第四試合 その3
黄都に連なるありふれた商店の一つでも、そのようなやり取りが行われていた。
一人の青年がカウンターへと身を乗り出し、店番の青年に語りかけている。
「ねえ、明日の試合はさ。ディラはロスクレイを応援するんだよね?」
「……まあ、ロスクレイだしな。ほら、螺子回しだ。他に入用はないだろ」
「ねえディラ! ロスクレイって、そんなに凄いの?」
「ああ。ウチみたいに長く黄都に住んでれば分かる――」
客の青年を無愛想にあしらいながら、彼を追い払うことはない。
淡々とした口調を変えることなく、店番の青年は言葉を続けた。
「あの人は、市民の誰だって守ってくれるんだ。こんな市の端っこの区画までさ」
「じゃあやっぱり、見たことあるんだ」
「……あるよ」
目を閉じて、その時の記憶を思い出す。
それを見た誰もの誇りとして残っている、英雄の閃光を。
「魔王自称者の、巨人の屍魔だった。高い壁を蹴り上がってさ。その化物の首筋まで高く飛んで、斬ったんだ。……信じられるか? あの人は……人間なんだよ。俺たちと、本当に同じなんだ」
「……あはは。そうかな? 皆の話聞いてると僕、とてもそうは思えなかったから」
「人間だよ」
そうでなければあの災厄を前にして、ただ一人で民を守りはしない。
打ち倒した強大な魔族を悼む一瞬の横顔を、ディラは忘れはしない。
彼が休みなく剣の鍛錬を続けていることを、全ての民が知っている。
彼が身分の別なく市民に気を配っていることを、全ての民が知っている。
「ただ遠いだけで――俺たちと変わらないのに、あの人は英雄なんだ」
「凄いんだね。じゃあジヴラートなんか目じゃないや」
「……黄都に住んでる全員が、ロスクレイに恩義がある。ただの英雄じゃない……あの人みたいになりたいと思わせてくれるんだ。正しければ、いつか」
「おぉい! ディラーッ! そろそろ店閉めろや!」
店の奥からは声が聞こえる。もう酔っ払っている。気の早い父親だ。
彼は溜息を付いて、客の青年を見た。
「悪いな。父さん、今日は早く閉めるって。ロスクレイの勝ちの前祝いだってさ……参っちまうよな、いつも」
「そっか。邪魔しちゃったね」
「明日の試合は見に行くだろ?」
「……! うん!」
最後の客が去った後の片付けをしながら、いつもの無表情を崩して、少し微笑む。
詩歌の英雄よりも、どこかの星馳せアルスの伝説などよりも。
彼が何よりも信じる事実を確かめるように。
「ロスクレイは、無敵だ」
――――――――――――――――――――――――――――――
「ああ、ロスクレイ……!」
「ロスクレイ!」
「嘘……ロスクレイ……!」
「ロスクレイ! 立ってロスクレイ!」
観客席を満たしつつある嘆きと喧騒を入退場口の奥に聞きながら、赤い紙箋のエレアは目を閉じる。
長い戦いだった。ロスクレイは何一つ対処することができなかった。
ようやく安心できる。ようやく、光の一筋が。
(キアは無敵。ロスクレイよりも速く、ただの一言で倒せる――)
その事実を、これ以上ない形で証明した。残る三戦の全てをそのように勝てると。
擁立候補の瓦解した最大派閥を取り込むだけの状況も、既に出揃っている。
彼らはこの後に控える対戦で、冬のルクノカを倒さねばならない。
星馳せアルスを容易く屠り、マリ平原を死の凍土に変えた、恐るべき古竜だ。もはや明らかとなった災厄を前にして、今――それを果たせる者は、世界詞のキアをおいて他にはない。
そして無敵のキアを完全に制御することが可能な者は、この黄都にエレア一人だ。
ならばキアの擁立は必然となる。女王の推薦すら必要ない。
以後の対戦組み合わせにおける勝利への道筋は、ロスクレイが既に舗装している。
六合上覧は、これで終わりだ。
「……静粛に!」
客席を割って、明瞭に響く一つの声があった。囁かれしミーカ。
六合上覧の全試合にて立会を務める裁定者が、会場を鎮めた。
「試合事前に取り交わした通り! この真業は、片方が倒れ起き上がらぬこと。片方が自らの口にて敗北を認めること。そのいずれかを以て決着である!」
故に彼女は、誰の目にも明らかな決着の告知を――
「しかるに、絶対なるロスクレイはまだ倒れてはいない!」
……エレアは、その意味するところを遅れて理解した。
闇の中へと再び引きずり込まれたような心持ちだった。
(――そんな)
ミーカの表情は鉄のごとく不動だ。
まるで明らかな道理を語るその時のように、揺るぎない口調のままであった。
「その事実が確かである限り、この試合を続行とする!」
歓声が再び湧いた。
司法の番人。黄都第二十六卿、囁かれしミーカ。
彼女が全試合の立会を担うことに、エレアも……あのハーディすら異論を挟まなかった。互いに敵対し探り合う全員が合意した、中立の裁定者であった。
(調略していた……まさか、あのミーカまで。裁定者は、私たちの敵――)
何かが割れる音が聞こえた。ロスクレイの埋まる山がボロボロと崩れて、無数の直剣へと分解されていく様子をエレアは見た。
剣の工術による遠隔支援。骨の番のオノペラルか。
いや。それよりも大きな問題がある。
彼らが戦いを続けられると判断しているということは――再び歓声が湧いているということは。
辛うじて呼吸の隙間が生まれた土塊の内より、篭手に包まれた手が現れる。
エレアは息を呑んで、キアを見た。
彼女にとっての誤算はもう一つあった。
(殺して……いない……!)
――――――――――――――――――――――――――――――
思考を組み立てたかったが、そのための酸素がなかった。
土に閉ざされた脳細胞は意識を保つだけで限界に達しており、一瞬に圧迫された関節の各所が外れ、または破壊されていた。
脱臼した左肩を、激痛を無視して嵌める。
血が出るほどに歯を食いしばり、それでも悲鳴や嗚咽を上げたりはしない。
彼は絶対なるロスクレイだからだ。
(……土の工術。規格外の発動速度と……発動規模……)
それは正しい認識だろうか? 十分な思索ではなく、見えたものをそのまま脳裏で確認しているだけの作業にすぎない。
ロスクレイは痛みに耐えながら歩き、半ば自動的な動きで、剣を正しく構えた。
既に試合場を去りつつあった世界詞のキアは、怪訝な表情で騎士を振り返った。
心底愚かなものを見たとでも言うように、眉を顰める。
「なんなの?」
ロスクレイにとってはそれで構わない。
時間が必要だった。僅かでも敵の正体を考察し、勝利の道筋を見出す時間が。
(詠唱は……していない。正しい詠唱ではない。『埋めて』というのは、他の何者かに伝える暗号。私と同じに、ラヂオを用いて……外部からの支援を…………いや、通信機器の有無は兵が事前に確認しているはず……巧妙な偽装手段が……他に遠隔に詞術を作用させる手立てがあるのか……違う……違う……!)
思考がまとまらない。それはロスクレイの消耗だけが理由ではない。
彼の知る限りの条理において、それは異常すぎるからだ。
(エレアは、他の強者には一切接触していなかった……! ここで援護を行う者がいたとしても……! 単純な工術だけで、魔王自称者以上の威力と発動速度を……この少女自身が、やっているとしか……!)
そして、決して辿り着きたくない結論が見えていたからだ。
何らかの仕掛けによってこのような現象を起こしているのならば、それを封じることができる。完全に看破ができるのならば、ロスクレイはそれを逆に勝利へと結びつけることすらできよう。
そこに何も仕掛けがないとしたなら?
見えている現象が全てで、キアが真実、今見せたような絶大な工術を運用できる一人の詞術士であるなら?
これほどの怪物が忽然と存在するのか。
こんな理不尽が。無敵が――しかしロスクレイの到達した結論が正解であった。
(……勝てない)
「【埋めて】。……なんなの?」
再び土が覆った。
暗闇の地獄で、今度は右足の甲が砕ける音を感じた。
新たに得られた情報は何もない。先ほどと全く同じあしらいを、ロスクレイは一切回避できない。
「【オノペラルよりコウトの土へ。形代に映れ。宝石の亀裂。停止の流水。伸びよ】
すぐさまラヂオから工術の声が響き、ロスクレイを復帰させようとする。
培った経験と判断力のために、何よりも明晰にそれを理解してしまっている。
(無理だ。無理だ。私には――とても無理だ。……この状況に何ひとつ準備を整えることができなかった。この敵を読みきれなかった。私は、勝てない)
土を吐きながら歩き出そうとするだけで、破壊された爪先から激痛が走った。
倒れたかった。無駄だと思った。
こんな想定不可能の、意味の分からない怪物を相手に、何ができるのか。
剣の鞘を杖のように突いて、ロスクレイは立った。
「……ねえ」
キアが呆れの声を漏らす。
気が遠くなるほど繰り返してきた鍛錬の通りに、剣を正しく構えた。
そのひたすらに無意味な動作のために、苦痛の呻きが喉の奥で漏れた。
「あまりいじめたくないんだけど」
「……っ、け。剣の道の他を知らぬ騎士です。詞術の道の絶点と立ち会うこの栄誉を、どうか長く味わわせていただきたい」
心にもない虚勢で足を止めている。ロスクレイは足掻いている。
土の山が分解された工術の副産物がある。地面の至る所に散った直剣。
膨大な量のために、かえってその存在を意識できない。
「【アンテルよりジャウェドの鋼へ。軸は第四左指。音を突き。雲より下る。回れ】」
遠隔支援の力術が剣を飛ばす。
背後の死角から延髄を切断する。
その刃が消えた。
「?」
少女は目を丸くして、剣の残骸の落下した背後を振り返った。
奇襲を受けたことすら、全てが終わるまで気がついていないようであった。
「……あ、口で言うの忘れてたわね。【危ないものから、あたしを守って】」
工術のみではない。鋼を消し飛ばすほどの熱術の盾だ。
凄まじい空気の熱がキアを守り、その余波すら本体に及んでいる様子はない。
今の一手は、元より勝算の薄い悪足掻きに過ぎなかった。だが――
(僅かな可能性、すら)
絶望に、足が崩れようとする。前に踏み出して耐える。
ロスクレイは身に染み付いた流れで剣を構えて、真っ直ぐに見据える。
剣を取り落としたくても、倒れ込みたくても、もう無駄だと叫びたくても、そうすることができなかった。
絶対なるロスクレイは、降参という敗北条件を封じられている。
最後まで戦い続けることを義務付けられている。
「え……なに……? おかしいんじゃないの……?」
――今度は、キアが敵の正体を訝っていた。
これだけ圧倒的な力を見せて、もう戦う必要はないと考えていた。
けれど立会人は戦闘の続行を告げて、キアが勝つために、まだ何かをしなければならないのだという。
「だって……分かるでしょ? どう見たって……負け、じゃない。あなたの……」
「……」
世界詞のキアにとって、この六合上覧の遍く参戦者は均質な敵に過ぎなかった。
巨人だろうと竜だろうと、彼女が一言を発すれば、それでひれ伏す。そうして何の労もなく勝利の栄光が――彼女の故郷の救済が手に入るのだと思っていた。
『死ね』と一言を告げるだけで、彼女に勝てる者などこの世にはいないのに。
絶対なるロスクレイは、異常だ。
見て分かるほどに満身創痍の身で、それでも正しく立っている。
キアは先のミーカの言葉を思い出した。この試合を終わらせる条件を。
「……ねえ。起き上がらなければいいのよね?」
「世界詞のキア。私は決して――」
「【倒れて】」
見えない鉄槌が振り下ろされたように、ロスクレイは地面に潰れた。
指先一本に至るまで、不可視の力術が彼の肉体を直接に押さえつけていた。
「……ほら! これでもう動けないわ! ね!」
誰の目にも疑いのない、完璧な勝利。
キアは笑って、ミーカの方向を見た。周囲を囲む観客たちを見た。
「ロスクレイ……」
「ロスクレイ、いや……!」
「立って! ロスクレイ!」
「まだ諦めるな!」
「ロスクレイ! ロスクレイ!」
ミーカは沈黙している。決着の宣言はない。
何故。キアは、このまま永遠にこの術を持続できる。明白な勝利のはずだった。
――『倒れ起き上がらぬこと』。ロスクレイがこの状態から起き上がるのだと、誰もが信じている。
絶対なるロスクレイは、最後まで戦い続けることを義務付けられている。
「ロスクレーイ!」
「負けるな、ロスクレイ!」
「ロスクレイ! ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
「ああ、ロスクレイ……!」
不気味だった。
世界詞のキアにとって、それはひどく気持ちの悪い光景に見えた。
「……っ、なんなのよ、これ……!」
動きの停止したロスクレイを見る。当然、逆転の兆しはどこにもない。
……それどころか。キアはその事実に気づく。
「ひっ!?」
永遠に持続できたはずの詞術を、そこで解除してしまう。
ロスクレイは酷く咳き込みながら地を掴み、起き上がる。
「かはっ……! けほっ、ゴボッ、ッは……!」
違う。ただ咳き込んでいるのではない。それどころではなかった。
彼のそれは、溺死寸前の犠牲者の喘ぎに等しい。
先程の一瞬に、キアだけが気付いたのだ。ロスクレイの呼吸が止まっていた。
キアの絶大な詞術が、不随意の動作までをも停止させてしまっていた。
キアはロスクレイを恐れ、後ずさった。
ロスクレイはそれを追うことすらできない。
まっすぐに地面に立ち。キアを正面から見据え。そして正しく剣を構える。
「ロスクレイ! ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
「ロスクレイが立ったぞォッ!」
「ロスクレイ!」
「な、なんで……なんでなの!?」
その訴えが、熱狂に沸く観客へと届くことはない。
それはひどく理不尽で、恐ろしいことだった。
どうして終わりではないのか。どうして誰も終わらせてはくれないのか。
「あ、あたし……あたし、勝ってるじゃない!? ねえ!?」
キアはもはや泣き叫んでいた。
この広大な試合場を取り囲む、全てがキアの敵だった。
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
「ロスクレイ!」
黄都最強の騎士は立っている。足を引きずりながら地を踏みしめ、近づいてくる。
そうしたところで、何もできないと分かっているのに。
騎士は退かない。人間は諦めない。
勝ちたい。何よりも大切な、彼女の故郷を救いたい。
どうすればいい。どうすればこの恐るべき反則に勝てるというのだろう。
彼らは何をさせようとしているのだろう。これ以上、キアに何をしろというのだろうか。
「――殺して!」
その一つの声も歓声に途切れて、届いてはいない。
入退場口に縋り付くようにして、エレアが叫んでいた。
明白だ。この英雄を決定的に敗北させる手段など、一つしか残っていないのだ。
「殺して! その男を……殺すしかないのよ! キア!」