第二試合 その1
萎れた黄色い葉の、病んだ植物しか生えていない。
巨大なガス田であるマリ地孔の周辺に確認できる自然の生物は、その一種だけだ。
所々が稲妻のような深い亀裂に罅割れ、乾ききった岩盤で覆われた、不毛の大地。生命の活気に満ちる黄都の光は、この死の世界に支えられている。
そしてこの六合上覧の開催にあたり、人間の尺度を遥かに越えた怪物による対戦が起こり得るのであれば、この地の他に試合場の候補はないと判断されてもいた。
ガスの採掘施設は遥か先にあり、見渡す限りに人族の生活圏はない。もはや一つの災害じみたこの戦いの観戦を望む酔狂者が存在したとして――無論、その観戦料は議会の税収となるが――一切の障害物のないこの地形であれば、比較的安全を保った遠方より、試合の趨勢を眺めることもできた。
第一試合と第二試合の間には、特別に二日の猶予が設けられている。観客を満載したキャラバンがこのマリ荒野へと至るまで、一日近くの時を要する。
第一試合とは打って変わり、彼らはキャラバンの配給だけで前日の夜とその日の昼の食事を取り、まるで神話を見守るかのような厳粛とした畏怖に静まり返っていた。
そして、市民が双眼鏡や単眼鏡を覗いたならば……向かい合う二つの卓上台地の一方、まるで冷たい金属の如く日光を照り返す、白い影を認めることができるだろう。
それはおぞましきトロアと同様に、彼らの内の誰も生きて見たことのない存在ではあったが、それでも、その実在を認める他ない存在感を放っていた。
この六合上覧において最強の存在。竜。真なる伝説。冬のルクノカという。
その傍らに取るに足らぬ男の姿があることを、誰も気付きすらしない。
「……ずっと、逡巡していた」
黄都第六将、静寂なるハルゲントは、分厚い毛布に全身を包み、暗黒の亀裂に罅割れた大地を見下ろしていた。
冬のルクノカは恐るべき竜であれ、この世界の条理に生きる一個の生命だ。彼女自身が冷気を発し続けているわけではない。だが、それでも底冷えする記憶の錯覚と、未来に訪れる凛然たる風景への予感が、彼の体を震わせていた。
「もしも私が教えてしまえば、貴様とアルスは……対等の条件ではなくなるかもしれない。そのようにして勝つことに、意味があるのか……と。しかし、こうも考えられないだろうか。アルスは冬のルクノカの伝説を知ってはいても、ずっとイガニアにいた貴様は、アルスの伝説を知らない……」
「ハルゲント」
体躯に見合わぬ澄んだ声で、竜は穏やかに遮る。
「貴方は、とてもお話が長いのねえ」
「ぐ……! な、長くは……ない! どうしてグラスやエヌではなく、いつも私ばかりが……! 私の話はそんなに要領を得ないか!? こ、このままでは、貴様が不利だと言っているのだ!」
ルクノカは、長い翼の片方を折り曲げて、口元に当てた。
人間が笑いをこらえるかのような仕草であった。
さしもの黄都圏内にも、彼女が留まれるような場所は存在しない。よってルクノカが黄都入りしたのもつい前日のことだが、まるで新しい遊び場を見つけた少女のように、白い竜は浮ついている。
「ウッフフフ! 不利! 構いませんよ? 私は」
「……“死者の巨盾”という魔具がある」
ハルゲントは、苦々しく呟いた。
星馳せアルスの戦い方の一端を、彼は知っている。その思考や性格についてならば、恐らくこの世の他の誰よりも。
「条件は不明だが、奴はそれで息を避けることができた。ヴィケオンの黒煙の息を、そうして防いだのだ。だから、貴様の必滅の息は奴には通じん。考えて戦わねば、交差の一撃を当てられ、負けるということだ」
「通じますよ」
「な、なにを……」
「私の息は防げないということです」
「……しかし」
揺るがぬ自信に満ちた彼女の態度を見て、裏腹に不安が過ぎる。
――冬のルクノカの竜の息。
それは万物を凍結させ、風景ごとを滅殺する、恐らくは地上最大の破壊力を誇る詞術であろう。それでも彼女はハルゲントと同様に、まだ星馳せアルスの財宝の全貌を一切理解していない。
尋常とは正反対に熱量を奪掠する作用であるとはいえ、ルクノカの息もまた、あくまで熱術の一種であるはずである。
燻べのヴィケオンほどの存在を一方的に屠った星馳せアルスに対して、その慢心が通ずるというのか?
(……負ければ、私はおしまいだ。野望も栄光も、そこで尽きて終わる。だから決して負けることのない存在を連れてきた。冬のルクノカを。それは……何も間違っていないはずだ。だが……だが)
膝の上で固く組んだ両手が震えている。それは冷気の予感の震えでもあるが、別の理由を孕んでもいる。
この戦いで、一つの決着がついてしまう。ハルゲントの人生の決着が。
(アルスは強い。最強だ)
この世の誰よりも、それを信じている。だからこそ、彼と戦うことを決めたのだ。
二つの大地のちょうど中央に屹立する、背の高い土柱を見る。日の高さに合わせて、地面に伸びる影は縮まっていく。始まりの合図はそれだ。これほどの規模の戦いに、立会人を置くことはできない。
影が完全に隠れたその時、地上究極の竜種二名の戦闘が始まる――。
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黄都第二十卿、鎹のヒドウは、純粋に黄都のためだけにこの戦いに臨んでいる。
それは人格の善良さのためでも、女王や議会に対する忠誠心のためでもない。むしろ、ヒドウはこれまでの人生で他者のことなど本気で慮ったことはないし、自分自身を悪党の類であるとすら自認している。
ただ単純に、野心がなかった。だから黄都の問題を、とりあえず解決しているだけのことに過ぎない。
そんな彼が、誰よりも強い野心を持つ鳥竜――星馳せアルスと組むことになったのは、この世を満たして溢れる、運命の皮肉の一つであろうか。
「なあ、アルス」
足のすぐ下には奈落がある。……くだらない、とヒドウは考えている。
ルクノカとは逆側にあたる卓上台地の縁に、彼は腰掛けていた。
アルスの返答はいつも遅いので、会話の最初のうちは、こうしてヒドウが一方的に語るだけになる。
「こいつはただの見せ物だ」
「…………」
「とっくに分かってるだろ。バカな人族どもが、お前らの戦いを見て楽しむだけの祭りなんだよ。勇者だなんだってのは、おまけだ。バカらしくならないか?」
「…………なんで?」
ヒドウの地点からさらに切り立った崖上からは、細い影が見下ろしている。
――これは、単純な疑問としての『なんで?』だ。アルスの気分を害してはいない。声色だけでもそれが分かるようになる程度には、彼は時間をかけて、この鳥竜を注意深く観察していた。
別の方角へと目をやる。群れる市民。荒野の風景の中、吹き溜まりのゴミのように固まっている。
自分たちを百度滅ぼして余りある災厄を、物見遊山気分で見物に来ている。彼らの行動や人生の全ては、ヒドウには唾棄すべき愚劣さに見えた。
「あの連中は、自分が命を張るわけでもない。自分の問題を、自分で解決することもできない。……それどころか、自分の問題が本当は何なのかってことすら分かっていない。そんなバカどもの国が欲しいか? 俺は……俺なら、いやだね」
「……別に、同じだよ」
鳥竜は、淡々と答えた。何の感慨も乗っていない声だ。
「人族も……鳥竜も……みんな、同じじゃないか」
「お前や俺も、奴らと同じか?」
「……。おれは、おれの好きなやつと、そうじゃないやつがいるだけだよ……バカとか賢いとか、おれには……細かすぎて、分からないな……」
「少なくとも人間は、そういいもんじゃないぞ」
「……なんで?」
「分かってないんなら、いい。……それより、帰るならこれが最後のチャンスだぞ。黄都の軍だってお前の速さには追いつけねえよ。くだらないと思ったら……俺のことは気にしないで、帰れ」
ヒドウは、提案が無駄だと承知している。
アルスは自分のやりたいことをやる。それが損得で測れる物事でなくとも。
……そうでなければ、地平の全てを暴いた伝説になど、なれはしない。
「くだらなくなんてない」
「……そうかよ」
「…………ハルゲントとの勝負なんだ……」
それはいつもと変わらぬ、憂鬱そうな呟きだ。しかし声色だけでもそれが分かる。
そこには喜悦の感情がある。自らが認めた最大の好敵手。誰にも認められていない、無能な第六将と戦うことの喜び。
彼が見据えているのは冬のルクノカであって、冬のルクノカではない。
「――分からねえんだよ、本当」
ヒドウは空を見上げる。太陽は天頂に近かった。その時が迫っていた。
ただそれだけの理由で、神話の戦いが始まりつつある。
ヒドウ以外の世界は、それだけの理由で動いている。
「お前らは……全員、全然分からねえ」
土柱の影が隠れて、頭上で翼が風を撃った。竜が翔んだ。
六合上覧の第二試合が始まりを告げる。とても静かだった。
全試合の内で最大規模の戦闘となったそれは、同じく最強である者のどちらが勝者となったかを除いては、見る者の予想を、何一つ覆すことはなかった。
即ちその戦いは、日没すら待たぬ内に、この地を永遠に壊滅させるものであった。
最強という二文字の恐ろしさを、誰もが知る結末となる。
星馳せアルス、対、冬のルクノカ。




