第八試合 その1
「……私ハ、モウ君タチノ戦イトハ関係ガナイ」
戦傷を癒やす厩舎の中で、オゾネズマはそう答えた。
相手は小鬼の伝令だ。彼らはどれも、オゾネズマがかつて見た種族とはかけ離れて知能が高く、よく訓練されている。
「私ガ六合上覧ヲ勝チ進ム限リ、私ハヒロトノ手助ケヲスル。故ニ、ヒロトハ私ヲ勝タセルヨウ助ケル。ソレガ彼トノ対等ナ契約ダ。ソレ以上ハナイ」
「ジギタ・ゾギ様の作戦を助けるという話ではありません」
「ソレガ結果トシテ彼ヲ勝タセル以上ハ、同様ノコトダ。違ウカ」
彼自身の試合が終わってなお、ジギタ・ゾギの陣営と接触を持ち続けることは、オゾネズマにとっても好ましいことではなかった。候補者二名の結託。その露見はジギタ・ゾギが望むところでもなかろう。
ユカは兵からの報告を受けるべく表門の方へと離れているが、程なく戻ってくる。
治安統括を担う彼は今、つい五日前の城下劇庭園爆破事件の捜査を行っていた。主犯とされる円卓のケイテは姿を晦まし、どこへ逃げたとも知れぬというが――
「では、医師としてならば」
「……何?」
「傷を癒やし、病を治療するという……その本分において、オゾネズマ殿の助けが必要だとすれば、いかがでしょう」
「人間ニソノ手ガ足リヌノナラバ、無論、患者ヲ救ウツモリデイル。……ダガ」
オゾネズマは、合成めいた声を低めて伝令を見た。
まるで、これから『急病人』が出ることが分かっているかのような口ぶりだった。
第八試合はもうじき開始する時刻だ。
「第八試合デ……何ヲスルツモリダ」
「自分が作戦内容を知っていると思いますか? 自分の仕事は、オゾネズマ殿が医師として動けるとの確認を取ることだけです」
「……」
「では、いずれお願いします」
伝令は開け放しだった窓から抜けてその姿を消す。痕跡すら残していない。
故に、その後で現れた光暈牢のユカも、彼らの会話に気付くことはなかった。
「調子はどう?」
「……悪クハナイ」
「ははは。すごい回復力だよね。さすが混獣。もう自由に飛んだり跳ねたりできそうな感じじゃない?」
「試シテハイナイガ、アルイハ、ソウモデキルダロウ。捜査ノ方ハ順調カ」
「全然だね。当日、旧市街の路地裏で致死量の血痕は見つかってる。でも死体が上がってない――それがケイテの死体か、誰か別の奴の死体なのかは分からないけどさ。相手がケイテだもんなあ。厄介だよ」
「ナラバ、一ツ聞キタイ」
オゾネズマは常に、自分自身の試合にのみ注力していた。
知らぬことは無論一つの不利だが、協力者であるジギタ・ゾギの情報を知りすぎることも、彼にとっての不利になりかねなかったためだ。
黄都を離れ、徹底して彼我の情報を遮断していた理由の一つもそこにある。
だからそれに興味を示すことができたのは、敗退したことで、自らに課していたその縛りが解けたためだったのだろう。先程の伝令の話に不穏な響きがあったことも気がかりではなった。
オゾネズマは何の気もなく、その質問を投げかけていた。
「第八試合ハ、ドノヨウニナル?」
「ん? 試合のこと? まあ、主犯も挙がってあらかた捜査が終わったし、ちゃんとできるとは思うよ。千一匹目のジギタ・ゾギと、不言のウハク。小鬼と大鬼なら普通は勝負は見えてるけど……ジギタ・ゾギも強いだろうからなあ」
「……待テ」
――そして、無知の愚かさを悟った。
頭を振る。自分が真に愚かなことをしていたのだと、信じたくはなかった。
その想像が外れていて欲しいと思いながら、重ねて尋ねた。
「大鬼ダト?」
「うん。ぜんぜん喋らない、灰色の大鬼。って言っても、こいつの話は全然聞かないんだよね。俺だってどういう奴だか――オゾネズマ?」
ユカが止める間もなく、オゾネズマは地面を蹴っていた。
風に巻き上げられた藁が舞って落ちた時にはもう、その姿はなかった。
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この日、城下劇庭園で戦いに臨むジギタ・ゾギの面は厚い鉄兜に覆われていた。
その役目は当然の第一義として、頭部の防護。加えて、不特定多数の観客に彼の顔貌を晒すことなく、今後の試合における暗殺の危険を避けること。そして、それに続く第三の機能がある。
劇庭園内に設えられた控室で、彼は擁立者である第二十四将、荒野の轍のダントと共にいる。上の観客席では、ヒロトが事の成り行きを見守っているだろう。
ダントは、常のように眉間に皺を寄せ、膝の上で指を組んでいる。
「……ノーフェルトは戻ってきていない」
「第十六将ですか。不言のウハクの擁立者ですな」
「今日、帰還する予定ではある。だが……午前の内に戻らないということがあるか? 二十九官の誰も、奴の動向を掴めていない」
「さて。このまま戻らなければ、アタシはどうなります?」
「……。貴様が、何かをしたと見ていいか?」
ジギタ・ゾギがその問いに答えることはない。
同じヒロト陣営にあって、黄都二十九官のダントは彼の顛末を知らずにいる。もっとも疑念を抱いたとして、その証拠を挙げることも不可能だろう。
憂いの風のノーフェルトは既にこの世のものではない。彼が黄都を離れたその時、早々に暗殺者に始末させている。
擁立者の死亡が確認されたのならば、他の二十九官が代理の擁立者となることもあり得る。しかしノーフェルトの死亡は公式に確認されていない。不言のウハクは擁立者不在のまま今日を迎え、勇者候補としては失格となる。
それは確実なことだ。試合の事前より、ウハクの敗北は定まっている。
(……残る課題は、不言のウハクを掌握できるかどうか)
無論、十分な布石を打ってはいる。
彼の参戦動機は、“教団”の育ての親であった環座のクノーディに同じく育てられたノーフェルトを助けるためだと推測できた。ならば、ヒロトの陣営が既に取り込んでいる通り禍のクゼも、その条件を満たしている。以前よりクゼとウハクを接触させており、彼から友好的な反応があったことも確認できている。
クゼに説得を担わせ、ウハクを本命の暗殺者として運用する。
全ての詞術を無為に帰すウハクの力の前では、第二回戦の対戦相手である音斬りシャルクは、即死する。それは、たとえ観客席から見せるだけでも可能な仕掛けだ。
千一匹目のジギタ・ゾギの戦術、逆理のヒロトの政治、通り禍のクゼの暗殺能力。
そこに不言のウハクの異能が加わった場合、まさに言葉通りの鬼札となる。
「この六合上覧は政争としての側面も大きい。“教団”勢力のノーフェルトは、俺としてもいずれ蹴落とすべき相手だったことは確かだ。だが……貴様らが企んでいる工作が露見したその時には、俺は当然、貴様らを切り捨てるぞ」
「無論、承知しております。ただしアタシととしても、そこまでの下手を打つつもりはありません。仮に目論見が外れることがあるとすれば……それはもう少しばかり、別の要因でしょうな」
ダントの言葉も、半ば決まり文句のような牽制だ。
ヒロト陣営を切り捨てたところで、責任の全てまでは到底被せることのできない――ある意味で一蓮托生の関係だからこそ、こうして今も協力を続けているのだ。故に、ダントもまた失敗は許されない。
お互いが、それを十分に理解していた。
「予測不能の要因。たとえば――」
その時扉が開き、一人の兵が入室した。
試合を控える候補者への案内を行う、城下劇庭園付きの兵だ。
「千一匹目のジギタ・ゾギ。試合は間もなく行われる。今のうちに装備を整え、呼び出しの者が現れるまで待て」
「……試合か?」
「いかがなさいましたか。ダント将」
「いいや……大したことではない。ノーフェルトが戻ってきているのか?」
「……? ええ、つい先程。それでは失礼します」
「……」
兵が去った後で、僅かな沈黙があった。
ダントはノーフェルトの身に何が起こったかを知らぬ。だが、ジギタ・ゾギの戦術の確かさを信頼してもいる。この日の試合は行われないものと信じていた。
「……さて、早速起こりましたな」
「相手は大鬼だ。まともに試合をするとして、貴様は勝てるか」
「それはやり方次第でしょうなあ。しかし……」
試合に至る状況も想定していた。だが、これは依然不可解な事態でもある。
通り禍のクゼは確実にノーフェルトを始末し、その死体を確認してもいる。
代わりの擁立者が現れたのであれば、まだ想定し得る状況の一つであった。そのための準備をしていた……しかし、ノーフェルト本人が帰ってきている、というのは。
「……ダント殿。念のため、ノーフェルトへの接触をお願いできませんか。なかなかこれは……雲行きの怪しい事態になっているようで」
「ならば、そちらは俺が確認しよう。試合の準備は任せて構わんな」
「できれば、まともにやり合いたくはないお相手ですが」
剣を取り、配下の兵と共にダントは姿を消す。
劇庭園を回り込んで反対方向に到達するまでには、試合は始まってしまうだろう。
とはいえ、それが無意味な確認だとも思っていなかった。この試合の勝敗に関わらず、情報は必要だ。
ジギタ・ゾギは弩を僅かに調整し、長大な合金製の缶を背負った。
一対一の真業となる。彼の周囲を守る小鬼の兵は、試合場まで引き連れることはできない。……それでも、彼には彼自身の戦い方がある。
「千一匹目のジギタ・ゾギ。試合の時間だ。参戦の意思確認をここで行う」
「その必要はございませんな。すぐに参りましょう」
「道を案内する」
呼び出しの兵は、片腕を包帯で吊っていた。ハーディの話に、オゾネズマの試合の際の悶着で一人が負傷したと聞いている。その兵であろうと予想できた。
「……血の匂いがします。その傷。医者に見せたほうがよろしいですな」
「生術の治療は行っている」
「左様で。しかし、もっと良い医者を紹介できると思いましてね」
長い通路を抜けて、広大な劇庭園へと到達する。
時を同じくして、反対側の通路からは巨大な大鬼が現れる――不言のウハク。
裁定を担う第二十六卿、囁かれしミーカは叫んだ。
「両者、指定の位置で向かい合うように!」
風向きを確認しながら、ジギタ・ゾギはウハクと向かい合う。
ただ、静かだ。そこに思考は読めない。
至近の間合いにて、一対一で大鬼と対峙するということは、地上の大半の人族にとっては死と同義の状況である。
一方で小鬼は繁殖力による数を頼みとする種族である。一体の力は人間に劣り、他の種族と比べて詞術に長じてもいない。だが。
ジギタ・ゾギは両手の指を擦り合わせた。
「……さてさて。できれば、戦いたくはなかったものですが」
それが千一匹目のジギタ・ゾギであるならば、どうだろうか。
食塩を電気分解することで、水酸化ナトリウムが得られる。それを自然界に存在する石英と共に加熱融解すれば、ケイ酸ナトリウムを生ずる。そしてケイ酸ナトリウムは、その物質の原料となる。
彼の頭部全体を覆う鉄兜には、第三の機能が存在する。それは眼球を防護するゴーグルと、外気を通すメタケイ酸ナトリウムの吸収缶――即ち、防毒フィルタを隠すためのものでもある。
ジギタ・ゾギがこの六合上覧に用いる武器は、種族としての剛力や異能ではない。鍛え上げた必殺の技ではない。複製不能の魔具ですらない。
それは逆理のヒロトと共に、彼らが多くの世代を重ねて生み出した力。
あらゆる詞術を打ち消すウハクであっても、その力を否定することはできない。
化学兵器――彼が用いる武器は、文明そのものの力である。
(……不言のウハク。そちらには何手がありますかな。策は。仕掛けは。技は)
大掛かりな化学プラントや厳重な実験室環境が存在しない世界だとしても、それは可能だ。一定温度化でコークスを燃焼させることにより、一酸化炭素を生成できる。食塩の電気分解工程からは、一方で塩素を得ることができる。
一酸化炭素と塩素を日光下で反応させることで、《《それ》》を生成することができる。
眼球粘膜に接すれば即座に塩酸を生じ、戦闘不能の激烈な炎症を引き起こす。
さらに数時間の潜伏で呼吸器すらも侵し、肺水腫を伴う後遺症を発症させる。
“彼方”における化学工業の基幹物質でもあり、大戦にあって兵に恐怖をもたらしたその猛毒は……“光により合成する”という意味のギリシャ語から、こう呼ばれる。
二塩化カルボニル――“ホスゲン”。
(まずはこれが、こちらの一手)
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逆理のヒロトは、観客席にて第八試合の様相を見守っていた。
不言のウハクが現れたことから、どうやらノーフェルトが生きていることは確かなようであった。
その場に立ち会わなかったヒロトは、彼の死をその目で確認できてはいないが。
(……クゼはノーフェルトを殺さなかったのか?)
例えば彼に憑くという“天使”が、即死ではなく仮死状態にもできるという可能性。
あるいはクゼとジギタ・ゾギの間で何らかの取引があり、今後の戦略のためにノーフェルトを生かしていたという可能性。
(だとしても、私にできることは少ないか……戦闘においても戦術においても、ジギタ・ゾギを手助けすることはできない)
この六合上覧における戦術の主体は、あくまでジギタ・ゾギだ。彼は、ついに人間として長く生きたヒロトを超える頭脳を備えて生まれた、最初の天才である。
ダントなどは作戦の主体をヒロトに見ているようだが、ヒロト自身は彼の戦術に従って動き、交渉や折衝を担っているだけに過ぎない。ジギタ・ゾギこそがヒロトたちの歴史が紡いだ、小鬼の未来を担うべき力なのだから。
試合開始の合図を待つ楽隊の方を向いた時に、異変は起こった。
ヒロトの周囲の観客が、波が引くように退いていることに気付く。
彼はやや遅れて事態を把握した。故に逃げず、試合場を向いたまま呟く。
「……私との接触は避けた方がいい」
観客の退いた空間を一体で埋めるが如き巨獣が、その傍らに進み出た。
息はひどく荒く、ここまでの全速力をそれで物語っていた。
「互いのためにならないと思わないか? オゾネズマ」
「――君ハ、知ッテイタノカ」
彼と長く過ごしたヒロトも聞いたことのない、悪鬼の如き声色であった。
ヒロトは平静なままだ。腕を組んだまま、動くこともない。ただ、二人の会話を聞く距離にもはや観客がいない点だけは、幸運だと感じた。
「ジギタ・ゾギノ対戦相手ノ情報ヲ、私ニ隠シテイタナ」
「それは……ジギタ・ゾギの戦術だよ。不言のウハクはこちらの陣営の強力な切り札になる。彼の戦術を私が断言することはできないけど、そちらから情報が漏れることを危惧するのは、当然の判断だろうと思う」
「ナラバ……私……私ヲ始末スルコトモ、予定ノ内ダッタカ?」
「……」
ヒロトは、そのようには考えていない。
オゾネズマとの協力関係は良好であり、政治家として、敢えて疑念を抱かせる行動を取る意味は少ないと思えた。
だが、仮に……万が一の可能性として、オゾネズマが裏切った場合。
ウハクの詞術否定の力は、彼の肉体構成を完全に破壊してしまうことができる。
それはクゼの“天使”の力も同様だ。いずれウハク一人を掌握できたならば、ジギタ・ゾギは陣営の他の候補者全てに対しても優位性を確保することができた。
戦術家ならば、そう考えたとしても……
(違う)
すぐさま、天性の才覚で悟った。そうではない。
今、オゾネズマが恐れていることは、断じてそのようなことではない。
彼もヒロトを見てはいない。血走った目で、試合場のウハクだけを見つめている。
「オゾネズマ。君は……どうして……知っている。不言のウハクの能力を」
「ヒロト! スグ……スグニ、ジギタ・ゾギノ試合ヲ中止サセロ! アッテハナラナイ! ソレダケハ……彼ガ、敗北スルコトダケハ!」
「何を……君は一体、何を知っている……」
ヒロトの首筋に冷や汗が流れた。それは真実への恐れだったか。
ウハクに関する情報は他の候補者に漏れぬよう、全力を尽くして隠蔽と欺瞞を行い続けてきたはずだ。ましてや、常にギミナ市に留まっていたオゾネズマがそれを知る術はなかった。
「知ッテイル!」
彼は真なる解呪の力を持つ。いかなる詞術も、その前では無意味だ。
何故、六合上覧に挑むのか。何故、ここに来たのか。
それを誰も知らない。彼の真実は――。
「最初カラ知ッテイル! 不言ノウハク……ソノ名モ、違ウ!」
鳴り響く楽隊の砲火が、恐ろしく遠くに感じた。試合が始まる。
今にも、ジギタ・ゾギが彼を始末する。止めることはできない。
獣は必死に叫んだ。
「セテラ――アレノ名ハ、セテラ! 魔王ヲ倒シタ……彼ガ、本物ノ勇者ナンダ!」
それは生まれつき詞術の概念を理解しないままに、世界を認識している。
それは自らの見る現実を他者へと同じく突きつける、真なる解呪の力を持つ。
それは厳然たる現実としての強さと大きさを持つ、ただの大鬼である。
そして、それは最初から――
第八試合。千一匹目のジギタ・ゾギ、対、外なるセテラ。




