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5年後の自分様

作者: きぜと

別サイトに投稿した同名作品を改稿したものです。




 5年後の自分様


 そんな宛名の封筒を受け取ったのは春の終わり、桜が散り始めた頃だった。

 中には手紙が入っているようで、差出人は「水橋ゆうき」。封筒の裏に書かれた「水」の字は整っているが「橋」は不格好に大きく角張っていて「う」などは「ラ」に見える。その拙い筆跡から察するに、小学生が書いたものなのだろう。もちろん、受け取るべき当人は5年ばかり成長しているはずだが。とにかく身に覚えのない名前であるのは確か。

 そう、それは見知らぬ他人が5年前に認めた手紙だった。

 5年後の自分に向けて。

 それを俺が受け取ってしまった。

 味気ない茶封筒。桁の少ない郵便番号が、この手紙の越えた歳月を教えてくれる。

 5年。

 「水橋ゆうき」。

 君は、誰だ。

 

 封筒を確かめる限り差出人の住所は見当たらない。しかし間違いなく俺の住所に宛てられていて、郵便局の誤送という訳でもなさそうだ。直接投函されたものでないとは、切手に押された消印をみれば明らかで、日付は一昨日。隣市の郵便局のものだった。

 それにしても「5年後の自分」か。

「ウチの前に住んでいた子じゃないのか?」

 夕食後に親父を捕まえて話したら、割と現実的な答えをくれた。風呂上がりのビールが回った頃合いで機嫌が良いからだろうか、子供みたいに目を輝かせている。もともと、この手の話が好きな人ではあるが。

「越してきたのは丁度5年前だったよな。龍太が10歳のときだったか」

「それは覚えてるよ。転校先のクラスが3年A組で吃驚したから。アルファベットのクラス名が新鮮だった覚えがある」

「あの時、この家が売りに出されたのは本当に偶然でなあ。前の住人が急遽引っ越しするとかで、即決だったんだよ。急なことがあったなら、そんな手紙、忘れてても仕方がないんじゃないか? しかし、名前しか手がかりがないんじゃ、なあ」

 大げさな素振りで首を傾げていた親父だったが、別に大したアイデアは浮かばなかったらしい。お気に入りのスポーツ紙を広げて「お母さん、アサヒもう一本頼むわ! キリンじゃない方ねっ」とお袋に言いつける。お袋もこの奇妙な手紙に興味を持ったようで、普段ビールに嫌味を付けるところを、俺に対するアドバイスに代えていた。

「誤送には違いないんだからさ、郵便局に聞いてみればいいじゃない。そういうのって小学校とか児童館なりが子供にやらせることでしょ。実際の投函人はもっとずっと大人だと思うんだけど」

 俺が「ああ」と納得していると「それだ、それ! 今俺も思いついた」親父がビール片手に主張した。だいぶ酔ってる。お袋はそれを完全に黙殺して続ける。

「龍太。あんた明日は梢ちゃんトコ行くんでしょ? 好都合じゃない。ついでにその郵便局に行ってみたら」

 これほどお袋が頼もしく見えたこともない。ちょっと尊敬してしまう。

「そうか、そうだね。うん。そうしてみる」

 その日はいつもより早く寝た。

 楽しみがあると寝付きが良い。俺は変わった人種なのだった。

 

 4月吉日土曜日。

 俺は朝一番の電車に飛び乗った。一番といってもローカル線だから7時30分だったりする。目指すは隣市、梢の家に近い駅である。距離は時間にして15分。

 相原梢は1つ年下の女の子で、有り体に言えば幼馴染という奴だった。5年前、俺が引越してきた直後に知り合って、それ以来なかなか良好な関係を維持している。当時心臓を患い入退院を繰り返していた俺は、いつ起るとも知れぬ発作と手術に対する恐怖で随分塞ぎ込んでいて、そんな俺を励まして手術を受けさせたのが梢だった。そう考えると、今こうしてピンピンしていられるのもあいつのお陰ということになる。複雑な気分だ。最近は元気すぎて鬱陶しいところがあるからな。だからといって嫌いでもないし、親どもに言わせれば仲は益々良くなっているらしい。

 そんな梢は3ヶ月前に隣市へ引越してしまったのだが、こうして週に1回、決まって土曜日に互いの家を行き来することになっている。先週は梢がウチに来た。今週は俺の番だ。両家の仲も頗る良い。休日ともなれば親父同士釣りに行ったり、お袋同士買い物に勤しんだりしている。それは喜ばしいことなのだが、親どもが顔を合わせる度に「愚息をどうか末永くよろしくお願いします」「いいえこちらこそウチのじゃじゃ馬を」などと気が早いにもほどがある言葉を、わざと俺に聞こえる大声で交わすのは勘弁して欲しかった。

 梢自信も本気にしている節がありちょっと、いや、かなり参っている。

 駅に着くと、さっそくホームに梢がいた。

「おっはよー」

 元気いっぱい手を振る彼女がスカートをはいている場面を、俺はついぞ見た験がない。いつもジーパンとシャツ。四季を通して変化があるとすれば、長袖が半袖になるか柄が暖色から寒色になるか、そのくらいのものだ。

 もっと服装に気を使えよ。女の子なんだからお洒落しろよ−−などと男の俺が言うのも妙な話である。

「おっす」

 駅のホームに降りると朝の空気がひんやり冷たかった。

「久しぶりー。寂しかったよー」

 両手を広げ飛びつこうとする梢を躱す。空振った梢は恨めしそうに俺を見た。

「けちー」

「ケチじゃない。それに「久しぶり」って、昨日の夜メールしただろ」

「これのこと?」

 梢は携帯のメールボックスを開いて、俺に見せる。

『明日は朝一で伺います。あと、少し行きたいところがあります』メールでは何故か言葉遣いが丁寧になる。俺はそんな人種だった。

「メールはメール。ナマ龍太は1週間ぶりだから」

「ナマって、そりゃまた生々しい言い方をするんだな−−うわっ」

 油断した隙に腕を組まれてしまった。

「あー、寒かった」

 梢の俺に対する態度は「懐いている」と表現した方が良いかもしれない。

「だったら厚着しろよ。それに出迎えにこなくてもよかったんだぞ」

「それじゃあ、この温もりを満喫できないではないですかっ。寒さを感じていなければダメ。お迎えするのは大前提だもん」

 力説されても困る。

 

「へー、面白いこともあるんだねー」

 郵便局の始業時間まで余裕があったので、俺と梢は近くの喫茶店でモーニングを頼んだ。注文を待つ間に手紙のことを話すと梢も興味を持ったようだった。「へー」とか「ほー」とか呟きながら封筒を弄る。

「おい、汚すなよ」

「うわ、子供扱い? ひっどー。なにそれ高校生になったから大人面?」

「うるさい中坊」

「わわ、亭主関白だよ。こんなところに暴君がいるよ」

「何の話だよ」

 そんな会話をしていると、無駄にニヤニヤとした笑顔のおばちゃんが料理を運んできた。「若いねぇ」と俺に耳打ち。どういう意味だ、と突っ込もうとしたが料理のいい匂いに気を削がれた。この喫茶店のモーニングはトースト、目玉焼き、ウインナー、ポテトサラダに珈琲が付いて350円也。これはいい。味もいい。今後も利用させてもらおう。

「でも水橋ゆうき、か」

 瞬く間に平らげた梢はなおも封筒を弄っている。汚さないか気が気でならない俺は、食べ終わるのが遅れた。

「何か、知ってるか? きっと俺んちに住んでたと思うんだよ。前に」

「龍太の家って、確かにあたしんちの近くだけど、知らないなあ。小学校が同じだったら覚えていないはずないんだけど。ほら集団登校ってあったでしょ。あれだけ家が近ければ絶対同じ分団になったはずだもん。現に、龍太とも一緒だったしね。学校が違ったのかな」

「私立ってことか」

「うん」

 梢が知っている、という希望もあったのだが、そう簡単にはいかないようだった。

 俺が二人分払って店を後にする。

 梢の奴、財布忘れてきやがった。確信犯ではなかろうな。

 

 郵便局が開くまでの残った時間、梢に連れられて市街を散歩するはめになった。いや、ただの散歩なら問題なかったのだが、腕組みとはこれ如何に。人気がないのは救いだが、それでも顔が火を噴くくらい恥ずかしい。

「龍太、どきどきしてる?」

 上目遣いにそんなことを聞かれても、焦る。

 梢は楽しそうでも、俺は誰かとすれ違わないか、その恐怖に怯えていた。おっかなびっくりだった。

 

 漸く辿り着いた郵便局は駄菓子屋程度の大きさだった。小さい。そして、件の封筒を見せると局員は僅かに思案した後、こんなことを言った。

「ひょっとしたら、あれかもしれないな」

「”あれ”って?」

 聞くと親切に教えてくれる。

「うん、数日前にね、年配のご婦人が大量の手紙をまとめて持ってきたんだ。大分慌てた様子でね、急いで出してくれって」

 局員は言ってから奥で仕分けをしていた同僚に声をかける。

「なあ、お前も覚えているだろ」

 問われた同僚は面倒くさそうにやってきて、封筒を手に取る。宛名に目を留めて「ああ」と頷いた。

「そうそう、これだよ。きったない子供の字でさ。幾つか住所が怪しいのがあって、わざわざ直してやったんだ。5年後の自分様、か。うん、違いない」

「その人、出した人、誰だかわかりませんか?」

 俺が言うと、二人の郵便局員は驚いたようだった。

「え? 君が持っていってくれるの? いや、まあ、私らとしては助かるけど」

「これも何かの縁かなって。ちょっと気になって」

「構わないけど。ああそうだ、そのご婦人が誰かはわからないよ」

「そうなんですか」

「ただ「木曽野園の者ですが」と言っていたはずだから、その職員だってだけで」

 木曽野園。

「どういう所なんですか?」

「さあ、実は私たちもよく知らないんだ。確か民間の施設じゃなかったかな? 名前だけは昔よく聞いたから覚えているけど。そういえば、最近聞かないなあ」

 どうも頼りないが、他に頼るものもない。

「地図、いる?」

 赤丸の打たれた地図を貰った俺たちは、礼を言って木曽野園を目指すことにした。

 

 木曽野園。

 一応市内にあるのだが、そこがどういう場所なのか梢も知らなかった。彼女はまだこの地に移り住んでから日が浅いので仕方ない。俺たちは共に未知の場所を目指す。だから、これはちょっとした冒険だった。

 昔はよく探検と称して近所を練り歩いたものだ。実際は闘病生活で弱った俺の体を鍛えるリハビリだったのだが、梢がそれを遊びにしてしまった。懐かしい様々が思い出される。

「2丁目の幽霊屋敷、覚えてる?」

「あの妖怪ばあさんの家か」

「違うよ、それは裏山の洋館でしょ」

 思い出話に花が咲くうちに、道は市街地を離れ市の外縁を巡る山の1つへと入っていた。

 道路は舗装されているが、路肩は崩れかけていてひどく寂しい印象を受けた。左右を深い林に囲まれて、頭上まで枝葉が伸びている。突然、鳥が鳴き声とともに飛び出し枝を揺らした。梢が飛びついてくる。

「ぶ、不気味だね。朝なのに」

 人里離れた山奥の−−と言って差し支えない。振り返れば遠く民家が見えるのだが、前方左右は鬱蒼としている。

 次第に傾斜がキツくなる道が終わったのは、郵便局を出て30分後のことだった。

 俺たちの目の前に現れたのは、蔦の茂る門と薄汚れたコンクリートの建物だった。シミだらけの外壁はケロイドのように爛れている。第一印象は廃墟。そして実際に廃墟だった。

 門に張られた鉄柵には「危険!立ち入り禁止!」と赤字で書かれた黄色の札が掛けられている。よく見れば窓は木材で打ち付けられているし、覗き込むと敷地は背の高い雑草に覆われていた。

 薄ら寒い。

 入り口らしきガラス扉が確認できたが、その中は夜のように暗く、辛うじて判別できる下駄箱とおぼしき場所にはスリッパが散乱していた。病院の受付窓口かと思う小窓には引き裂かれたカーテンが掛かっていて、その隙間から見える内部もやはり暗い。底なしの亀裂。

「”希望の里”‥‥‥?」

 梢が背後でぼそりと言うから、びくりとしてしまう。振り返ると梢が門の下、草むらを指差していた。錆び付いた看板が落ちている。

 『希望の里 木曽野園』

 その看板が取り付けられていた場所を探す。門柱に目がいく。長方形に、なにかが剥がれた後があって、小さいプレートがその上にあった。

 『木曽野財団 特別養護施設』

 養護施設?

 と、梢が袖を引いた。

「帰ろ。早く、ね。もう何もないよ。それにここ、なんか怖い」

 同感だった。


 梢の両親、相原夫妻ははっきり言って騒々しい人達だ。俺の親と大して歳は変わらないはずなのに、なぜこうも違う。決してウチの二人が落ち着いているという訳ではないし、そんなことは口が裂けても言えないのだが、それにしてもまるで学生みたいな夫婦だった。

「やだー梢ったら、龍太君と廃墟デートなんてマニアックぅ」

「そんな場所がこの街にあったとはなあ。なあ母さん、今度二人で行かないか?」

「もうやだぁ、あなたったら」

「お化け屋敷メソッドに基づくデートイベントなんて、懐かしいなあっはっはっは」

 こんな感じだ。

 結局、この日は定例通り、俺は相原家で夕食を御馳走になって帰宅した。よほど怖かったのか梢は木曽野園という言葉を口にしなかったし、手紙のことにも触れようとしなかった。悪いことしたな、と反省していたのだが、いざ俺が帰るとなったとき、

「また来週ね。あたしはあたしで、調べとく」

 よくわからないが、彼女、結構やる気らしかった。

 

 翌日、日曜日。

 生憎の雨空となったが、朝から俺は出かけていた。向かった場所は私立図書館の情報コーナー。目当てはインターネットに繋がったパソコンだ。未だにカシオのワープロを現役で使い続ける我が家にパソコンなどという文明の利器は存在しない。インターネットなどオーパーツもいいところだ。

 調べものは「木曽野園」。

 蛇が出るか虎が出るか。

 と勇んで来たのはいいのだが日曜の図書館は混雑していて、パソコンを使おうにも時間制限付きだった。

 とりあえず1時間待ちだという。

 受付のおばちゃんに一瞥した俺は古新聞のコーナーへと足を運ぶ。調べものをする、とくれば相場は昔の新聞漁りと決まっている、ような気がしたからだ。特に意味はなかったのだが、偶然手にした9年前の新聞。思わず唾を飲み込んでしまった。

 『A県○○市に特別養護施設”木曽野園”。木曽野財団が出資』

 地方欄の小さな記事。見つけたのはまさに僥倖だった。

 『障害を持つ児童の救済の場、安らぎの場として機能するように−−園長大島喜久恵さんの話「通常の教育では難しい心のケアを−−同じように障害を持つ仲間とともに−−」この夏国より認可を受け、来春より開園』

 「水橋ゆうき」の輪郭が朧げながら見えて来た気がする。

 そして一番の収穫は『園長大島喜久恵』。

 記事を読む限り歳を召した婦人のようだ。郵便局で聞いた「年配のご婦人」は彼女かもしれない。

 そこで時計に目をやると、ちょうど1時間経っていた。情報コーナーへと戻る。

 パソコンの利用時間は1人30分まで。空いていれば延長も可能だが、今日は俺の後ろに5人も予約しているからそうもいかない。手早く効率よく調べる必要があった。

 必要があったのだが。

 インターネットは愚かパソコンすら使い慣れていない俺のタイピングは亀のように鈍い。隣の小学生らしき子供が調子良くキーを叩く横で、俺は大昔の印刷屋が活字を拾うように一文字ずつ丹念に入力するしかない。

 幾度となく打ち間違え、変換を違え、最終的に手に入れた情報は大島喜久恵の連絡先だけだった。それは電子メールのアドレス。市のボランティアセミナーを開いているらしい彼女は連絡先を公開していたのだ。これがわかれば携帯電話で十分だった。収穫は大きい。

 受付のおばちゃんに「時間だよ」と無愛想に肩を叩かれた俺は、心持ち晴れやかに帰路についた。

 

 『大島喜久恵様 突然のメールで失礼します。大島さんが嘗て木曽野園の園長でいらっしゃたと聞き及びました。そこで重ね重ね不躾で申し訳ありませんが「水橋ゆうき」という名前に心当たりはございませんでしょうか。実は水橋ゆうきさんが未来の自分に宛てた手紙が私の下に誤って届いてしまいました。ぜひとも本人にこの手紙を届けたいのですが、もしご存知でしたら連絡ください。 肇龍太 ------@--.ne.jp』

 

 もし大島喜久恵が「水橋ゆうき」と無関係だったら?

 その時はその時。非礼を詫びれば済むだろう。なんだかカマをかけている気分だったが、他に手段がないのだ。

 

「なんか必死だよね、なんで?」

 その晩梢に電話すると、クリティカルな疑問をぶつけられた。

「そういや、なんでだろ?」

「別に郵便局に返してそれで終わりじゃない? そこを何で、自分の手で本人に渡そうなんて思うのかな。ちょっと不思議だったり」

 改めて言われると答えづらい。むしろ答えなんてあるのだろうか。

「俺も、不思議だったり」

「なんスかそれは」

「なんでしょう」

 意地みたいなものだろうか。好奇心とは違う、もっと根深い興味。それも違うか。

「ま、龍太がやるってんなら、不肖相原梢お力添えしたく候でござる」

「日本語大丈夫かよ受験生が」

 梢の学校での成績はかなり残念で傷ましいものだとご両親から聞かされた。もちろんその後で「専属家庭教師として”いろんな”勉強を教えてやってくれ泊まり込みで」と続いた。固辞したさ、当然。どうして連中は俺と梢をくっつけようとするんだ。しかも早急に。そんなのずっと将来の話でいいじゃないか、例え未来で俺たちがそうなると仮定したとしても。

「む、いいもん、別に高校行かなくても。就職するから」

「そりゃ無理だろ。どこに就職するつもりなんだ」

「龍太のお嫁さん」

 真剣だからたちが悪い。冗談じゃないから笑えない。

「切るぞ」

「わ、まってまって。冗談じゃないけど冗談だから今は、今のところはっ。でね、今週いっぱいあたしの方でも学校の友達とか近所の人に聞いてみるから、結果は土曜でいいよね。じゃ、おやすみー」

 梢は俺の答えを待たずに一方的に切った。


 電話が切れても、俺の脳裏には梢の言葉が残っていた。

 『なんか必死だよね、なんで?』

 茨の刺のように刺さって、抜いたつもりでも先端だけ取り漏らして、何をしても抜けなくて。

 5年後の自分様

 宛名をもう一度見た。

「5年後の自分様」

 声にする。

 気に懸かる響きだ。

 5年後の自分。俺は何をしているのだろう。5年前の自分は、今の俺に何を望んでいたのだろう。

 この家に引越して来たばかりの頃は、俺は今よりずっとネクラだったそうだ。梢が言っていた。俺の周りだけ黒い霞が懸かっていたとかいないとか、独り身のセキセイインコ並に見るに耐えなかったとか、腐海の障気を放っていただとか、好き勝手言われた覚えがある。

 でも、きっと事実だ。とてもじゃないが当時の俺が将来の、未来のことを考えられていたとは思えない。周りすら見えていなかったし、自分のことも見ていなかった。何も見る気がなかった。

 何を考えていたのだろう。

 今となっては想像もつかない。

 まあ、そもそもにして、10歳そこそこの子供が将来について考える訳がないのだが、俺にはそんな子供ですら抱く夢すらなかった。そう記憶している。むしろ、その記憶がない。

 将来の職業。

 ケーキ屋さん、宇宙飛行士、正義の味方、警察官、消防隊員、総理大臣、お花屋さん、パイロットetc...

 だからかもしれない。

 「水橋ゆうき」が5年後に夢見たもの。

 俺でない誰かが、描いた未来の自分。俺が描けなかった自分。

 それを見たい。

 この目で。

 たとえ、それが‥‥‥。

 

 

 大島喜久恵から返信があったのは木曜の夜だった。

『肇龍太様 お話があります。以下の住所まで来ていただけないでしょうか。お時間はそちらにお任せいたします。連絡ください。

                      ○○市×町    大島喜久恵』

 今週の土曜日、午前10時。

 5年後の「水橋ゆうき」はすぐそこだった。



 大島喜久恵宅は思いの外近所にあった。相原家から300mほど道なりに進むと川に行き当たって、橋を渡るとすぐ左手の堤防沿いにこじんまりとした日本家屋がある。家というよりは倉にも近いシルエットで、左右の建物に押し潰されそうなほどだ。

 向かうまでの間、俺は梢から彼女が仕入れて来たという情報を聞いていた。

 木曽野園は俺が新聞で見つけた通り、木曽野財団の出資で作られた”先進的な”養護施設だったらしい。その内情を知る手だてはないが、障害を持つ子供達が幸福のうちに子供時代を過ごせるよう様々な工夫が凝らされていたという。障害を意識させず、かつ障害者として社会で生きていくための技術をただ同然で教えようと言う理想郷。開設当初はそれはそれは凄まじい入所希望者がいたそうだ。実際、第1期生20人はそれなりの成果を残している。だが、開設3年目にして木曽野園は暗礁に乗り上げてしまった。資金の提供元である木曽野財団のトップが交代し、園を廃止する意向が固まったのである。

「その結果が、あれか」

「そういうこと」

 梢は胸を張る。

「誰に聞いたんだよ」

「市役所の福祉と人権の課で教えてもらったの」

 大した行動力だ。

「水橋ゆうきはその施設にいた子供の1人ってことか」

「そうなるよね、多分そう」

「たいしたもんだな、梢。ありがとう」

「内助の功?」

「否定しきれないから、やめてくれ」

 目的地に着く。

 俺は鞄の上から「水橋ゆうき」の手紙を押さえた。

 現れた大島喜久恵は、予想に反して感じのいいお婆ちゃんだった。小柄で上品な印象を受ける。もっとケバいおばちゃんを想定していたから、悪い気がした。

「あなたが、肇さん?」

「はい。初めまして」

 そこで俺は気づいた。年齢、一切伏せていた。

「てっきり、もっと大学生くらいの方かと」

 大島さんは戸惑ったようでもあり、安堵したようでもあった。

「そちらの方は?」

 梢を認めて大島さんが訪ねる。

「相原梢。肇龍太の未来のつ−−」

「と、付き添い!」俺は梢の口を押さえる「そう、付き添い。俺の友達で、今回のことで協力してくれた、付き添いです付き添い」

 とんでもない自己紹介をされるところだった。

 俺たちの様子に大島さんはくすくすと笑う。どうやら警戒されていたようだ。それが解けたということらしい。

「どうぞ、こちらへ」

 通されたのは客間。家政婦と思しき女性が紅茶を運んでくる。促されるままに俺たちはそれを飲み干した。上品な内装。お金持ちなんだなあ、と下世話にも思ってしまう。

 しばらく皆押し黙ったまま喋ろうとはしなかった。

 沈黙が続き、ティーカップとソーサーがぶつかり合う音だけがやけに響く。

 どこから切り出すべきか、わからない。そんな空気。

 やがて梢が肘で俺の脇腹を突いた。

 ああ、そうか。そうだよな。この件を始めたのは俺なんだから、俺が始めなければいけないよな。鞄から封筒を取り出そう。感慨深い。たった1週間という時間の中であるにも関わらず、重い。

 俺たちと大島さんは卓を挟んで座っていて、俺はその卓上に封筒を置いた。宛名が表になるように。大島さんのやや白濁した瞳が吸い寄せられていく。

「それが、先週ウチに届いたものです」

「水橋ゆうき‥‥‥」

 ぽつり、と。

「ご存知ですか?」

 皮の撓む骨張った指が、震えながら封筒に添えられる。

「ええ、知っています。知っていますよ‥‥‥」


 大島喜久恵は語った。

 

 水橋ゆうきは誰とも関わろうとしない、無口な子供だった。

 その為、コミュニケーションを第一において指導する園では彼は難しい児童として扱われており、園内で孤立していったのも当然とされていたらしい。他の児童とは相容れず。最終的には彼に接するのは職員の中でも園長−−大島喜久恵だけとなっていたそうだ。

 そんな彼の唯一の特技は風景画だった。

 精密細緻な線画を何の訓練も受けていない弱冠9歳の少年が描いてのける。彼を疎んで園に送り込んだ両親も、この才能には一目置いていたらしい。彼が素晴らしい絵を描くたびに両親は喜び、我が子を愛でた。園長はそれが金銭目的の愛情であると理解していたが、彼が笑顔を見せるのは両親が喜ぶときだけだったという。

 天使の笑顔。

 園長は複雑な思いを抱きつつも、その笑顔が失われることを恐れ、両親の接し方に口を挟むことはなかった。

 それが原因だったのだろう。彼の非凡な才能の上に辛うじて維持されていた親子関係は、彼が才能を失った途端に崩壊した。

 サヴァン症候群。水橋ゆうきのように非凡な超越的とも言える才能に目覚める人をそう呼ぶ。しかし、この才能はある日を境に失われることもあり、それは自然なことなのだが、彼の両親はそれを受け入れることができなかったということだ。

 しかも彼の自閉症が奇跡的に回復し始めた、その矢先のことだった。

 彼は自分の置かれた環境を良く理解していた。

 それは不幸でしかなかった。

 才能を失えば、両親に疎まれる、嫌われる。

 彼が悪夢としてみていたことが、現実になってしまった。


「そんな時、ある職員の提案で子供達に5年後の自分に手紙を書かせることになったのです。きっと、それが引き金になったのでしょうね」

 大島さんの声に嗚咽が混じった。


 白紙を渡された水橋ゆうきは一瞬青ざめたという。そして、1人部屋に籠り、一切手紙の内容を他人に明かさないまま、封をしてしまった。そして数日後。水橋ゆうきは自ら命を絶った。安らかに、夢の世界に落ちるように、園の屋上から飛び降りた。

 

「そんな、じゃあ、水橋ゆうきは」

 梢が悲鳴のように言う。

 大島さんは弱々しく頷いた。

「亡くなりました。5年前に」

 俺は呆然としていた。

「そん‥‥‥な‥‥‥」

 言葉が続かない。

 どうして。どうして?

 それを問おうとして、俺はハッとした。気づいてしまった。

「木曽野園が閉鎖された、本当の理由は、それなんですか? じゃあ龍太に届いた手紙は、遺書? でも、手紙を出したのは先週で、なんで‥‥‥」

 混乱を隠しきれない梢は、俺の手を握っていた。震える手で握ってくる。

「本当は、私も忘れていたんですよ。捨てようかとも思ったのですけれど、でも、捨てきれずに閉園の時、全部引き取っていたんです。それすら先週まで忘れていたのですけど、押し入れを整理していたら見つけてしまって。他の子供達に渡してあげなくてはいけないって気がして、」

 大島さんの言葉はもう俺には届いていなかった。

 俺も聞いてはいない。

「水橋ゆうきの手紙は除けておくつもりだったのですが、うっかり出してしまって。慌てて日曜に郵便局に問い合わせたら、受け取り主が現れて水橋ゆうきを探していると聞いていたのです」

 何の因果だろう。

 境遇も環境も何もかも違うが、君には共感を覚える。

 どうして、俺のもとへ辿り着いたんだろう。

 あまりにもそっくりだった、俺のもとに。

 君は5年後に何を見て、命を絶ったんだ?

「封、開けてもいいですか?」

 唐突にすぎた。梢と大島さんの視線が俺に向けられる。驚きとともに。

 間を置いて大島さんは卓上の封筒を、俺に手渡す。

「これも、何かの縁でしょうから」

 封を切る。

 紙の乾いた音が残る。

 取り出した、手紙。

 開けば、

 

 人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人‥‥‥

 

 紙面を埋め尽くす、人の群れ。

「なにこれ?」

「なんで、こんな絵を」

 二人にはわからないようだった。

 だから、俺が答える。

 無数の人々、紙面の世界に生い茂る人々。

「でも、そこに水橋ゆうきはいない」

 てっきり白紙だと思っていたが、なるほど、こういう解答もありかもしれない。

 5年後の水橋ゆうきはそこにいなかった。

 5年後の水橋ゆうきは何処にもいなかった。

 

 

 大島さんの家から離れた河川敷に、俺と梢は腰を下ろしていた。

「ねえ龍太は、わかってたの? あの手紙の中身」

「いや、予想外」

 正直に答える。傾き始めた日に染められて、川は朱色。夜の冷気が風にも紛れている。

「結局、なんだったんだろうね。この1週間は。なんか去年1年よりずっと重かったよ。こんなの初めて」

「俺だってそうさ」

 いろいろと、考えさせられた。

 水橋ゆうきは絶望していた。

 未来に自分の居場所は無いと悟っていた。

 でも、俺は悲しいとは感じても同情することは無いだろう、今もこれからも。

 むしろ感謝を。

 いや、水橋ゆうきに対してではない。

「ねえ、龍太」

 俺の肩に1つ下の幼馴染が頭を預けてくる。その重み。重量では計れない重み。

「龍太だったら何を書いた? 5年前の龍太は、今の龍太に何を書くの?」

 白紙という選択肢もある。

 あのままの俺ならきっと白紙だっただろう。

 何も見てはいなかったから。

 顔を上げることを拒んでいたから。

「そんなことは、どうでもいいだろ」

 俺は梢の肩を抱いて立ち上がる。

 薄雲が消える。

 強烈な夕日が視界を削り取っていく。

 無駄が一切排除されて、一点のみが残される。

 問題ない。それだけ見えていれば大丈夫だ。

「5年後の俺は、こうしてここにいるんだからさ」

 

 

 

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