第四試合 その4
「二十九官の席を譲ってくださいませんか?」
第十七卿は、低く笑って会話を流したように見えた。
秘書の問いを、当然に他愛のない冗談と受け取ったのだろう。
……けれど、ふと遠くを見るような面持ちでパイプを咥えた。
暖炉の光がその横顔を照らした。
「……そうだな。時が来ればお前に手渡すことになるだろう」
「お戯れを」
「戯れではない。お前はまだ若いが、二十九官の座に相応しい優秀な娘だと思っている。生まれについてとやかく言う者もいるだろうが、構うことはない。これからは能力ある者がこの国を治め、女王を助けていかねばならん」
彼の座す安楽椅子の背後。笑顔のままで、エレアは停止している。
第十七卿は嘘をついている。エレアの周りにいる者は、彼女を騙し、引きずり落とそうと企む敵だからだ。それだけが彼らの目的なのだ。
「“本物の魔王”のために、誰もが疲れ果ててしまった。今さら、身分や生まれの差別や偏見など……人間同士で争うべき時代ではない」
「……」
「私も、そのように尽力していきたいと思う。お前なら分かるね。エレア」
「――第十七卿。ご存知ですか? “白磁の燕”亭の料理人が逮捕されるそうですよ」
「……何の話だ?」
老いた文官が、怪訝そうにエレアを振り向く。
彼の秘書は優しく、美しく微笑んでいる。何も変わりはない。
「昼方に第八卿と会談した店だ、そこは」
「存じております。素晴らしい店です」
エレアがそう答えた時、第十七卿は唐突にえずき、胃の激痛に体を折り曲げた。
そうなってしまえば後は息を吐くばかりで、吸うことができぬ。
「……けれど、そのように素晴らしい店にも、卑しい者はいるのですね」
「えっ、えぐっ、エレ」
「僅かなお金と引き換えにして、言われるがままの料理を出し、そして己の人生を棒に振ってしまう――差別や偏見を受けて然るべきだと思いませんか? 身分の低い者は、きっとそのようなこともするのですよ」
「はっ……はっ、はっ……っは、あ」
青月果の種の毒性は、ごく弱い。だからその毒に中って死んだところで、それは体力に劣る老人や病人に稀に起こる、低確率の不運に過ぎない。
このように、毒性を生術で強めたりしない限りは。
会話を始めるよりも前……第十七卿が椅子で微睡んでいたその時に、エレアはその詞術の行使を終えていた。
「……さあ。もう一度言ってみてください、第十七卿。私を二十九官にしてくださいますか? 心の底からそう思っていたのですか?」
「はっ、はっ、あ、が……」
笑顔のままだが、敵にそうするように冷たく見下ろしている。
全てが敵だ。彼はエレアの生まれを知っている。それを知る者が一人でもいるならば、いつか必ず彼女を破滅させる。
「身分や差別の偏見は、くだらないことだと?」
両肩を押さえつけ、悶えることすら許さない。
第十七卿の口の端からはぶくぶくと泡が漏れて、その唾液には胃壁からの出血が混じりはじめたが、それでも耳元で言い聞かせ続けた。
「……ねえ、第十七卿? お母さんにも、同じことを言ってくれますか?」
「……! ん、う~っ! エ、エレ……エレア……」
「お母さんは、私よりずっと努力していましたよ。本物の貴族になるために。あなたに相応しい女であるように、ずっと」
痙攣する肩を無慈悲に掴んで、積年の憎悪をぶつけて、それでも完璧な微笑みで見下ろしたままだ。母の教えた通りだ。
――気品を身につけなさい。誰もあなたを侮らないように。
「どうして黙っているんですか?」
「……っ! ……う! ……!」
「さあ。言ってください? とても幸せな人生だったと」
消えゆく瞳の光を見つめながら、エレアは最後まで呼びかけ続けている。あの日と同じように。
そうして死んでいく。それを確かめなければ安心できない。
「自慢の娘がいて良かったと」
「…………」
痙攣は止まって、押さえつけていた肩から力が抜ける。
断末魔の苦悶のまま動かぬ顔を見て、エレアはようやく笑顔を消すことができた。
彼女が生きた青春には、そのような時にしか安堵はなかった。
「さようなら。お父さん」
――――――――――――――――――――――――――――――
「これが……ロスクレイの力……」
劇庭園を覆いつくす声援を目前にして、第九将ヤニーギズは思わず息を呑んだ。
想定していなかった。このような事態など、一切戦略に入れてはいない。
ルール上これほど明らかに敗北し、見苦しく足掻きながら、民が負けを認めない。
この状態ですら、ロスクレイは観衆を味方につけることができる。
全ての裁定が絶対なるロスクレイを敗北させない。
「……あなたは、ロスクレイ……! 何も準備できなかったわけじゃア、なかったじゃあないですか……!」
ロスクレイの影響力の程度を、エレアも……ヤニーギズも、見誤っていたのだ。
――絶対なるロスクレイ。武勇の頂。真なる騎士。
彼は無残に傷つき、勝ち目などなく、それは戦いの形すら成していない。
一度も民に見せたことのないような醜態を、初めて晒している。
絶対なるロスクレイは……そのような姿を見せてしまえば終わりだと信じていたからこそ、常に完璧であるように努力を続けていた。
……違ったのだ。決して、それで終わりではなかった。
「たとえ、備えが無意味でも……! ま……間違いのない敗北だとしても! “絶対なるロスクレイ”は積み重ねていたッ!」
勝ち目はない。けれどもしかしたら。
ロスクレイの真実を知るヤニーギズにすら、そのように思わせる力だった。
――そして、ヤニーギズの客席の遥か階下。
同様に試合を見守る第十七卿エレアは、その力を恐れていた。
(想定を……していなかったわけじゃない。ロスクレイと戦う限りは、誰もが悪の側に立つ。試合が長引けば長引くほどに……)
試合が長引く? 世界詞のキアにその危惧など、初めから無用だったはずだ。
誰が相手だろうと、ただ一語を発するだけで、即座に試合を終了させる。
観客に何が起こったのかを理解させないままに英雄を抹殺し、“代わり”が必要なのだと知らしめることができたはずだった。
(……どうして。どうしてなの……。イータを救うための、大義名分があるのに……私に対する負い目を、感じていないはずがないのに……あなたの敵は、故郷を滅ぼす黄都の象徴なのに……)
今や、キアは死に体のロスクレイへの攻撃を躊躇っている。
ロスクレイには永遠に勝利の手段はないが、キアも彼を殺せていない。
……キアは、普通の少女だから。
全能の詞術を与えられただけの、ただの子供だから。
熱狂の歓声が響き続ける暗闇で、エレアは苦悩と後悔に蹲った。
「……な、なんで……なんで……こんな……? こんな、簡単な、こと――」
キアは普通の少女だった。
誰も殺さず誰にも偽らず、幸せに暮らしてきた、ただの子供だ。
……ならば、エレアは?
エレアは、それを当然の前提であると考えていた。当然、殺すべきなのだ。
自分を脅かす敵を生かしたままにしておくなど、あり得なかった。子供の頃から、彼女は決してそうではなかった。
キアが当然に持ち合わせていたその善性を、何一つ信じてはいなかった。
「なんで……! し、仕方……仕方なかったじゃない! ……私……私だけが!」
イータで見た緑の木漏れ日。平和な野山を歩いた日々。
彼女は時に子供のような行いをした。
中央の都市からの先生は、時に子供たちが当然知っているようなことを知らなくて、それを笑われれた時には、彼女も困ったように笑っていた。
彼女自身が一度も通り過ぎたことのなかった幼き日々を、いつも教え子たちに教えられていた。
子供であったことがなかったから。
「……キア!」
そしてエレアは、そんな……ただの子供を。
――――――――――――――――――――――――――――――
「も……もうやだ……終わらせてよ……」
視線の先に黄都第二将が佇んでいる。
キアを脅かすことは決してない。防御を貫くことも、攻撃に動くこともできない。
そこにいる存在は……群衆の呪いで動く、不死なる妄執の亡霊に違いなかった。
恐れ苦しみながら、キアは彼を打ち倒す方法を必死で思考した。おぞましい結論ばかりが次々と浮かぶ。いやだ。いやだ。
ロスクレイの動きを完全に停止させたところで、彼らは諦めない。
二度と立ち上がれないことが、誰の目にも明らかになるしか――
「ね……ね、【捻れて】ッ!」
「はッ、ぐあっ」
ビチビチビチと恐ろしい音が響いて、ロスクレイの両脚は膝から逆向きに捻れた。
両脚を奪わなければならなかった。片脚だろうと立ち上がってくる。
回転して裂けた脚の肉から血が滲んで、英雄は二度と立ち上がれない体と化した。
「ご、ごめ、ごめん……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
それでも、決着の号令はなかった。
観客席には悲嘆の波紋が広がっていく。けれどそれは絶望ではなく……
「ロスクレイ、立って……! 立ってよ……!」
「剣だロスクレイ! その悪魔の首をはねろーッ!」
「お願いします……詞神さま、ロスクレイに加護を、どうか……」
「ロスクレイ……」
「信じてるぞロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
そんな、無責任な祈りが。
「おかしい……あ、あなたたち、みんな、おかしいわよ……! こ、この人をっ……もう負けさせてあげてよ!? 見えないの!? こんなにボロボロなのに! 脚があんなになって、どうやって立てっていうのよおっ!」
彼らは自覚していないのだろうか。まさに自分たちこそがロスクレイを殺そうとしていることに気づかないのか。
キアには見えている。今対戦しているこの第二将が紛れもなく生きていて、人間で、受けた全ての傷に苦しんでいることが、全て見えている。
それはキアの勝利と同じように、誰が見ても明白な現実であるはずなのに。
脚を捻り折ってすら、この英雄は負けさせてもらえない。
どうすればいいのか。何をしろというのか。
信頼は信仰と変わり、過ぎた信仰は盲信となり、盲信の果てに狂信へと至る。
この広大な会場の全ての者は、ロスクレイを信じていた。心から。
「不正だ!」
群衆の中で誰かが叫んだ。
たとえ年端の行かない少女であろうと……それが、ロスクレイの敵である限り。
「ち、違う……違うのに……本当なの……本当に、あたしの力なのに……」
詞術の詠唱はその時に響いていた。
今この場で、明らかな不正があるのだとしたら――キアはロスクレイを見た。
「【エキレージよりロスクレイへ。辿る獣の道。一つの枝へと宿れ。全て罰の剣。膨れよ】」
「ぐっ、うう……うむっ……うううう……!」
強いて悲鳴を抑えていたロスクレイが、おぞましい苦悶の声を上げた。
遠隔からの生術が、彼の両脚を急速に治療している。
急速すぎる治療によって、当然に骨は歪んで成長し、体内を膝から突き破った。
爪先の側は枝分かれをして、さらにいくらかの肉を剥いだ。
脚と呼ぶことすら烏滸がましい器官であったが、その一つのことだけはできた。
……つまり、立ち上がることが。
「あ……いや……いやああああっ!? うああああ! いやああああああぁぁっ!」
「――さあ」
夥しい汗に塗れて、苦痛を噛み殺しながら、それでもロスクレイは微笑んだ。
彼は絶対なるロスクレイであるから。
「正しき技で、勝負しましょう」
騎士の体は吹き飛んだ。劇庭園の端にまで高速で激突して、再び倒れた。
たった今、意思の速度で走らせていた詞術を、キアは呟いていた。
「と、と……うっ、うう、あ……【飛んで】……」
それは恐怖であった。
絶大な恐怖が、常人の持ち得る殺人への忌避を忘却させたのだ。
多くの者は理由があって何者かを殺すのではない。ただ、恐ろしいから殺す。
世界詞のキアですら、そのようにできた。
「……」
キアは、自分自身の両手を見ていた。
今までの感情の荒波が、その一瞬だけで嘘のように静かになったように思った。
涙を拭う。そして立ち上がっている。
試合が始まる前と同じように……観客の声が聞こえていないように動けた。
(――ああ)
一つの枷が外れたようであった。
年端も行かぬ少女は、そこで初めてその事実を認識した。
(……あたし……あたしは、できるんだ……)
壁に叩きつけられたロスクレイの方へと歩んでいく。
父や母。姉。ヤウィカやシエン。彼女の故郷を滅ぼさせはしない。
自分を散々に非難して、ずるをして、イータから略奪しようとしている黄都のことなど、きっと知ったことではないのだ。
大切なものを守るためならば……今のこの心ならば、きっと殺せる。
黄都最強の騎士は、まるで眠っているようにうつ伏せに倒れている。
……何も特別なことはしなくていい。『死ね』とただ一言命じれば、一切苦しませることなく、恐ろしい様相も見ずに、静かに生命を停止させることができるから。
「……あたしの。勝ちよ」
「………………イスカ……」
倒れたまま、騎士は朦朧と呟いていた。
「……イスカ……私…………私は……」
「うっ、ううっ、ぐぶっ、う」
キアは嘔吐した。
(こ、この人……この人は……!)
両手で顔を覆って、震えている。
ほんの一時忘れ去っていた、恐怖の全てが押し寄せていた。
恐るべき深淵に指を浸しつつあったことに気付いた。
今……自分は何をしようとしていたのか?
(人……人だ……! あたしと同じ、人……! あたしと同じように、大切な誰かがいて……生き……生きてるのに……!)
圧倒的な力がある。どこからともなく手に入れた、絶対の力。
願いがある。守りたいものが。キアは戦わなければならない。
けれど、そこまでしなければならないのか?
天より与えられた反則で、全ての意思を通すことができる。
同じように考えて、同じように世界に必死で生きている誰かを踏みにじってまで。
どうしてもそうしなければならないのか?
今のキアは、あのジヴラートとまるで同じではないか。
いつの間にか彼女自身が、他の何者かを傷つけて省みない何かに変じつつあった。
――あなたの力は、人を幸せにするための才能だから。
「あ、あたし」
誰かの体が彼女を抱きしめたのも、その時だった。
温かな体温があって、柔らかな感触が彼女を包んだ。
「――第十七卿です! 降参します!」
乱入者は叫んだ。
「も、もう……殺させないで……やめて……もう、終わりに……」
――初めにジヴラートを殺させるべきだった。
何よりもそれが分かっていたはずなのに……どうして彼女自らが手を下してしまったのだろう。どうしてあの時の一手を間違えたのだろう。
エレアは、何を守ろうとしていたのだろう。
「世界詞のキアの不正を確認した!」
時を同じくして、囁かれしミーカは朗々と宣言した。
「たった今、兵より証拠の報告が上がった! 幼き娘を戦場の矢面へと立たせ、場外より詞術の援護を行っていたことが、諸君らの目撃した光景の正体である! よってこの第四試合の内容を無効とし、絶対なるロスクレイを勝者とする!」
割れるような歓声が、倒れて起き上がらぬままのロスクレイに降り注いだ。
裁定者の言葉の真偽を問う者は、どこにもいなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――
「ごめん……ごめんね……エレア……ごめんね……」
「キア……」
ひどく消耗したキアを支えて通路を戻る最中、二名の兵が道行きを阻んだ。
「第十七卿。お疲れでしょう。ご同行いたします」
「先行きを我々が案内しましょう。どうぞ」
エレアは視線を伏せる。全てが終わった。
彼女が人生を賭した戦いは初めから破綻していて、第四試合は始まるその以前から……もっとも早くにその結末が確定していた戦いだった。
それでも。
「分かりました」
エレアは僅かに微笑む。
隠し持っていた細い薬瓶の中身を兵の顔面へと浴びせた。
「グッ!?」
「ッツゥア!?」
「えっ、何!?」
「行きましょう、キア!」
……それでも、キアを黄都のための兵器などに堕してはならない。
何も貫くことができなかった。何も気づけていなかった。
ならば、一つだけでも。
手を引いて逃げる。黄都の兵が彼女を捕らえようとしている。
劇庭園を囲む市場。真昼の市街を歩む民の奇異の視線が刺さる。
ああ。侮られないように、見下されないように、エレアはいつでも繕い続けなければならなかったのに。
「エレア……エレア、ねえ! 何をしてるの!? 説明してよ!」
「……っ」
彼女の人生は終わった。黄都の軍が彼女を捕らえるだろう。
どこへ逃げれば良いのか。どの場所がこんな卑しい女を受け入れてくれるだろう。
(……ああ。きっと)
キアが見ている。絶対の権能を持つ、無敵の詞術士だった。
けれどそれは……陰謀に巻き込まれただけで、死にすら触れたことのない、無垢な少女だった。彼女の教え子だった。
(きっと私は、嫉妬していたんだ。私は……こんなに、醜い……!)
イータ。エレアが苦しみ続けてきた世界の外側には、穏やかな世界があって。
そして無邪気に彼女を信じてくれる少女がいた。悪意にも害意にも塗れていない、本当に美しい少女だった。
「……エレア?」
「ねえ――。ねえ、キア? 先生の言うことを、よく聞いてね」
だから今こそ、そうしようと思った。
涙を拭って、キアの目の前に屈んだ。
(……私は、あなたを騙していたのだと言う)
そこには湖のように透き通った碧眼がある。これからどんな世界も映していける、素晴らしい可能性が。
(私は……本当は。権力のために、あなたを利用していただけだと言う。あなたが苦しんできたことは、何もかも私が仕組んだことなのだと言う。本当は……全てを裏切ってきた、ひどく卑しい女なのだと……。あなたの故郷のことだって、全て私のせいなのだと言う……)
生きるために、全てを利用し続けてきた。
他人だけでなく、自分の言葉も心も騙し続けた。
だからそんな程度のことは、何よりも容易い作業に違いなかった。
(……だから。悪いのは全部先生だから、あなただけは一人で逃げてと――)
エレアはそうして、キアの両手を握った。
「怖がらせて、ごめんね。キア……あなたはとても強い力を見せてしまったでしょう。だから、黄都の軍があなたを追いかけています。逃げなければならなかったのよ。だから……教えましたね。あなたの力は、無闇に使ってはいけないって」
「そう……そう。そうよね……あたし、ひどいことをしたわ。みんな、私のことを嫌ってるわよね……」
そうして、その金色の髪を撫でた。
「いいえ。黄都に来てからずっと……先生の言いつけを、よく守りましたね」
「ねえ……じゃあ、エレア……! あたし……」
キアの両目からも涙が溢れた。
それで全てを悟れる子供だということを、エレアは誰よりもよく知っている。
「あたし、一人で逃げるから……それなら皆、あたしの方だけを追いかけるものね? あたしは無敵だから、ぜーんぜん、平気なんだから……! だから、ねえ。さよならなんて言わないわよね!」
「ええ。きっと逃げて。先生は、ずっと待っていますから。だから……キア。あなたの詞術を、正しく使いなさい。それは……それは…………人を幸せにするための、才能なんですから……」
「うん……うん……!」
嘘をついた。本当のことを告げることはできなかった。
他の誰に虚飾を剥がされたとしても、キアの前でだけはそうでありたかった。
エレアはいつだって、美しくて優しい、完璧な教師だったのだから。
「……ねえ、エレア。最後にいい? 一度しか言わないから」
キアはまるで内緒話をするように寄り添って、頬をエレアの頬に当てる。
最後の詞術を唱えた。
「【治って】」
エレアの眼帯を外して、空色の瞳をまっすぐに見る。
そして泣きながら笑った。
「キア……」
「あのね、エレア。本当は……あたし、ずっと幸せだったの」
――そんな言葉を。
「……先生。エレア先生は……優しくて、きれいな。皆の……自慢の先生よ」
答えを待たずに、少女は駆け出していく。
……キア。何よりも大切な、彼女の光。
その後姿に声をかけたかった。エレアは振り返った。
(キア。私は――)
路地から飛び出した剣がエレアの胴を薙いだのは、その時だった。
視界は真っ赤に染まって、地面に墜落した。
その一撃を当てた黄都の兵はむしろ動揺して、背後の者へと報告した。
「……ッ、申し訳ありません、ジェルキ様! 脚を狙おうとしたのですが、振り返ったために狙いが……!」
「構わん」
冷徹な声。聞き覚えのある侮蔑の声が聞こえる。
第三卿ジェルキが、エレアを見下ろしていた。
「今回の一件でよく分かった。生かしておいたところで……この女は私欲のために他者を利用し、黄都を内より腐らせる毒婦だ。一切の機会を与えるべきではなかった。……決断の責任は、取る」
震える視界に、汚いものがある。
エレアの腹から溢れた内臓が地面を汚しているのだ。
いつも美しくあろうとした。生まれも外見も、皆に綺麗に見られたかった。
(ああ、私の……私の中身は……いやだ……)
そのおぞましい形と色が、赤い紙箋のエレアの全てだった。
卑しい。卑しい。卑しい。卑しい。
「……全て、私だ。期待した私が、愚かだったのだ」
(……こんな。こんなに……見ないで……兄さん……)
ただ一人で死んでいきたくない。皆に蔑まれて死にたくない。
「――死ね!」
ジェルキは叫んだ。
鉄の如く冷徹な第三卿の言葉には、確かに失望と怒りがあった。
「卑しい血筋の娘め! 同胞を裏切り、幼き娘を利用し、父を……父すらも殺し……! 貴様のような者が省みられると思うな! 赤い紙箋のエレア! 貴様のような外道には、惨めな死こそが相応しい!」
(…………)
暗闇の先にこそ、きっと光が。
けれどもう、何もない。彼女の光は去ってしまった。
だからエレアの命は……暗闇の果てへと。
――――――――――――――――――――――――――――――
「……負けていた」
医務室。寝台に寝かされ、全身を治療の詞術に作り変えられる痛みの中でも、ロスクレイはうわ言のように言った。
その傍らに座るヤニーギズは、ゆるやかに首を振った。
「それは……違いますよ、ロスクレイ」
彼の傷はどれだけ癒えるだろうか。少なくとも、脚を切断されたソウジロウよりは見込みがあるかもしれない。
決して死んではならぬ英雄だ。ロスクレイの治療を専属する生術士は四人も存在する。どんな代償を支払ってでも、二回戦のその時までには。
「……間違いなく、アナタの勝ちです。アナタ自身が鍛錬していなかったなら、あの詞術の前に意識を保っていることなどできなかった。土山を崩す詞術も、脚を治療する詞術も、アナタの準備だった。第二十六卿を調略したのも、アナタ自身の実力だった。何よりも……アナタは、あれだけ多くの味方を作り上げていたじゃあないですか。私たちの想像すら、越えるほどに……」
ありとあらゆる反則を尽くして、それでもロスクレイの勝利だった。
彼でなければ、あの全能のキアを下すことなどはできなかった。
「アナタは間違いなく、偉大な英雄なんです。ロスクレイ」
「……それでも。赤い紙箋のエレアは、一人だった」
「……」
誰よりも多くの味方がいた。人工英雄は、黄都の民の全てを味方につけていた。
それでもなお。たったひとつでも歯車が狂っていたなら、きっと。
「ただ一人で、私たち全員を追い詰めたんだ」
第四試合。勝者は、絶対なるロスクレイ。