黄都 その7
窓から差し込む黄昏色の光が、客車の床を撫でている。
黄都主幹軌条は市内の全域を巡っているが、最も大きな大市場駅を越えてしまえば、乗客の姿もほとんどなくなる。
「俺が育った救貧院には……小さな湖があってさ」
レールの継ぎ目を越える音だけが、規則的に響く。
日差しの名残りの暖かさが、橙色に染まる車内を満たしていた。
通り禍のクゼは向かいの座席を見つめながら話し続けている。
「藻やらなんやらで汚れた、濁った湖だったよ。昔の神像の名残だかなんだかが……向こうの岸で根に埋もれていてさ。俺らは誰も気にしてなかったけど、ふへへ……よく考えたら、不気味なとこだったのかもなあ」
救貧院は、“本物の魔王”の侵攻に村ごと滅ぼされたと聞いた。
それとも、血や屍肉に汚れぬままの景色が、まだそこには残っているだろうか。
「まあ……まあ、少なくともだ。遊び場に向くようなとこじゃなかった。湖は膝くらいの深さだったけど、それでも危ないからっつってさ。でも俺はたまに通ってた」
深夜に一人で寮を抜け出して、神官に怒られることがよくあった。
彼らにとって幼い頃のクゼは、ひどく手のかかる子供だったはずだ。
夜露に濡れた葉を踏んで、虫の鳴き声が響いていて、その物寂しい道のりを行くのはいつも一人だった。
「……夜になると。そこで歌っていたやつがいてさ」
小さく、かすかな、少年のように通る声。
それは歌だったが、クゼに意味が理解できるものではなかった。
この世の詞術ではなかったから。
「いいや、違うか……夜だけじゃなかったかな。はじめに見た時は昼だった。友達には聞こえてなかったんだ。先生にもだ。静かな歌だったから――俺以外には聞こえてないのかって、最初は思った」
夜の記憶が残っているのは、クゼがその時を選んで会いに行っていたからなのか。
……どうしてそうしなければならないと思ったのだろう。
他の誰かがいてはならない、神聖な光景のように思っていた。
月光。風に揺れる木々の囀り。
世界が静まり返ったその時だけに聞こえる、小さな歌。
美しくて、詞術の及ばぬ彼方を垣間見るような、恐怖と神秘。
「何がいたと思う……って、答えが返ってきたらびっくりだよな?」
向かいの座席の者に向かって、クゼは笑った。
「天使だ」
純白の髪。純白の衣服。純白の翼。
彼女に体重はなかった。花びらの一枚の上ですら踊ることができた。
動き始めた世界の歯車に取り残されてしまったかのように――彼女の目は何も見えていなくて、彼女の耳は何も聞こえてはいなかった。それはもはや与えられた権能を振るう意味も持たず、消えゆくまでそこにあるだけの、創世の残像にすぎなかった。
「……俺以外の誰にも見えないけれど、天使なんだ。どうして俺だけなのか、俺を選んだのか、分からなかった。俺は……」
汽車は穏やかに揺れ続けている。
赤い光が、町並みを逆光に染めている。
「………。まるで、ふへへ……休みの日みたいだな……」
クゼは脈絡なくそう思った。
この相手に対しては、そもそも取り留めのない話でもあった。
遠くにガスの灯りが灯り始めていた。笑顔で手を繋いで歩く親子の姿があった。どこかで祭りが始まったようで、花火の赤い光が空を照らした。
夕の空は、少しずつ藍色に染まっていく。
「……こうやって、平和で……何も不自由なこともなくて。明日のこととか、他の場所とか……考えなかったらさ。まるで世の中が上手く回ってて……幸せなものみたいに見えてさ……いや。あんたは、そういうこと考えたりはしないか……」
六合上覧まで大一ヶ月と迫っているこの日にも、彼は毎日と同じ労働に勤しみ、同じ汽車を使い、同じ家へと帰っていく。
黄都の大鬼にできるのは、極めて過酷な採掘の仕事のみなのだと聞いていた。それを毎日、休むことなく続けているのだと知った。
彼が出場者であるのなら――勇者を名乗るのなら、そのようなことをする義務など、どこにもないはずなのに。
「なんでかな。不言のウハク」
ただ静かに自分を見つめ返す大鬼に、彼は届かぬ疑問を投げた。
「ナスティークが……あんたに、近づかないんだよ。あんたの近くにいるとさ……天使の姿が見えなくなる時がある……」
「……」
ウハクは、一つの書物を伏せてクゼへと手渡す。“教団”の教義書。
手で装丁された書物は、学と技術が要される、とても高価なものだった。
彼がそのような反応を見せたのは、何度か出会った中で初めての出来事であった。
「……あんたが聞こえてないことは分かってるさ。っていうか……そうでもなきゃ、ここまでベラベラ喋ったりしない」
「…………」
「でも、分かったのか。俺にこれが必要だって? 信仰とか罪とか……ふへへ、難しいもんだよな。まったくさ……」
クゼは受け取らなかった。彼には間に合っている。
今更“教団”の教えを守ったとて、ただの笑い話にしかならない。
――憎んではいけません。傷つけてはいけません。殺めてはいけません。あなたが、あなたの家族に対してそうであるように。
「……なあウハク」
太陽は落ちていく。夜の帳が下りて、星のようなガスの輝きが地上に灯る。
いつかの湖で見たような静かな夜ではない。
いずれ文明の光が地上を覆って、その引き換えに、空の光を消灯していく。
「俺は天使を見つけないほうが良かったのかな」
他の誰にも見えない天使は、クゼを見つけた。それからというもの、彼はナスティークの歌を聞いたことがない。
彼女は、クゼを殺すものを殺した。クゼが殺すべきと信じたものは、そうでなくとも死んだ。いつも、クゼの代わりに白い天使が手を汚した。
いつか見た尊く美しい神秘に、そのようなことをさせたくはなかった。
詞術の世界を否定するウハクであれば、もしかしたら。
「……」
電車が止まる。ウハクの降りる駅は、旧市街の物寂しい一角である。
……親しいわけでもない。ただ、いつもの汽車の中で顔をよく合わせる相手だとしか、ウハクは認識していないのだろう。
扉を窮屈そうに潜る後ろ姿へと、クゼは声をかける。
「ウハク。悪いな」
降り立ったその機と同時に、襤褸を纏った物乞いがウハクへと斬り掛かっていた。
完全な不意を突いたはずだが、ウハクは当然の摂理であるかのようにその手首を掴んで、止めた。
ただの大鬼ではあったが、それでもウハクは強かった。
掴まれた物乞いの両手首が落ちた。腰が脱落して崩れた。
汽車が再び動き出すまでの間に、それは形を失って、小さな骨の山になった。
――骸魔。協力者より与えられた兵の一つだった。
景色と共に後方へと流れていく全ての経緯を、クゼは窓越しに見ていた。
「……ふー」
客車には、もはやただ一人、クゼしかいない。
……遠くの客席の背もたれに裸足で立つ一人もいる。けれどそれはただの天使で、他の誰にも認識できない。
鞄の内に持たされたラヂオを結線して、クゼは通話を始めた。
「さーて、俺は誰でしょう……ってちょっ、待、切るな。通り禍のクゼだ」
クライアントは徹底している。クゼのような迂闊な男を、完全に信用しているわけでもないのだろう。
しかしそれはクゼも同じだ。
「あんたらの予測の通りだった。裂震のベルカを崩して殺しただけじゃない。骸魔だろうと、奴がそう思うだけで死ぬ。そうだ。あんたらのとこの、傭兵のやつだ。影響範囲はさすがに分からずじまいだけどさ……ここまで見てきた限りだと、一通り見える範囲は行けるんじゃない?」
もしもウハクが力を及ぼしたとしたら、彼に憑く白い天使も消えたのだろうか。
それはある意味で救われる結末なのかもしれなかった。
クゼはそうするつもりはない。
「だから――ああ、そういうことさ。奴は鬼札になる。竜だろうが、巨人だろうが、天使だろうが、一睨みで殺せる。この世界の連中が、当たり前だと思ってる前提をぶっ壊せる。奴を裏で動かすことができれば、決して負けはない」
六合上覧まで大一ヶ月。
クゼもまた……他の出場者と比べて弱いからこそ、例外ではない。
勝つために全ての可能性を検討して、その下準備をしてきた。
「……ああ、勿論そうだ。そこはお互い得になる話だろ? あんたらは黄都の社会を変える。結構じゃないか。俺も……俺たち“教団”も、この社会が変わらない限り、もう未来はないんだ」
幸せに暮らしている。何も知らぬ市民は今日もこの暖かな灯りの下で眠っている。
……それを尊く思う。詞神の教えのとおりに、彼らを傷つけたくないと思う。
それでも。
「そうかもしれないな。奴は鬼族だ。詞術で誰かと交渉したり、友好関係だって築けないんだ。そいつは俺が保証する。だから……奴を負かして使うって話なら、そういうことだろ? 代わりの擁立者はどこにもいない。俺の仕事さ」
戦わなければならない。どれだけ手を汚しても、そうでなければ救われない。
この日常の光景と……彼の守るべき者たちの未来とは、両立しない。
「試合直前だ。憂いの風のノーフェルトを、俺が殺せばいい」
そして歴史上、暗殺者の背後には――
「……ああ。そうだな。“千一匹目”によろしく言っておいてくれ」
それを命ずる者が、必ず存在している。




