なぜ自分が古今和歌集が好きなのか話してそれを感染させようとするなろう作家のエッセイ
こんにちは、一茜って言います。
いつもは和歌を詠んで投稿している人です。
私は知っての通り(?)、古今和歌集が1番好きです。
ということで今回はちょっと番外編として古今和歌集の魅力を紹介させていただきますね。
まあまずは古今和歌集の評判を上げていきます!
・嘘っぽい
・嘘っぽい超えて絶対に嘘
・大袈裟
・理屈っぽい
・夏はほととぎす、冬は雪ばっかりで単調
・選者の和歌が多い
・自然に対する偏愛、思い込みが強い
・一文半文のねうちも無之駄歌
・嘘の趣向
いや、ここまで悪く言われる歌集も少ない気がします。
(最後の2つに関しては、反対に近代文化の底の浅さが露呈しているとか言われてますが)
なぜこのような評判になったのかは、古今和歌集の個性を考えると見えてきます。そして『嫌われる理由=個性が強い=一部の人にはとても好きなものになる』ということも伝えられることができればと思っています。細かいことを言っても私みたいな人を除いて多くの人は面白くないと思うので、ざっくり説明しますね!
前提としてですが、 私たちが古典として歌集を知る時にはだいたい、万葉、古今、新古今と続けて習うので意識してないないものの、間は100年ぐらいあったりします。なので歌集ごとに個性があります。
古今和歌集の特徴を思いつくところから書いていきます!
①既存のイメージを踏まえる
古今和歌集の時は、それぞれのものに対する共通イメージを持った貴族社会の公の場において和歌が詠まれました。貴族の教養として和歌をたくさん知っているからこそ、『ほととぎすは恋の思いを抱いて飛んでいく』とか色々イメージができていました。(なおそれらは宮中つまり室内で形成されたものだと揶揄されることもある)
したがってそのイメージ通りに作っても面白くないので、既存のイメージを踏まえながらもそれを『捉え直す』又は『組み合わせる』ことが必要とされていました。(それらを踏まえてなかったら無知だと笑われたのでしょうか?)
古今和歌集ではモチーフが近いものを隣に並べているので、読んでいると既存のイメージを色々工夫して詠んでいるのが伝わります。少し引用しますね!
☆引用☆
梅の花 にほう春べは くらぶやま 闇に越ゆれど しるくぞありける
(梅の花が匂う春はくらぶ山を暗いうちに超えたけど匂いでそこに梅があることがはっきり分かるよ)
月夜にはそれとも見えず 梅の花 かをたづねてぞ しるべかりける
(月夜はかえって明るく白い梅の花は見えない。その位置は匂いによって知るべきだった)
☆引用終了☆
この時代には『梅=匂いが強い』というイメージがありました。だからと言って『梅の香りがすばらしいなぁ』という単純な和歌を詠んでいたらダメです。
ここでは『梅=匂いが強い』というイメージにそれぞれ異なった視点で『見えにくさ』を組み合わせて、それを讃えています。
もっと言えば『見えにくさ』の部分を最初の和歌は『暗さ』次の和歌は『月明かりの明るさ』によって表しています。同じ『花が見えないが匂いがある』という発想でも、暗い場合と明るい場合の和歌があるんですね!
このように、作者の工夫がわかりやすいように並び方を工夫しているのがこの歌集の1つの特徴でもあります。
余談ですが、そのような古今和歌集の並びは色々な意味があり、対になっているような場合や、意味を深め合うような並びが理想の季節の変化の並びの中に存在するところがとても好きな理由の1つです。
私が昔作った和歌では『花が見えないが匂いがある』に折口という修辞を組み合わせてみました。
夜火を無み
え見えぬ花は
麝香より
比べて勝る
らうたし色香
折口の新しい使い方として内容とリンクさせるというのが私の工夫です。(詳しくは『一茜の歌集 蓬生 』を宜しくお願いします)
少し話は逸れましたが、既存のイメージがあるからこそ、それをどう工夫するのかというのが1つの見どころです。
②時の流れを意識する
古今和歌集の和歌はそれまでの和歌と比べて時の推移への意識が強く見られます。
☆引用☆
散ると見て あるべきものを 梅の花 うたてにほひの 袖にとまれる
(花は散ると思って見ていればそれでいいのに、梅の花の香りは困ったことに袖に残っている)
☆引用終了☆
今回も『梅=匂いが強い』の和歌を引用してみました。『花は散るとわかっているが、とても綺麗だなぁ』という前提をもとに上の句を作ってます。そして、下の句に梅のイメージを組み合わせて名残惜しさを表現した和歌です。もう当たり前のように花は散るものとしてみてることがわかると思います。
全てのものはいつかなくなると世界に絶望しながらも、だからこそ目の前の享楽に浸る感じが好きです。
③事物と心の関係に敏感
これは古今和歌集の仮名序を見れば明らかです。
☆引用☆
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出だせるなり。
(世の中を生きている人は関わる出来事やする行為が沢山あるから、思ったことを見聞きしたものに託して言葉にするのである)
☆引用終了☆
ということであくまで自然を描写するのではなく、それを基にして自分の気持ちを表現するんですね!
その1つの方法が掛言葉だと思っています。掛言葉ってただ平仮名表記が同じなら良いということではなく、景+情になってるものが多いんです。例えば『燻る』と『悔ゆる』のように。
一介の
飛びゆくかりの
憂き世には
久しき夜を
ひとり越ゆるや
は私の和歌なのですが、1番重要なのは飛んでる雁ではなく、寂しさなんです。でも自然を無視しているというよりはそれに組み込んでいくような、そんな効果を掛言葉は持っていると信じています。(詳しくは『一茜の歌集 藤裏葉』で宜しくお願いします)
④観念的な和歌が多い
古今和歌集が非難される時には多くの場合、このことが非難されます。実景ではないんですよね。1番わかりやすい例は多分、
☆引用☆
袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの風やとくらむ
(夏には袖を濡らしてすくった川の水が凍ったのが、立春の今日の風がとかしているだろうか)
☆引用終了☆
だと思います。和歌の中に夏、(秋)、冬、春の風景があり、これは実景とは言えませんね。上の例も同様なことが言えると思います。外に生えてる梅の匂いが袖に残るなんて意図的に擦っても果たしておこるのか?大袈裟とか、嘘っぽいということは第三者目線で見ると正しいと思います。
(ここから私の意見です。和歌の専門家とかではなくただのなろう作家であることもここで確認しておきます)
でも、事実とあってるかどうかなんて大切なのでしょうか?
目の前に作品があった時にそれをかしこまった態度で読まなければならない人もいると思いますが、別に鑑賞する側として考えればそれらはどうでもいいことだと思ってます。自分がその作品を見て良いと感じるのなら。
私は、『袖ひちて〜』の作品はとっても好きです。助動詞を過去、完了、現在(推量)とうまく組み合わせて、表現しているのがとっても好きです。
昔は写真もビデオもCGの技術もなかったので、和歌の役割として『まるで鑑賞者がその実景を見たかのような気持ちにさせる』がありました。今の私たちが旅行に行った友達に旅先の写真を見せてもらうような感覚で、和歌を見せるようなこともありました。
それを踏まえると嘘っぽい、大袈裟な和歌はいけないものかもしれません。
でも、この和歌で表現されている内容は確かに誰かの心を震わせるし、その内容は写真にしても動画にしても表しきれないと思います。文字だからこそ表現できる、和歌だからこそ表現できるものだと思います。
例を加えます。
☆引用☆
竜田川 紅葉乱れて 流るめり わたらばにしき 中や絶えなむ
(竜田川に紅葉が乱れて流れている。もし川を渡ったらその錦のような紅葉が断ち切れてしまう)
☆引用終了☆
この和歌と同じことを表現しようとして、紅葉が流れる様子を撮る。その川の中に錦の写真を合成する。
そんな変な画像作って感動させれる?
他の形態をとった時に表現できないものを表現できているならば、その芸術の1番の良さを引き出せているのではないでしょうか?
だから歌集を読んで、「嘘っぽいから好きじゃない」ということができても、価値がないなんて誰も言うことなんかできないし、まして、自分も57577を使ってるなら自分のフィールドを狭めるような発言は慎むべきだと思うんですけどね……
ということで、まあここまで言うと誰を意識してるのか見えちゃいますが、以上が古今和歌集の特徴です。
皆様、私の病気は感染されたでしょうか?
ついでに古典の本を買うときは訳者との相性はとても大きいので、しっかりと訳を読んで買うことをお勧めします。
(あと、小声で宣伝させていただきますね。一茜の歌集というシリーズを書いてるのでよければ読んでみてください!)
最後まで読んでいただいてありがとうございました!
拙い文章ですが最後まで読んでいただきありがとうございます。
もう言うべきことはあまりないですが、正岡子規さんの作品はなんやかんやいっても結構好きです。