穢れなき白銀の剣 その1
王宮より遠く離れて、黄都西部の閑静な農村地帯の一角に、アウル王時代からの古い邸宅がある。
数年前にとある貴族がその家を買い上げたが、誰も気に留めることはなかった。
故にこそ、彼は悠々とその邸宅で暮らすことができる。
正午近くに目覚め、小作人を気紛れに呼びつけては球技に興じて、時には商業区へと足を運び、夜も更けてから帰る。
――来客は、そうした暮らしを大一ヶ月ほど続けた日の夕刻であった。
「……ああ、いい。庭の黄柳草がいいな。手入れがいい」
老人は、当然のように邸宅の応接間に座していた。
節くれだった指先。日差しを避けるかのような、染み一つない純白のローブ。
座椅子の背後に控える四人の従者は全てが森人であり、その内の一人は、命じられるまでもなく水筒の水を差し出して、老人のしわがれた喉を潤した。
一つの咳払いを挟んで、彼は大義そうに邸宅の主を見た。
「鎹のヒドウ。久しぶりだ。ああ。あの若造が。まったく大きくなったな」
「それはどうも。あんたの方も大きくなったみたいだ」
邸宅の主は、苦々しい心持ちで対面の席へと腰を下ろした。
この別荘の存在を誰かに教えたつもりはない……ことに、彼のような者には。
「――態度がな。挨拶なしで人の家に迷い込むくらいにボケちまったのか?」
「く、く。寂しい老人を、そう邪険にするものではない……。君と私は、今となっては同じ立場だろうに」
「俺はあんたと違って寂しくないんでね。元第五卿」
黄都二十九官の第五は、以前より長らく空席状態にある。
第五の席は、ヒドウの眼前に座る老人――異相の冊のイリオルデが退いて間もなく六合上覧の話が立ち上がったために、後任の選出会議を開く時間も、更にはその席を希望する者もなかった。
新たな第五卿に就任するのならば、今は二十九官が分割して受け持っている、イリオルデが残した官僚の大部分を従えざるを得ない。それは即ち、この老人の傀儡として動かされるということを意味している。
「星馳せアルスの一件には私も心を痛めている」
「嘘をつけ」
「そう思わない者の方が薄情ではないかね。誰よりも黄都市民の安全のために心を砕き、アルスの脅威に備え続け……そして事実、犠牲を最小に留めた功労者であるというのに、誰も君の功績を認めず、あまつさえ全ての責任を被せて放逐した……」
皺に覆われた表情は、あくまで穏やかである。
しかし相手がイリオルデである限り、表情から心理を推し量るほどに危険なことはないと、ヒドウは知っている。
「彼らは、私を追いやった時から何も変わってはいないな。旧態依然に凝り固まった、権威主義と責任転嫁……若き才能などは当然に握り潰される。赤い紙箋のエレアの話、私も聞いたぞ。まったく嘆かわしいものだ……心からそう思う」
「……もう一度言うぞ。俺はあんたとは違う。あんたの言ってることは、とんでもない見当違いだ」
ヒドウは警戒を解かず、しかしふてぶてしく答えた。
元第五卿の機嫌を損ねることは得策ではないと理解してもいる。
しかし内心の好悪を隠すことができない点が、鎹のヒドウの最大の欠点であったのかもしれない。
「俺は最初からこうなることを見越してアルスを擁立していた。これでもう、政治だの六合上覧だのに胃を痛めることもなくなったわけだ。東外郭には今後十年近づけねえだろうが、それはそれだ。議会の連中に恩を売って、ある程度の同情も買えた。悠々自適の隠居だよ」
最強の竜族を魔王自称者に仕立てることで排除するヒドウの計略には、最初からその責任を負う者が必要だった。彼は自ら名乗りを上げ、臨んだものを手に入れた。責任とは無縁でいられる平穏を。
事の真相を知らされて、老人は愉快そうに笑った。
「く、く。やはり聡い。惜しいな、ヒドウ……その先見の明があるならば、これから黄都に起こることも分かるはずだろう」
「だから、何の話だ。知ったことじゃねえな」
「……勇者候補の一名が乱心し、黄都を蹂躙した。それが起こってしまった以上、民も遅かれ早かれ、気付くことになる」
ただ一名の勇者を定めるべく集った、地平最強の十六名。
民は知ってしまった。一名の修羅が牙を剥いたのならば、それに対抗し得る者は同様の修羅でしかあり得ない。そしてその戦いは決して対岸から眺める災害などではなく、民自身の生活を脅かしかねないということを。
「第四試合。英雄……く、く。真の英雄、絶対なるロスクレイを再起不能にまで追い込んだ、世界詞のキア。そして第六試合。衆目で公然と不正を行い、円卓のケイテ、軸のキヤズナと共に忽然と姿を消した、窮知の箱のメステルエクシル。彼女ら二名はまだ発見されてはいない」
「……」
「どう思う。民からすれば、身震いする脅威ではないかね……。加えて、千一匹目のジギタ・ゾギが敗退した以上、これまで大人しくしていた小鬼ども……さらにはオカフの傭兵どもが、どのように動いたものか。荒野の轍のダントでは、きっと彼らの動きを抑えきれはしないだろう」
「よく調べているようだな」
「まだまだ。君たちの抱える不安要素は、この程度ではなかろう……」
イリオルデは今一度咳き込み、従者の差し出した水筒に口をつけた。
純粋に肉体的な意味であれば、元第五卿は、黄都二十九官の誰よりも弱い。
「……これも、聞いたぞ。城下劇庭園の兵に、多くの屍鬼が紛れていたと」
「…………おい」
「まったく、恐ろしいな、ヒドウ。既に根絶されたと思われた病が、六合上覧に紛れて……我々に牙を剥くその時を、今か今かと待ち受けている……。その上、旧王国主義者もきな臭い動きを見せていると聞くではないか。んん?」
黄都に反乱を企てた、第四卿ケイテ及び魔王自称者キヤズナの軍。
六合上覧に乗じて黄都に食い込んだ不穏分子、小鬼及びオカフ自由都市。
正体不明の血鬼が率いると推測される、“見えない軍”。
さらには、未だ対策を打てぬ全能の脅威、世界詞のキア。
「果たして……このまま何も起こらずに済むと思うかね」
「屍鬼の件は最高機密のはずだ。あんたの立場で、どこからそれを聞いた」
「く、く。年を取ると、聞こえてくる声も大きくなるものだ。私も平穏を望んでいるというのに、誰かがこの老体に話を持ち込みにくる……。何かよい知恵はないか。私の力でどうにかできないものかと。何の力も持たぬ私には、まったくもって難儀なことだ……なあヒドウ……」
「……誰かの裏で動いている……いや……裏から動かしていたのか?」
「さて。さして重要な物事ではあるまい……」
いくつかの事実が線で繋がり、ヒドウに一つの結論をもたらす。
黄都議会の現状の改革と転覆を目論み、そして追放された影の傑物が、その実政局の操作を行っていたのだとすれば……
(……ハーディか。六合上覧に乗じて、ロスクレイ派閥に公然と反旗を翻した。奴の勝算はこれだったか? 最初から裏に、元第五卿の後ろ盾があったとしたら……)
黄都の軍部に最大の派閥を置く第二十七将、弾火源のハーディ。
彼の擁立する柳の剣のソウジロウは、次の試合でロスクレイと戦うことになる。
「――要点を間違えてはならんよ、ヒドウ。いずれ黄都は大きく動く。君が数多の策を重ね、身を挺して責任を被ったアルスの一件よりも大きな……とても、大きな動きが。その時に、議会はどうするかな……」
「何が言いたい」
「再び責任を被せる者が必要だな……? 多くの魔王自称者がそうであったように……あるいは、“本物の魔王”がそうであったように。何者かが悪を引き受けなければ、民は決して納得することはない……」
枯れ木のような指は、ゆるやかにヒドウを指差した。
「それはたとえば、組織にとって切り捨てても問題のない者。既に烙印を押された者……そうは思わないか。君や、私のような」
「……ククッ……随分と幼稚な脅しだな。イリオルデ」
笑いながらも、ヒドウのこめかみには冷や汗が流れた。
何者かが悪を背負わなければならない。そして人間の政治の根本において……一度でも悪を背負った者に、その見返りが与えられることはない。無限に悪を背負わされ続ける。
たとえば今のヒドウのように政治の席から退くか、あるいはその先……死ぬまで。
イリオルデは身を乗り出し、穏やかに言葉を継いだ。
「どうだね、ヒドウ……。背負う者を、我々敗者ではなく、彼らの側にすることができるとしたら。もう一度だけ、頑張ってみる気はないかな」
「俺はあんたとは違うって言ったろ。またぞろドロドロの陰謀に引きずり込まれるのは真っ平ごめんなんだよ」
「私は君の才能を評価している。君さえ加われば、我々の勝ちは確かなものだ」
「今までの話、ロスクレイに全部伝えてもいいか? ……さっさと帰ってくれ」
――くだらない。
ヒドウは無能でいたかった。これ以上誰かのために奔走したくはなかった。たとえ未来に破局が見えていようと、そのようなものに関わりたくなかったから、こうして政争の場から降りたのだ。
彼は深く溜息を付いた。悪い冗談だと思い込んでいたかった。
(……その上、まだ逃げられないのか?)
老人は、壁や従者の腕に捕まりながら、ゆっくりと席を立つ。
これほどの高齢にあっても、異相の冊のイリオルデは生き続けることを諦めていない。
「そうだ……もう一つ、君にとって残念な報せがあるな、ヒドウ」
「……あんたが帰ってくれるだけで十分釣り合いが取れるよ。なんだ」
「アルス襲撃の責任を負ったということは、多くの市民が君を恨んでいるということになる……議会を追放されたとなれば、護衛もついてはいないな。ともなれば……不慮の事故の後の捜査も難しくなるかもしれない……」
イリオルデは四人の従者を従えて、いつの間にか邸宅に侵入していた。
護衛を持たぬヒドウの前に、四人もの手練が。
彼は、引きつった笑いを浮かべた。
「……冗談だろ?」
「君は私の誘いを無下にしたな」
閑静な農村地帯に、銃声が響いた。
「…………」
ヒドウは唇を噛み締めて、座椅子に穿たれた銃痕を見ていた。
敵は一切の躊躇なく発砲した。
もはや、いつでもそうすることができる。
老人は笑いを返した。
「――く、く。無論、冗談だとも」
日が沈んでいた。イリオルデが立ち去ったその後も、ヒドウは暗闇の応接間の長椅子に座り込み続けていた。
頭を抱えていた。
「……くそっ……」
全てに無関心でいられる平穏。
“本物の魔王”の恐怖の波が収まった、真に争いのない日々。
いつになればそれが訪れるのか。永遠に終わることはないのか。
英雄になりたくなどない。ハルゲントのような末路を望んではいなかった。
「どいつもこいつも……! 俺を、巻き込むんじゃねえよ……!」
ただ一人の勇者を決める、真業の戦い。
この世界に生きる限り、無関係ではいられないのだ。
頂点の……一つの戦いの運命に、誰もが巻き込まれていく。
誰であろうと。




