世界詞のキア その1
留め帯を解くと、霧に湿った重いローブは滑らかな肌を滑って落ちた。この浴場の簡素な脱衣所にも姿見があって、それは彼女の染み一つない裸体を映す。
黄都第十七卿、赤い紙箋のエレアは、この豊かな胸と美貌を、彼女の持つ何にも勝る武器であると考えている。
それは男達の言うような下品な揶揄や皮肉ではなく、まして卑下や自惚れでもない、客観的な事実だ。エレアの美貌を誰よりも利用してきたのは他ならぬ彼女自身であって、どこにも恥ずべきことはない。
(……大婆ちゃんは言っていたっけ。美は生まれるときに天使様が分け与えてくださったものなのだから、その天の才能で、人を幸せにしなければならない)
入念に睫を整えながら、エレアは取り留めのない思索を巡らせている。
小六ヶ月前にこの村に来てから、若さや、美しさについて考える頻度が高くなっている自覚がある。
(――私の考えは違う)
美は、天使の与えた不変の恩寵などではない。それはあくまで人の生や老いに根ざしていて、移ろいゆくものだ。
たとえ顔貌に恵まれて生まれついたものであっても、ひどい疱瘡に冒されれば、その美しさは見る影もなくなってしまうだろう。争いに巻き込まれ、刀傷を受けて損なうこともあるだろう。
また、それらの全てを避ける幸運に与ることができたとして、何よりも自身が自身の美貌に無頓着である限りは、剪定を放棄された王城の中庭のように、生来の美しさは荒れ果て、粗野なものになっていくだろう。
これは、母から厳しく躾けられたことであった。街路に立つ娼婦のけばけばしい美しさと、貴族の姫の清らかな美しさを隔てているのは、何よりもその点なのだと。そして私達は、もう貴族なのだから、と。
美は生まれの才能と、努力が揃ってこそ顕れる。常に細心の注意を払って、整え続けなければならないものだ。
長い時をかけて身の繕いを終え、浴場に繋がる木扉を開ける。エレアは湯気の向こうに、見知った影を認めた。
「ヤウィカさん?」
「――先生!」
少女が勢いよく立ち上がった弾みで、湯の飛沫が跳ねた。
今のエレアは眼鏡を外していたが、それでもこのヤウィカは、湯気越しにも判別できた。他の森人の少女とは異なり、肌が褐色なのだ。
幼さを残す顔立ちだが、事実幼い。長命種の森人にあって、彼女は恐らく、まだ十か十一だ。
「やたーっ! ね! ね! もう黄都に帰ったと思ってたの! ミオキもエイも寂しがってて先生のハダカすっごくきれい!」
「そ……そう。ありがとう? 授業は終わりましたけど、明日まではまだ、この村にいますから。最後にもう一度、ここのお風呂をと思って」
「ん! ――キアも、明日までいる?」
「もちろん。発つときには皆にもきちんと挨拶するように、先生からも言っておきますからね」
嬉しそうにすり寄るヤウィカの肌のきめ細かさは、近くで見ても、まるで人間とは別の材質で造られているかのようだ。しかも彼女らは百年、衰えを知らぬ。
この村の誰もが――赤子から親まで、森人たちは、何一つとして努力することなく、当然の権利のように、天使の与える美貌を行使している。
「ね、先生! 授業して! わたしだけ続き!」
体を流し終えて一緒の湯船に漬かると、ヤウィカは紅玉のような赤紫の目を輝かせて、身を乗り出してくる。
森人の村にも、人間と同じく様々な個性を持った者達がいたが、教師という立場でこの村にいたエレアにとっては、やはり学習の意欲に溢れたヤウィカのような子供のほうが可愛かった。
「しょうがないですね、もう。……じゃあ、ヤウィカさんがのぼせないように、本当に短い授業。詞術の系統だけ」
「やたっ!」
微笑みを向けて、エレアはいくつかの手桶に水を汲む。
もしかしたら貴族などではなく、本当に教師であるほうが彼女本来の性に合っていたのかもしれない。選び直せぬ道だ。
「詞術には、大きく四つの系統があります。森人はそういった区別をあまりつけませんけれど、中央の……人間の学問では、そうではないんですよ」
「ん! ネツジュツと、コウジュツと――えと、なんだっけ」
「あっ、すごい。よく二つも言えましたね? 本で勉強したんですか?」
「えへ……! と、隣のムヤ兄に聞いたの、でもほんとは三つ知ってたんだけど、えっとね……」
「熱術。力術。工術。生術。この四つですね」
「あ! セイジュツ! 思い出した!」
「えらいえらい」
長い銀の髪を撫でてやると、ヤウィカは、もじもじと嬉しそうに体をよじった。
もちろん厳密に言うなら、この四系統だけでこの世を構成する詞術の全てを説明できるわけではない――例えば機魔や骸魔に自律した意思と生命を与える術。あるいは記憶や意識を操作する術などは、これらのどれにも当てはまらない、“魔の術”とされる。
「熱術は、分かりますよね。ヤウィカさんのお母さんがいつも台所で使っている、あれです」
「わたし、もう使えるよ!」
「おおっ。じゃあ次に来たときは、ヤウィカさんの料理をご馳走してもらいましょうか?」
「やたーっ! まっかせて!」
片手でヤウィカを構いつつも、エレアは汲んでおいた手桶の水の一つに指を浸す。
「【エレアよりイータの水へ。羽持たぬ虫。膨れた葉。柔らかなる背骨。飛べ】」
「わぷっ!?」
手桶の中の水面が弾けた。湯の飛沫は勢い良く散って、ヤウィカの顔をびしょ濡れにしている。
「ああっ……! ごめんなさい。私、力術は少し下手で……」
「んーん! ぜんぜん平気! 今のがそうなんだよね?」
「ものを動かしたり、飛ばしたり。そういう術ですね。たとえば、そうですね……。大人たちが、射った矢を曲げたりするのを見たことは?」
「ある! かも!」
「そういうこともできます。自分に使えるようになれば、ほんの瞬きの間だけですが、空を飛べる人だっていますよ」
人間の物理学に当てはめるならば、熱術はスカラー、力術はベクトルの操作術と言えるだろう。
熱術は、炎、雷、光といった、その地点にあるエネルギーを作り出す。
対して力術は、既にある物質やエネルギーに自在の運動量を与える術となる。
まだ幼いヤウィカには難しい概念だろうが、無論その二つの術を複合すれば、それは飛来する火球、狙い定める雷撃にもなり得る。
「じゃあじゃあ、コウジュツっていうのは?」
「先にそっちにしましょうか? それじゃあ……見ててくださいね? 頑張って、ちょっと面白いことをしますから……【エレアよりイータの水へ。十二の骨。海底の大地。終止の灰。留まれ】」
このイータ樹海道を訪れてから、小六ヶ月にもなる。詞術は言葉による意思の疎通である以上、自身が心通わせた土地や器物、生物にしか作用し得ないものだが、小六ヶ月も滞在した土地の水くらいにならば、それなりに複雑な工程を命じることも可能ではある。例えばこのように。
エレアは、手桶の湯を掴んで取り出してみせた。それは彼女の手に握られた形のまま、固体である。
「えっ……えっ、氷!」
「ふふ。本当にそうですかー?」
「わっ、あったかい、氷じゃない! なんで!?」
「工術は、形を変える術です。村にも、弓を作ったり、食器を作ったりする人がいるでしょう? 木の枝を曲げて弓にできるように、頑張ればお湯にだって、こんな風に形を与えることができます」
「すごーい!」
実際のところ、流体を固体であるかのように留め続けるのは、それなりに高度な詞術である。系統に適性を持つ者でなければ困難だろう。
もちろんこれは遊びの術で、大抵の場合は、特定の、馴染んだ土地の材質を、予め定めた形状へと作り変えるために用いる。人間以外の種族は重く見ない系統であろうが、器物の生産に欠かすことのできない、文明を支える術だ。
「生術は、簡単に言えば、お医者さんの術ですね。ヤウィカさんにも、怪我や風邪を治してくれる人はいますよね」
「ミッチ婆がやってくれる! でも最近はわたしずっと元気で、怪我とかしないんだから!」
「ええ。けれどミッチ婆さんがどんなに凄くたって、私の怪我を治したりは、できません。どうしてだか分かりますか?」
「んと……」
「長い時間をかけてその人に向き合っていないと、詞術で直接治るように伝える言葉が、分からないからです。それは、風や水、木々や鉄だって同じ。もちろん、先生も、ヤウィカさんもです」
「わたしと先生でもだめ?」
「だめです。でも、水は生き物と違って素直ですから。生術でできることを、もう一つ教えますね」
エレアは先と同様に詠唱を呟き、今度は手桶に浸した人差し指を、ヤウィカの小さな口に含ませてみせた。
「! あまい!」
「そう。生術は、工術のように物の形を変えるのではなくて、物の性質を変える術なんです。怪我をした細胞を元気にして怪我を治したり、水をお酒に変えたりもできるんですよ」
「そうなんだ? ミッチ婆もできるのかな? ミッチ婆になんで怪我を治せるのって聞いたらね、なんとなーくできるって言ってた」
「森人は生術が得意ですから、そうなのかもしれませんね。先生も、本当は生術が一番得意なんですよ」
もっとも――エレアの場合のそれは治癒などではなく、毒物の生成なのだが。
生術に限らず、詞術の命令を直接作用できるほど対象を理解しているということは、その生殺与奪の権利を常に握っていることに等しい。もちろん社会的な信頼からして、医師へのそのような不安は通常意識されることもないが、主治医が「死ね」と命じたなら、患者を死なせることもできる。暗殺の恐怖に怯える者が生術を拒絶し技術医療に頼り、かえって寿命を縮めたというのはよく聞く話だ。
故にエレアは力の手段の一つとして、詞術を……特に生術を修めた。今、こうして子供たちに理論を教えることすらできるほどに。
貴族とはいえ、母方の元を正せば娼婦の家系の娘が、これほどの若年で黄都二十九官の限られた枠に名を連ねているのも、『不幸な中毒死』を遂げた第十七卿の後釜が、『偶然』彼女に回ってきたからだ。
血鬼や砂人、あるいは自然界の心持たぬ動物の多くと異なり、人間は、雄より雌の方が暴力に劣る種族だ。
それでも――自身が力を持たずとも、その姿で魅了すれば、力ある者を篭絡できる。その判断を惑わせ、容易に策略に嵌めることができる。全てを為し終えた後も、背徳の自意識がある者たちは、疑いの声を上げることすらできなくなる。
美貌によって取り入り、内より腐らせる。それが赤い紙箋のエレアの用いる力であった。
「――これで、授業はおしまいです。またこちらに立ち寄った時、必ず続きを教えましょうね」
「うん! ……あのね、先生!」
「はいはい、なんです……ひぁっ!?」
まったく突然に、ヤウィカが頭から胸に飛び込んできて、エレアは妙な悲鳴を上げてしまった。子供ならではの無遠慮さで乳房に顔を埋めながら、ヤウィカは言う。
「えへへー……先生、好き! 黄都に帰っても、大好きだよー!」
「……ええ。ええ。先生も、ヤウィカさんのことが大好きですよ」
「おっぱいも大きくてすごい!」
「そっ、それは関係ないでしょう!」
大月と小月の、二つの月が見える夜だった。エレアにとってのひと時の安らぎの、最後の夜。
その後もエレアはヤウィカと少しの間話をして、そして少しだけ、自分がここに来た理由に思いを馳せた。ヤウィカには決して言えない理由に。
帰りは一人だ。温泉の湧く浴場は村のほとんど端にあって、彼女の宿に戻るには、物寂しい林道を行かねばならない。
「人間って、こんなにお風呂が長いの?」
声は樹上から聞こえた。エレアにとっては、聞き慣れた少女の声だった。
「ヤウィカ、のぼせてたよ。あの子、まだ小さいんだから。あなたの長風呂に付き合わせないでくれる? 腹黒先生」
「――人のことを」
眼鏡越しに目を細めて、エレアは頭上の闇を見上げる。
それは奇怪な構造だった。
何本かの細い植物のつるが、一切の支えなく、土に垂直に直立している。その頂点は人が座れるよう編みこまれていて、金髪の小さな少女が座っていた。
「そんな風に呼んではいけませんよ、キアさん。こんなところで、何をしているんです?」
「こんなところじゃないでしょ。先生が出てからお風呂に入ろうと思ってたのに、長いんだもの」
「詞術を使って覗き見するのもいけませんね」
「ばっ……いきなりバカにしないで! やらしい! 高いところのほうが、虫とか来なくて、休めるだけなの!」
エレアは、キアを支えるつるを一瞥する。荷袋一つすら吊れぬか細い巻き髭は、垂直に引き伸ばされて、全てが整然とした構造を保っている。綿糸すらも鋼鉄の強度へと変えうる、生命を捻じ曲げる生術の極地。
地面に突き立ったそれらの構造物が、転倒の法則に反して少女を支え続けているのは、常時作用させている力術の、精妙なるコントロールの結果であろう。
「【先生の前まで、あたしを下ろして】」
キアが詞術を紡ぐと、つる植物は滑らかに曲がり、編みこまれた籠を地面へと下ろした。
確かに、このようなことができるのであれば、ただ木に登るよりも便利なのであろう――『便利だ』という程度の理由で、このような詞術の複雑指令を持続し続けられるのならば。
「【戻って】」
しかもその植物は、時を逆回しするかのようにして、キアの小さな掌の内へと全て折り畳まれ、収まった。
そこには一粒の、小指大の種だけが残る。
「【返すわ】。ありがとう」
彼女はその小さな種を、暗闇の頭上に放った。それは不可思議な軌道を描いて、樹木に巻きついた草へと飛んだ。一つだけ、時期はずれに実っていた果実へと種は吸い込まれて、実は花へと戻り、そして蕾の兆しすら消えて、ただの茂る葉に戻った。
「……キア。あなたの詞術は、あまり自分勝手で使ってはいけませんよ。あなたの力は」
「人を幸せにするための才能だから、って言うんでしょ。バッカみたい。いっつもおんなじことばっかり」
「それなら、言い方を変えてみると聞けるかしら? ……ほら。あなたの力は特別なんですから。普通と同じに使っては、つまらないでしょう?」
「ふん。楽しく暮らせてるなら、普通でいいじゃない」
詞術は、四つの系統に分類され、種族や個体による、得手不得手が存在する。
詞術は、その魂へと伝える言葉を紡ぐ、特別な詠唱が必要となる。
詞術は、作用させる器物、人物、そして土地を理解した上で、意思の疎通を行う技術である。
例外が存在する。ただ一人、キアだけが、そのどれでもない。
「……。あなたは、これから黄都に行くんですよ。他の人にどう見られるかを考えなさい」
「別にあたし、誰にどんな悪口を言われたって、ぜーんぜん気にしないわ!」
華奢な陶器細工のような、細い身体。柔らかに揺れる、白みを帯びた金の髪。少し吊り気味の、湖のように透き通った碧眼。
けれど、それはごく普通の容姿だ。誰もが美しい森人の中にあっては。
尋常の十四の森人の少女と見比べたとき、彼女の特異性を証明するものは、どこにも存在しない。
たとえば今、まるでただの子供と同じように、悪ぶった笑顔を浮かべたりもする。
「もしもあたしが『死ね』って言えば、そんな奴ら、みんな死んじゃうんだから!」
――例外が存在する。
彼女は天才の域すら超えた、魔才だ。