第二試合 その3
「じょ、冗談……だろ……!」
遠く離れた台地の上で、ヒドウは色を失って喘いだ。
冬のルクノカが放った竜の息を目の当たりにした。それはありとあらゆる想像を絶する、終焉そのものの具現である。
遥か彼方の光景であるはずだったが、決して遠くはなかった。仮にその影響範囲が、あと60度西方に逸れていたなら。仮にアルスとルクノカが衝突したあの地点が、それより半分も近かったとしたら。
これまで訪れたどんな雪原よりも肌を刺す極寒の風が、ヒドウを恐怖させていた。氷の息が薙ぎ払った地点は、あれほど離れている。ここはまだ、元のマリ荒野であるはずだ。しかし気候が、もはやそうではないのだ。
恐らくは……これから先も、ずっと。
(奴は――ハルゲントはこのことを知っていたのか?)
そうであるはずがない。仮にイガニア氷湖でこの一撃を目撃していたのならば、黄都に生きて帰ってこれたはずがなかった。いくら羽毟りのハルゲントといえども、それを知って冬のルクノカをここに出すほど、愚かな男だと思いたくはなかった。
すぐさま最低限の荷を背負い、後ろに控える兵へと叫ぶ。
「車だ!」
「はっ……!?」
「聞こえなかったか? 蒸気は沸いてるよな。車を出せ。キャラバンに向かうぞ」
ヒドウは、別の方角に見えるキャラバンを見やった。虫の群れじみた市民。
きっと驚くべき光景に、今の時代を生きる者が初めて見る強大な存在に、熱狂しているのだろう。度し難い無能どもだ。
「しかし、キャラバンの方角ですか?」
「他に何がある。“冬”の息がこっちに向いたら、全員死ぬぞ! 俺もあの連中も、奴の気まぐれ次第だ! 全員逃がすしかないだろうが! さっさとしろ!」
「離れれば、結果の証人が第六将だけになりますよ!? それではヒドウ様が」
「――さっさと。しろ」
兵の胸ぐらを掴んで、ヒドウは威圧した。
頭の巡りが悪い。危機感がない。誰も彼もがそうだ。それが許せない。
歯軋りをしながら、第二十卿は背後の戦場を見た。
(なんで、俺がこんなことを考えなきゃならない)
……ヒドウは、ハルゲントのような男とは違う。自らの選択に伴う、結果と利益を考えることができた。その一時はそうだったのだとしても……断じて、ただの意地や憎悪のみでルクノカとの戦闘を了承したわけではない。
伝説殺しの英雄であるアルスと、英雄殺しの伝説であるルクノカ。この六合上覧の参加者の中で、彼らを打ち倒す可能性が僅かでもあった者は、それぞれの互いしかいなかった。
本来は人の手の届かぬ、勝ち目のない存在だ。人間が二つの邪竜を討伐するためには、両者を殺し合わせ、生き残った者を疲弊させる必要があった。
故にヒドウは、一回戦において本来行う予定であったアルスへの妨害策を、完全に温存して臨むことができた。
今の彼は、所有する全ての装備を扱うことができる。飛行にも制約はなく、毒を盛られてもいない。
最強の竜と対峙するためには、全力でなければならないからだ。
それはヒドウの意地などとは一切関係のない、合理的な判断にすぎない。
(……ここでは勝てよ、アルス)
蒸気自動車の座席へと身を滑り込ませ、備え付けのラヂオに向かって声を発する。
女性の連絡員が出た。彼らの作戦についても知っている相手だ。
「鎹のヒドウだ。ロスクレイに代われ!」
〈ロスクレイ様ですか? 今しばらくお待ちいただくことになりますが――〉
「ならいい。伝言だ。お前が伝えろ。『ルクノカは想定以上に強い。ルクノカが勝ち抜いた場合、“例の流れ”は使えない』。いいか? 俺が通信できるのはこれで最後かもしれないからな」
〈えっ……ではヒドウ様は? その……〉
「伝言は理解したよな? しっかり言えよ。ロスクレイなら考えてくれる」
地平線に、白い巨竜の影が動いている。
まるで水槽を通して見るかのように、その光景は屈折している。
――気温差だ。それをヒドウは理解できる。あまりに急激な冷気の勾配で、光すらもが速度を変える。
異世界。そこは人が生きて立ち入ることのできぬ、彼岸の彼方だ。冷え切った地獄が切り抜かれて、その一帯へと現出したかのような。
「……死ねるかよ……!」
誰に言うでもなく、そのように言い聞かせる。
観客を全員避難させる。この災厄への今後の策を考える。六合上覧を無事に終わらせる。まだ仕事は山積みにある。そんなくだらない仕事に埋もれて、このまま死にたくはない。
「まだ、死ねるか……!」
蒸気とともに、車が発つ。
――――――――――――――――――――――――――――――
第六将、静寂なるハルゲントは毛布の中で膝を抱えて、同じ光景を見ていた。
晴れ渡った白昼の荒野は、今や冬に閉ざされていた。“彼方”にあるという、世界が死に絶える時。そして四季なきこの地平に、春が訪れることもない。冬が一度訪れたのならば、世界は永遠に死んだままだ。
この地点にまで伝播する冷気は、抗いようのない終わりの気配だ。
あのイガニア氷湖で感じたような、絶望と諦観の温度。
……それでもハルゲントは、瞬きをせずその彼方を見ている。
目は血走り、毛布の内で爛々と光っていた。彼一人だけが、それを信じていた。
「まだだ」
冬のルクノカは、真に最強の伝説であった。
戦いの機会すら失うほどの。油断と慢心に満ちて、なお有り余るほどの。
「……まだ、やっていない……! まだだ……! まだだ!」
ガチガチと歯を震わせながら、聞く者のいない言葉を呟き続けていた。
逃げようなどという考えが脳裏に浮かぶことすらなかった。
それは勇気のためではない。初めから、その選択肢を持っていなかった。
星馳せアルスが、その全霊を懸けて戦っているのだ。これがハルゲントが僅かに握りしめていた誇りと未来を全て注ぎ込んだ、ただ一度きりの勝負。
ロスクレイのような紛い物とは違う。この地平でただ一羽の、真実の、竜殺しの英雄。この第一回戦でアルスを打ち倒しさえすれば、もはや出場者の中に、冬のルクノカに勝てる者はいない。
「アルス」
白の竜は、再び地上へと無慈悲な息を浴びせた。
下方に向けたその攻撃は、先の一撃のように広域を壊滅させることはなかった。
ただ――大地の数十m半径が崩れて、深く陥没しただけだった。
冬のルクノカの竜の息は、物理的な衝撃力を一切持たない。
ただの極限の冷却だけで、そのような現象が起こるのだろう。
遥か数kmの地下までに至る僅かな空隙の尽くが、一瞬の冷却によって体積を失ったのだとすれば、まるで隕石の衝突痕の如き地形変動として現れ得るだろうか。
究極の低温の下では、物質は体積を持たない。凝縮し、粉砕し、ありとあらゆる構造が変わり果てる。遥かな巨視の世界でその現象が起こったその時に、どのような現実が現れるのか――“彼方”の知識を持つ者ですら、誰もその目で見たことはない。
「……アルス!」
破壊の渦中には、アルスがいたはずだった。
血が出るほどに唇を噛んで、ハルゲントは震えている。
果たしてどのような感情から来ているものなのか、あるいは彼自身理解できていないのかもしれない。
「ま、まだだ……まだだ……!」
――――――――――――――――――――――――――――――
――背後。これまでアルスが貼り付いていた地面が崩れ去るのが見えた。
どのような現象が起こっているのか、アルスははっきりと理解しているわけではない。死者の巨盾で防御できる範疇を、遥かに越えていることだけは分かった。
「……ヒツェド・イリスの火筒が……」
その破壊を見た後ですら……凍りついて千切れた右の趾の一本よりも、失われた魔具の一つに、アルスは歯噛みした。
それは火薬すら装填されていないただの鉄筒であったが、超低温の地面に貼り付けられたアルスを、死滅の圏外へと射出して余りある威力を持った、超常の道具である。竜鱗の剥がれた間隙を狙う限りは、燻べのヴィケオンの脇腹を長槍で貫くことすらできた。
尋常ならぬ破壊力を持つ魔砲をも、攻撃ではなく、緊急脱出に用いる他なかった。
「…………」
ルクノカがアルスの方向を見つけ出さぬ間に、愛用の銃の動作を確認する。
それは世に無数存在する量産品の内より選びぬいた最高の精度。鳥竜の専用に改造を加えた、彼が最も信を置く武器であったが。
アルスが考えた通りに、火薬が冷え切っている。燧石どころか、熱術を用いても引火点に達しないだろう。少なくとも、この戦いの間は。
残された武器を見る。樹の魔弾。毒の魔弾。雷轟の魔弾。全てが不可能。
黒竜の腕すら断ち切ったキヲの手。腹を穿ち抜いたヒツェド・イリスの火筒。
世界の終局の形は、命持たぬ道具までをも殺した。
彼はその重量を捨て置いて征くべきかを迷い、逡巡の後に、荷袋の内へと戻した。
「……冬のルクノカ……どんな宝を……持ってるかな……」
三種の武器がこうして失われた以上、狙うべき一手はむしろ明白となった。
刹那の一撃で終わり、竜鱗の防御すら無意味となる唯一の攻撃手段。
ヒレンジンゲンの光の魔剣で切断する他ない。
傷ついた脚で地を蹴り、鳥竜は再び飛び立つ。
ルクノカの息に凍りついていない地であれば、まだ飛ぶことができる。空にある限りは、右の跛足も不利にはならない。
明白な事実がある。近づかねば負ける。
見える全世界を薙ぎ払う最強の息は、離れていれば離れているほど、逃れることはできない。死者の巨盾で息そのものを防いだとしても、残る超低温の世界は生存を許さない。先のように真空の巻き込みによって致命的な一撃を受けることになるのだとしても、全ての力を尽くして死角を取り続けるしかない。
「これで終わりではないでしょう? ねえ、星馳せアルス? ――ああ、嬉しいわ。とても、とても、とても。貴方の全てが、嬉しくてたまらない……!」
全速力で距離を詰めていく。
白竜は顔を向けてはいないが、南東方向より迫るアルスには気付いている。
凍術の息が来る。
瞬く星の軌道で鳥竜は曲がった。
命を燃やす最大の速度でなければならなかった。ルクノカの目が追うよりも速く。
だが。
「【コウトの風へ】」
――だが、ルクノカはそれを正面に捉えている。
先の応酬で、アルスはこれまで戦ったあらゆる伝説の上位にルクノカを位置づけていた。息の破壊規模のみではない。単純な身体性能のみでも、彼女は他との比較が烏滸がましい程に、圧倒的に過ぎた。
何故、彼女が自らの息によって生んだ冷気の余波の中で活動を続けられるのか。
真空へと流れ込む烈風の渦を正面に迎えて、身動ぎ一つしないのか。
彼女の体はそれに耐えられるからだ。
自らが放った竜の息の影響余波を生存できる生命体は、竜しかあり得ない。
ただ一人、例外たる森人の少女を除いては――詞神は決して、術者の身に過ぎたる詞術を与えはしない。
地上最強の個体の身体性能は、視界を高速で過ぎる影をも、追うことができた。
「【果ての光に枯れ落ちよ――】」
終焉が走る。光景は白に壊滅する。
それで終わってしまうのだとしても、ルクノカはそうする。
ただ一度、何も遠慮のない全力で戦えたならば、彼女はそれでよかった。
それが如何に脆弱な鳥竜であろうと――そこに一切の容赦を加えずに戦うことができたという時点で、星馳せアルスは、彼女にとってかけがえのない存在であった。
大地が再び裂けた。雲すら霧消した。
風に作用する彼女の詞術は、ただその余波だけで、地殻の大深度までを永劫の凍土へと変えた。
冷気を浴びた影は、他のありとあらゆる英雄と同様に、呆気なく消えた。
「ウッフフフフフ……! ウッフフフフ! ああ……こんな戦いは、百年ぶり。もっと前だったかしら――しばらくはこんな楽しみも、ないのでしょうね」
またいずれ、彼女に手加減をさせない英雄が現れるのだろう。
その出会いだけを期待して、あの氷湖で再び孤独に待つのだろう。
遅れて、息に生まれた真空が、周囲の大気を呑み込みはじめた。
全ては一瞬の出来事だ。
――そして、それを知る者ならば。
「…………」
一度その身に受けて知る者ならば、激流の加速に合わせることができた。
横合いの死角から、飛来していた。
腐土太陽、という魔具が存在する。
それは土塊で形作られた球体であり、無限に湧く泥にて形成された、刃や弾丸を射出することができた。例えばその泥は……翼を畳んで滑空する鳥竜に、形状を近づけることもできた。
極限の高速機動の中、彼は飛行慣性で身代わりを後方に置き去りにして、自らを追う最強の竜の視線を、追尾の途中で停止せしめた。
いかなる動体視力を持とうと、いかなる反応速度を持とうと、星馳せアルスの限界の速度を追う中で、その刹那のうちに小さな影の真贋を判別することは、どのような伝説にも不可能であった。
「ヒレンジンゲンの」
細く、小さく、彼は呟き終わっている。必ず自慢することにしている。
それは刹那の一撃で終わり、竜鱗の防御すら無意味となる唯一の攻撃手段。
真空の速度と、彼自身の速度を乗算したそれは――
「光の魔」
巨大な何かが衝突した。
グジュリ、と音を立てて、アルスの世界は溶けた。
「……ああ!」
冬のルクノカは、遅れて気付く。
むしろ絶望で叫んだ。
「そんな……! まだ、生きていたなんて! ああ、なんてこと……!」
光の刃が深く食い込み、その長大な尾の先端は骨までを切断されていた。
それはたった今、アルスを質量で叩き落とした尾であった。
「……私、本当に気付いていなかったわ! ひどい失敗……! せっかく、貴方が生きていてくれたのに! 知っていたならもっと、たくさん楽しめていたのに!」
――それは攻撃ではなかった。
ただ単に、最強の白竜が飛行する方向を変えただけのことだった。
その姿勢の変化で振り回された尾が、不運にもアルスの突撃軌道と一致していただけのことだった。
その一瞬、歴史上の英雄の誰をも上回った必殺の特攻は、ただの不運で潰えた。
彼女は最強すぎた。ただ身動ぎするだけで、生命を殺戮するには過剰すぎた。
楽しもうと思わなければ、楽しめなかった。
「ごめんなさい、星馳せアルス! ごめんなさい……! もっと遊びましょう! ねえ、星馳せアルス……!」
戦いすらをも許されぬ、それは一つの荒涼の光景である。




