはもう遅かったのです。
「俺は絶対謝らないから」
――そう、これは俺にとって正当な対価だから。
彼は囁くように私の耳元で呟きました。
何かが触れ合う音。
「……っ」
言葉を発することができません。
凍り付くような感触とは裏腹に胸が熱くなります。
全身が痺れ、締め付けられるような痛みと、訳の分からない恐怖を感じました。
奪われた。
私が悟った時、他にも大きな変化が起きていることに気付きました。
そこにいるはずなのに、感じているはずなのに、彼が視えないのです。
ああ、私は致命的な勘違いをしていたのですね……。
凍り付くような感触が消えていきます。
彼の香りが遠ざかっていきます。
嫌。
ただそれだけの感情が私の心を飲み込んでいきました。
「ねえ! ツヅラ、待って」
思わず出た言葉に返事はありませんでした。
そこには静寂だけが残されていました。
願い事が一つ叶うなら、みなさんは何を願いますか?