ドラゴンの悲哀
神様はいませんでしたが。
しかし、それに応える男はいました。
ぶるん!
ディックの中で、何かが震えます。
マリーが……ジェイルさんが……
瞬間。
ディックは駆け出すと、木の幹に叩きつけられた時に、ジェイルのポケットから吹っ飛んでいたセコンドナイフを拾い上げ、一心不乱にドラゴンへ飛び掛ります。
「やめろ!」
ジェイルの叫びも、ディックには届きません。
このままでは、子供たちが殺されてしまう!
しかし、彼の身体は、もう、言うことを聞いてくれません。
刹那、ジェイルは叫びました。
「ディック! のどだ! のどのうろこを狙え!」
子供にドラゴンを撃たせるなんて、などというのんきなことは言っていられません。
ジェイルはのども裂けよと叫びます。その思いは、ディックに届きました。
ディックはジェイルの叫びを聞いて、闇雲に突進するのをやめ、ドラゴンののどを狙います。その瞳には学校で習ったドラゴンの弱点、一枚だけ逆さに生えた逆鱗が、カメラのズームのように大写しになっていました。
声も出さずに気駆け出したので、幸いドラゴンの注意はまだジェイルに向いています。
ジェイルはドラゴンがディックに気づかぬように、ひたすら大声を上げて、さらに注意をひきつけました。
だっ!
ディックの小さな身体が中を舞います。
吸い込まれるように、美しい曲線を描いて。
ディックの握った短剣は、ドラゴンの逆鱗に深々と突き刺さりました。
ぎゃぁぁぁおぉぉぉぅぅぅ!
ドラゴンはものすごい悲鳴を上げて、大地にぶっ倒れました。
しばらくは、それでも抵抗しようともがいていましたが、やがてだんだん動きが小さくなり、ついにはこときれてしまいます。死の間際、ドラゴンはなんともいえない悲しい声を上げました。
ぎあぁぁぁぁぁぁぁぁぁうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ~~~~~
それは己が死にゆくことよりも、子供が死んでしまった悲しみに、よりいっそう染まっているかに思えます。
少なくとも、ディックにはそう思えました。
ドラゴンが完全に動かなくなって、ジェイルはようやくためていた息を吐き出しました。それからディックを見ると、彼は返り血を浴びたまま、ドラゴンの死体を怒ったような表情で睨みつけています。
そこへようやく立ち上がれたマリーが駆け寄ってきました。
「パパ! パパ!」
ジェイルは愛娘を抱きしめて、生きている実感に喜びを覚えます。
しかし視線を移してみれば、あの気の弱い泣き虫ディックが、決然とした表情でドラゴンの死体を見つめています。
少し考えて、ジェイルは明るく声をかけました。
「たすかったよ、ディック。ありがとう。そのドラゴンは、君の初めての戦利品だ。君もこれで、一人前のドラゴンバスターだ」
ディックはドラゴンの死体から目を離し、悲しげな瞳でジェイルを見ます。
「こいつは、子供を殺されたから、仕返しに来たんだね?」
ジェイルは一瞬、どう答えようと戸惑ってから、しかし、ディックの瞳に強い光が宿っているのを見て取ると、大人の男に対するように真剣な顔で応えました。
「そうだ。こいつは自分の子供の敵を取るために、俺を襲ったんだ」
「それじゃあ、こいつは悪くないよね? 悪いのは、子供を殺したおじさん、いや、おじさんに子供を殺させた、僕とマリーだよね?」
マリーがふくれっつらで言い返そうとするのを押しとどめ、ジェイルは強くうなずきました。
「そうだ。彼らの生活圏に入り込んだ君たち、そして襲う気のなかったドラゴンを殺した私、両者のせいで死ななくてもいいドラゴンが死んだんだ」
マリーは驚いて父親の顔を見つめます。
ディックは視線をまたドラゴンに戻して、悲しそうにつぶやきます。
「かわいそうだね」
ジェイルはうなずきかけ、思いとどまると、真摯な口調でこの小さな悩める戦士に答えました。
「そうだな。だけど、もし万が一、マリーや君がこんな風になったとしたら、私の方が悲しくて死んでしまう。だから、殺したのがいいことだとは思わないけれど、それでもこんなことがあれば、私はまた、ドラゴンを殺すよ」
一瞬、抗議の声を上げかけたディックは。
そこでジェイルの決意にあふれた瞳を見て、下を向き黙り込みます。
それからしばらく考え、もう一度顔を上げました。
「そうだね。僕もおじさんやおばさん、マリーが死んでしまったら、悲しくて生きてゆけない。だから、僕もまたドラゴンと戦う。マリーや、おじさん、おばさんは、僕の大事な家族だから」
その言葉に、ジェイルは表情を緩めました。
「ディック、それが正しいことなのかは、私にはわからない。私はそうやって生きてきたけれど、もしかしたらまた他の道があるのかもしれない。だから、とりあえず今はそう思っていればいい。いつかまた、違う風に思ったら、そのときはその信念にしたがって生きてゆけばいいよ」
小首を傾げるディックに、ジェイルは穏やかな微笑を返します。
「君はもう、一人の男として生きはじめたんだ。今の気持ち、思いを忘れないように、そのときそのとき、いちばん正しいと思う道を歩みなさい」
ディックはしばらくその言葉を咀嚼してから、晴れやかな顔でジェイルを見ました。
「はい。そうします」
「ねえ、もう、おうちへ帰ろうよ」
自分が置いてけ堀なのが気に食わないのでしょう。マリーはふくれっつらで、父親の袖を引きました。
ジェイルはにっこりと笑うと、ディックに向かって言います。
「ディック、私は歩けないんだ。帰って町の人たちを連れてきてくれないか?」
すっかりたくましくなったディックは、力強くうなずいて駆け出しました。
その後ろ姿をジェイルが目を細めて見送ります。
「いつの間にか、あいつそっくりになったなぁ」
「あいつってだれ?」
彼の親友であり、彼を助けるために死んだディックの父親の姿を思い浮かべながら、ジェイルは愛しい娘を抱き寄せました。
「パパ?」
「なあ、マリー。パパはもう、ドラゴン退治には行かないよ。これからはマリーとママと三人で、ずっと一緒に暮らすつもりだ」
「本当?」
うれしそうな声を上げてから、マリーはすぐに表情を曇らせます。
「でも、そしたらお金がなくなっちゃうよ?」
女の子というのは、現実家なのです。
ジェイルはそんな娘の頭を優しくなでながら、穏やかに微笑みます。
「ははは、それは大丈夫だ。貯えだってたんとあるし、他の仕事もあるんだ。父さんは今まで町で一番ドラゴンをやっつけたから、これから暮らしてゆくくらいのことはどうにでもなるんだよ」
それを聞いて、マリーはにっこりと微笑みます。
「そうかぁ、それならよかった。でも、パパ。ディックを忘れてるよ? 四人で暮らすんだよ?」
「ああ、そうだね。これはすまなかった」
言ってからジェイルは、マリーに聞こえないように口の中でつぶやきました。
「もっとも、彼にその気があれば、の話だけれど」