無尽無流のサイアノプ その2
戦端は、あまりにも静かに開いた。吹き上がる砂や、飛沫のような予兆すらない。
それどころか、彼らが対峙したその時には、既に始まっていたのやもしれぬ。
「下段への蹴りと」
サイアノプが予告した。始まりの狼鬼は流れるような水面蹴りを放ち、粘獣の“足”――接地面を薙ぎ払っていた。
先のサイアノプの打突とは異なり、見える動きだ。
だが、気づけば終わっているその動作に、自分ならば対応できたかどうか、ヘングは答えを持たない。
「――見せて、その回転で、背の斧で叩く。それが」
どころか、それは終わっていない。最小限の後退で蹴りを躱したサイアノプを切断すべく、後ろ手からの斧が奇襲した。
極端に柄の短い、円盤めいた厚い刃。
それはヘングの技にも通ずるゼーエフ群の流派の骨子、矛にして盾となる、腰から手首までの回転運動を伝える武器だ。
「二連」
タタン、と、水を打つような音が二つ弾けた。
一つの回転のうちに左右二連で繰り出された斧は、何をどのように受けたか、粘獣の表面を滑ったのみで、無傷である。
返しの打突音が響く。回転の途切れる刹那を狙ったか、目にも留まらぬ、粘獣の交差の一撃。
痩せた狼鬼は木の葉のように吹き飛んだ。こちらも一方、無傷である。
その着地点の砂には、彼の不可思議な受け手を示す、渦のような幾何学の軌跡が刻まれている。
「この見立てで正しいか、“彼岸”。僕に力は通用しない。全てで来い」
「こちらの言い草よ、粘獣。この年月如きで儂が老いたと、衰えたと思うてか」
「その体捌きで、そうではないと云うつもりか」
「クゥ、クゥ……生術の神髄を知らぬな」
糸の張るような緊張の中、地獄めいた低い声が、詞術を紡ぐ。
「【ネフトの鼓動へ。煙は冷雫と帰せ。淡い新緑。陽光逆軌。――巡れ】」
サイアノプはその隙を突かぬ。それが無意味であるか、あるいは誘いに乗った結果の敗着に行き着くことを知っている。
……何より、全ての力を出せぬままでは、無意味だ。
「御屋形様……!」
「喧しい」
ヘングは畏れ、本能の呻きを上げた。
その姿はほぼ、痩せさばらえたまま変わらぬ。それどころか、正常の生体活動を取り戻した結果として、皮膚はさらに老人めいて垂れ、ますます衰えたかのように見える。姿だけであれば。
発せられる闘気は別物であった。ゼーエフ群の全ての戦士を合わせたとて、こうはならぬだろう。
ヘングは、弟分のカヌートが絶命していないかをまず案じた。見ると、危惧の通りに、頭を垂れた体勢のまま泡を噴いて失神している。
(……そ……外に顕れる生命力ではないのだ。御屋形様……皮膚。内蔵。味覚。どこまでを……)
ヘングの顔面をとめどなく流れ落ちる冷や汗までもが、湯と沸き立っているかのようであった。
……戦闘に不要な機能の全てを、内なる肉体の制御と強化へと偏らせている。
“最初の一行”の内でも究極の、不死なる生術使い。
彼岸のネフトは、二十年来、微動だにせず蓄え続けてきた生命力の全てで、それを行っている。
「曝けた通りだ。……八百と十五を数える間は、儂を、貴様の知る頃の彼岸のネフトと思え」
「――ならば全霊。五度は殺すぞ」
「クゥ、クゥ。不死者は一度も死ねぬ――」
つぅ、と。
粘獣の円い体躯が、静かに地を滑った。
それはネフトの歩調と合わせた、接触の距離から。
(砲撃――)
……少なくとも、ヘングはそう錯覚した。彼の粘体がひたと接触した刹那に、そうとしか思えぬ重音が響き、しかし今度は狼鬼は吹き飛ばなかった。
否。吹き飛べなかった。
押し寄せる津波が、大樹に全衝撃を伝えるかの如く。
だが、その大樹もまた、あり得ざる動きを見せた。
粉砕された背骨から左腕にかけてが、回り込んで、しなり。
強いて表わすなら、ブズズズ、という音だった。
それは地面ごと、粘獣の体積の八分の一を寸刻みに消し飛ばした。
あまりにも速すぎる回転の連撃が重なり合い、そのような音を発したのであった。
「……カッ!」
「……!」
両者はよろめき、壮絶な打ち合いを仕切り直す。
同時に宣告した。
「【巡れ】。――双つ斧“瞼”」
「“八極貼山靠”」
ネフトの骨格は、略した詞術の一語で瞬間に接合される。
これほどの高速治癒でありながら、如何なる奇形も発さず、ショック症状ももたらさぬ生術の高みは、それを目の当たりにする誰もの理解の外にあるものである。
だが、たった今サイアノプが繰り出した技も同じく、誰もの理解の外にある体系であった。
「知らぬ技だ。クゥ、クゥ……それが二十一年、貴様の積んだ力か」
「そうだ。その年月、砂の迷宮で学び鍛えた」
この十数年、砂の迷宮へと到達した人族は存在しない。
狼鬼達も、その迷宮に何が存在するのか、興味を払ったことはない。
ならば、その場所に、既に何者かがいたとすれば。
そこから一歩も外に出ることなく、一国にも値する知識をひたすらに蓄え続けた存在があったとすれば。
「初めの一冊に、二年を費やした。そこから学んだ技だ」
――この世界の知的生物は、文字を残し、解読する能力に欠けている。
“彼方”の者達に詞術の真の力を用いることが能わぬのと同じに、話せば通ずる世に生きる者にとっては、体系的な文字言語の定着などは、実用上、極めて困難な概念である。
古の“客人”がその逸脱の知識を残したとして、読み解けるのは、例えばナガンの学士達のように、僅か限られた解読者のみだ。
そしてそれは、限られた知性しか持たぬはずの、不定形の原始生物であった。
「――愉快だ。見上げた執念よ、サイアノプ!」
「僕は貴様より強い!」
ブウン、と空気が鳴った。
常軌の速度であっても回避不可能の動きが、全盛の身体能力で繰り出されるのだ。
さしものサイアノプも、受ける。不定形の肉体が削り取られ、それでも核を失わぬ回避を継続している。
受ける。受け流す。肉が刻まれて散る。
一撃必殺の拳を。狼鬼が回転する。狙った内臓の位置を逸らす。
両斧に注意を惹き、蹴りが粘獣を踏み砕く。
踏み砕けない。足裏を狙って触れた仮足は、衝撃でその腰までを逆に砕いた。
「“冷勁”」
「……ッ、【巡れ】」
これほどまでの体技の極みにある、“最初の一行”の彼岸のネフトが、何故こうまで反撃を受けているのか。
浅歩きヘングですら、あまりにも遅れて結論に至る。
(四肢が、ないのだ)
認めがたい事実である。これほど恐るべき武術家があろうか。
サイアノプの技には、足運びが見えぬ。それは接地面の全てが大地の作用を生む足であって、何点と同時に、予測外の方向へ踏み込むことができる。
その打撃には、関節がない。それはただ、流体の如き流れであって、可動域の制約が、打撃の予兆が、見えるどこにも存在しない。
彼岸のネフトは、神域の第六感のみでこの格闘に追従している。
下等な粘獣の身体にその可能性が秘められていたことを、今、思い知った。
長い歴史においてそれを発揮し得た者は、間違いなく、このサイアノプただ一匹だけなのだから。
どのような執着があれば、このような研鑽を。
「クゥ、ククク……見事……あの足手纏いが、ここまで至るか……」
「……。左の斧を投げる。打ち払ったその間に、重ねて蹴撃――」
バチン、と、粘獣が吹き飛ばされた。それは背後、二階の石壁を割った。
斧を投げてから蹴りを繰り出すまでの過程を知覚できた者は、誰もいなかった。
「――その見立てで合っているぞ」
強くなっている。
復活から、長く溜め込んでいた生命力を徐々に巡らせ、彼岸のネフトは一時的に、全盛を越える身体性能を獲得している。
切断と打撃から紙一重で核を守った粘獣は、ビシャリと地に落ちた。
「何故……た」
「……クゥ、クゥ。耳が遠い。聞こえんよ」
「…………何故……僕を置いていったんだ」
伝説の戦士は答えぬ。その皺だらけの顔を更に歪めて、嗤った。
当然の決断だったと、彼は信じている。粘獣にも再び、理解させねばならぬ。
今も、“最初の一行”の仲間達を。もはや失われて、二度と戻らない者達の顔を、思い浮かべることができる。
……無明の白風アレナがいた。色彩のイジックが。移り馘剣のユウゴが。
伝説として語り継がれる七人が共にいた日々を、今でも思い出すことができる。
歴史の真実は違う。そうではなかった。
八人目がいたのだ。その者の名も、一時たりとて忘れたことはない。
「もう一度言わせるか、サイアノプ。貴様は“本物の魔王”に及ぶべくもない」
「【サイアノプの鼓動へ。停止する波紋。連なり結べ。満ちる大月。巡れ】……それは」
粘獣は再生の詞術を唱えた。疑うべくもない。彼岸のネフトと同種の術である。かつて見た頂点の強者の技をも、彼は修めていた。
二十一年。かつてあった日々を想っていたのは、ネフトただ一人ではなく。
「それは間違いだ。彼岸のネフト。過去も現在も」
「……」
「……僕なら、勝てる。あの時……あの場に僕がいたなら、僕達は勝っていたはずだった。そうだろう、ネフト! 今こそ、そう思いたい!」
「――痴れ者が!」
斧の交差を再び叩き込むべく、ネフトは駆けた。
僅かに珍しいだけの、少しだけ言語が流暢な、矮小の粘獣に過ぎなかった。
それは当然の決断だったと、あの一行の皆が信じていた。
「双つ斧“困し星”!」
――残された者は、何を想って、果てなき研鑽を続けることができたのだろう。
“最初の一行”は、“本物の魔王”に敗北した。後に続く多くの英雄と同じように、あまりに無力なままに。当時の誰もの希望とともに潰えた。
それでも、ああ。彼にとっては……八人目の、サイアノプにとっては。
「ネフト。僕は云ったぞ」
まだ、あの戦いが終わっていないのだ。
“本物の魔王”が討ち果たされた今となっても、終わった時代が、彼だけの中で終わっていないのだ。
その仮足が、回転に巻き込まれて散った。
違う。仮足だ。故にフェイントの犠牲となる腕すらも、無限に生やすことができる。無限の分岐を強要する格闘の選択肢。彼岸のネフトは、あまりにも絶大な思考負荷の下で、戦い過ぎた。
そう。最大限に神経が強化された今は、ネフトが終着までの流れを読むことができる。
踏み込んだ足を、一足早く延びた仮足が踏む。これからの一撃に吹き飛び、逃れることができぬように。繰り出したもう片手の斧は、むしろ攻撃方向に引かれるように、急所への狙いを外される。
サイアノプはこの時点で、三つの腕を使っている。
粘獣にとっては、それで終わりではないのだ。
四本目の腕が今、ネフトの腹部に触れていた。
「――五度殺すと云ったぞ!!」
ズル、という震動が、狼鬼の内にのみ響いた。
打撃をこすりつけるように、重力に逆らい、斜め上方へ。
それは激烈な打突音も、爆発的な運動加速度も与えることはない。
……何故ならその衝撃の全ては、生体の内側に伝わっているからだ。
「ガハ――ッ!」
彼岸のネフトは、灰褐色の液体を夥しく吐いた。
その必殺の一撃を、今の今まで加減していたことを知った。
それは液化した内臓器官である。
「脳を吐け。“嘯液重剄”……!」
「【巡れ】……」
ネフトも理解している。立ち上がる時が、ない。
「“底掌”!」
「グゥゥ……【巡れ】」
サイアノプは変わらず至近の距離にいる。
一方のネフトは、その埒外の生術で回復し続けたとて――。
「“螺旋手刀”!」
「【巡れ】……」
「“連環腿”!」
「……【巡】」
「“十三歩”!」
「………………」
その日、ゼーエフ群の戦士達は、信じ難い光景を二つ見た。
真なる伝説。彼岸のネフトが、生きて動いたこと。
そしてそのネフトが……訪れた一匹の粘獣に圧倒され、ついには崩れ落ちたこと。
「……今こそ約束を、果たしに来たぞ。彼岸のネフト」
砂風の吹く中、その一匹は言った。
過去に最強と信じた者の一人を、彼は打ち倒していた。
「いつか。……いつか君らに追いつけるまで、強くなると」
もう“本物の魔王”はいない。
二十一年の研鑽で倒すべき相手は、もはやこの世から消えてしまった。
大二ヶ月前に迷宮を訪れた一羽の鳥竜から、粘獣はその事実を聞いた。
ネフトが、彼らの逃したこの一匹の粘獣の隠遁を守るために砂海に築いた群れの意味も、もはやない。
何もかもが、とうに終わってしまった時代だった。
「……見事だ」
仰向けに倒れた始祖の狼鬼は、満面に笑っていた。
喜ばしい敗北を、失われた歳月の分まで味わっているようであった。
活動限界に達した彼を運び上げるべく、未だ動けるゼーエフ群の戦士達が、這って集った。
無残な敗北を晒した後でも、最初から“本物の魔王”に負けていたとしても、彼岸のネフトは、彼らの最も尊敬する、武術の師である。
「――僕は誰を倒せばいい。次は誰を。どうすれば、あの日の後悔を取り戻せる」
「黄都だ」
ネフトは答えた。外界から遮断されたこの群にあっても、その噂は届いていた。
……曰く、誰も知らぬ、“本物の魔王”を倒した勇者が、その王城試合に現れるのだという。
「黄都に向かえ。貴様が“本物の魔王”に勝てたと信ずるのなら……“本物の魔王”を倒した者を倒せるのだと……次は示してみせよ」
「……」
「サイアノプ。二つ目の名はあるか」
サイアノプは僅かに止まって、答えた。
「……ない。貴様らと旅したあの日より、僕はずっと、ただのサイアノプのままだ」
「そうか」
弟子たちの神輿で運ばれながら、ネフトは笑った。
皺に覆われ、見る影もなく衰えたとしても、それはあの日の笑みと同じだった。
「今日より“無尽無流”を名乗れ」
サイアノプは、彼を振り返りはしない。
落ちた書物を拾い、次に倒すべき相手を目指しはじめている。
――故に、ただ背中越しに答えるのみである。
「……ありがたく!」
それは世界から喪われた、膨大なる“彼方”の武術の数々を究めている。
それは打撃も、投げも、絞めも、読みすらも通用しない、無限の戦闘分岐を持つ。
それは尋常の身体構造には不能の、真に必殺の打撃を放つことができる。
誰もが栄光を知る“最初の一行”の、未だ敗北を知らぬ最後の一匹である。
武闘家。粘獣。
無尽無流のサイアノプ。