星馳せアルス その2
鳥竜と竜の最大の差異は、前肢の有無である。
そも、翼に加えて両の腕すら備える竜の体構造が既に尋常の生物からの逸脱であるのだが、その点において鳥竜は、小型化とともに骨肉を軽量化し前肢を退化させることで、飛翔能力において正常の進化を取り戻した種であったと言っても良かろう。
そして、かつて“彼方”の大型爬虫類が鳥類にその姿を置き換えていった歴史をなぞるように、こちらの世界においても、種としての成功を遂げているのは鳥竜の方である。
最強の種は竜であるとしても、鳥竜達は彼らよりも遥かな距離を飛び、旺盛に捕食し、環境に適応して繁殖した。
――そして人間がそうであるように、隆盛した種には、必ず例外が生まれる。
その鳥竜には、生まれつき三本もの前肢が生えていた。
虫のそれのような、か弱く細い腕で、内の一本は三年の月日が経つまで神経が通ってすらいなかった。
逆行進化の皮肉であろうか。
祖先より分かれ二足歩行をはじめた人間と同様、彼は生まれながらに、物に触れ、操り、接触の刺激を思考することができた。
ゆえに飛翔と生存に不利でしかないその貧弱な器官を、彼は敢えて千切り捨てずにいた。
やがて腕は筋力を得て、物を掴み、運ぶようになった。
武器と道具に長く触れるうち、腕は技術を獲得した。
腕は、新たなる何かを欲した。
太陽の高い時期に、その鳥竜は生まれ育った海の断崖を飛び立つことになる。
腕によって肥大した彼の欲望は、もはや鳥竜の域に収まり得るものではなかった。その名の通りに鳥類に近づいた鳥竜の群れの中にあって、ただ一羽だけ知性の原点を持つ彼は、むしろ竜に近かったのであろう。
明日を生きる捕食欲でもなく、種を活かす繁殖欲でもない。
その腕に、まだ見ぬ物を掴み取りたい。自身がただの鳥竜ではないことを、自分自身に証明したい。ただ一羽が授かったこの力で、何か途方もない栄光を成し遂げたい。この翼で飛んでゆける全世界で、そうでありたい。そのような、漠然とした欲望であった。
群れすら持たぬ一羽の鳥竜は、その細い身の丈に合わぬ、全てを欲した。
いつしか小さな個体のその欲望は、一つの街の宝を得た。
一つの敵を打ち倒した。一つの迷宮を攻略した。一つの土地を征した。
そして一つの――
「星馳せアルス……これ以上の……、何を、欲する……!」
「…………」
――いまや一つの竜をすら、恐れさせていた。
「我が財宝の全てを、奪ったはずだ! 漲る誇りの全てを、もはや奪ったはずだ! これ以上を、何故奪う!」
「……なぜ……?」
岩峰に留まったまま、鳥竜は細い頸を傾げた。
理解できぬ、という様子であった。
「おれは、当然のことをしてるだけだよ……」
バツン。
恐るべき空気の破裂が、遅れて響いた。
唐突に撃ち込まれた豪速の矢を、アルスは僅かに身をそらすのみで回避している。
「――“星馳せ”ェッ!」
それは静寂なるハルゲントの屠竜弩砲、必殺の一射である。
連射不能の弩砲を彼は“燻べ”ではなく、その乱入者へと放った。
「き、貴様は……貴様は手を出すなッ!」
「……」
男の声に対して、ただ気怠げに頭を振って、鳥竜は飛んだ。
その三本の腕には、まるで人間の旅人の如き荷袋が吊られている。
そうでありながら、その飛翔速度は――。
「おのれ……おのれ、おのれ“星馳せ”……!」
ハルゲント同様の怨嗟と共に、ヴィケオンは空を見やった。消える。追えぬ。
熱殺の黒煙の息で、迎撃を試みようとしているようだった。
まさにその様が答えであった。
この黒竜は、人間と同じだったのだ。
この入り組んだ谷底で……空の強者より身を隠し、迎撃する他にないのだ。
同じように飛べば、彼に勝ち目がないことを思い知らされたから。
この空において、自分以上の生態系が存在することを刻み込まれていたから。
燻べのヴィケオンの心はもはや、自らの翼で空を飛ぶことすらできない。
「【ティリートの風へ。烟れる月を涸らせ――】」
第六感で視界の端に捉えた影へと、ヴィケオンは全力の息を浴びせかけた。
命中はしない。あまりにも速く、頭上へと回り込んでいる。
鳥竜はその飛翔の能力において、竜よりも進化した種である――。
「そんな、馬鹿な」
愕然とした声を上げたのは、ハルゲントである。
上空。星馳せアルスは、鳥竜としてあり得ない武器を構えていた。
鉄の銃身。木の銃床。僅かの一瞬だが、竜騎兵を束ねる彼が見間違えようはずもなかった。
“彼方”からの武器――マスケット銃。
紙一重に等しい攻防の隙間。ヴィケオンの意識の隙に、その弾丸は飛んだ。
「グッ……ウゥゥアアア!」
バチ、という音が響いた。遠い空中の銃声ではなく、巨竜の肉が……残る右眼が爆ぜる音であった。
一握りの竜騎兵しか扱いこなせぬ、最新至難の武器であるはずだった。
立体にして高速の攻防の中、僅か一点を正確に、眼球を防護する竜の瞬膜すらをも貫いて。
「…………。痛いでしょ、これ……。西の断崖……摩天樹塔のね……毒の魔弾……」
伝説の竜が苦悶の嘆きに悶える醜態を、ハルゲントは見てしまった。
空気を震わす叫びの中にあって、アルスは淡々と、静かに告げていく。
疑いなく、それは自らの収集物を誇っていた。
「根獣の毒を加工しててね……神経から先に、弾けるんだ……」
声を頼りに、ヴィケオンはさらに敵意を向けようとした。
飛翔で競ることはできぬ。両眼と左腕を奪われては、格闘もできぬ。
残された優位は、竜のみに可能な息の他にない。
「【ティリートの風へ】」
「【アルスよりニミの礫へ。花は蕾に。殻を分けて割け。滴る水。貫け】」
ざくり。
竜の右眼から、細い針が生えた。
撃ち込まれた弾頭が一瞬の内に変形して、ヴィケオンの脳を、更に深く穿ったのであった。
詞術は意思の速度による伝達であり、その詠唱は必ずしも指令の長さと複雑さに比例するわけではない。しかし、そうだとしても――
言葉による工術を、一呼吸の息よりも遥かに速く。
「…………駄目だよ、ヴィケオン……。それは、おれの撃った弾なんだから……」
「グウッ……ウッ、グウウウゥッゥゥゥゥ……!」
「おれの言うことを聞くに決まってる。あんたの腰に刺した槍だって、おれは同じ手で、やったよ……?」
――どの物品が詞術の焦点となるか、計り知ることもできない。
バツン。
再び、空気が金切る。
矢を放ったのは、やはりハルゲントであり、それが狙ったのも、同様にアルスの方であった。
敵わぬと知っていても、ハルゲントの自尊の心がそうせざるを得なかった。
「ふざけるな“星馳せ”……! 私の敵だ! どうして奪う! ……私の、私のような男の命を、助けているつもりかッ!」
「……ハルゲント。なんか……おかしなこと、きくね……」
鳥竜は、死痛に悶える竜を見下ろす。
災厄と恐れられ、人間の兵団が何百年をかけても討伐叶わなかった邪竜。
人間より細い体躯の、奇形である、若い一羽の鳥竜。
そして軍団を失い、ただ一人だけになった黄都第六将。
この場の生態系において誰が頂点であるのか、そして誰が死にゆくのか、それはもはや明らかであった。
頂点の者は、答えた。
「友達を助けるのなんて、あたりまえだろ……」
そうだ。
数百という鳥竜を討ち果たし続けた竜騎兵団長にとって、もっとも忌むべき名。
星馳せアルス。ハルゲントは、他の誰よりもその名を厭っていた。
そのようなことがあってはならないからだ。
「私は、貴様の友ではない……! 今、私は竜騎兵団長だッ! 鳥竜殺しの、羽毟りのハルゲントだ! き、貴様のような者など――過去にも未来にも、知ったことではないッ!」
黒い竜が死んでいく。
筋肉を震わせ、翼からは力が抜け、今、初めて本物の竜が死んでいく様をハルゲントは見ている。
まるで鳥竜の死と同じ、彼らと同様の生命のようであった。
「……そっか……。兵隊の王様に、なったんだね……。よかったじゃないか……」
アルスはその様子を、いつものように、ただ陰鬱に眺めているだけだ。
喜びも快楽も、その心の内のどこにも存在しないようにすら見える。
「そうだ……! 成り上がるために、貴様の同族も、何百と殺してやったぞ。この歳になっても、まだ栄光が欲しくて、こんな愚かな……愚かな、真似をしている……」
唇を震わせて、ハルゲントは告げた。
その矮小な欲望のために、これまでも何人もの部下が、市民が死んでいった。
誰もがハルゲントを恨んでいる。形振りを捨てた犠牲の上に積み上げてきた、分不相応な地位。
「……うん。だから、おれはハルゲントを尊敬してるんだよ……」
アルスは、地面に荷袋を置いた。
いくつかの武器がその内から覗いている。
「自慢することにしてるんだ……もしも、これから殺すやつでも……」
世界を巡って奪い、集めた武器。彼はもはや鳥竜ではなく、強欲のままに財宝を集める竜に近い。
「……中央山脈の棘沼の盾とか……カイディヘイで拾った鞭とか……弾だって、たくさんあるから……」
その伝説のいくつかを、ハルゲントは聞いていた。
権力闘争に醜く足掻き、何もかも思うとおりにならず、無様に権力にしがみついている間――
星馳せの鳥竜が宝を奪い集めていく、冒険の噂を聞いていた。
「……」
「……でも、ハルゲントには見せられないよ……」
越えられぬ壁の向こうにいる者は、ハルゲントが欲するものの全てを、当然のように得続けていた。
より多い財、より高い名声、より安定した生。
ハルゲントが欲したものは、それではない。彼はただ。
「だって、ハルゲントは凄いやつだ……。手の内をバラしちゃ、ハルゲントには先を越されちゃうからさ……」
ハルゲントの醜い欲望を肯定してくれる、ただ一人の、種族すら違う古き友。
何もかもが自分と違う、彼に勝ちたかった。
彼の前に立った時に惨めではない、自分自身に誇れるものが欲しかっただけだ。
「アルス、そうだ……私は、何も掴めていないんだ。この何十年、ずっと……無為に……」
「風の噂で聞いたよ、ハルゲント……。黄都で王城試合があるんだって……? 勇者を探してるんだろ……」
三王国が併合し、議会制による新たな政治体制が始まろうとしている。
民を統制するための偶像は、もはや王だけでは足りない。
“真の魔王”を倒して、どこかにいる勇者が――本物の英雄が、望まれている。
今は、多くの将がそのために動いている。勇者を担ぎ出した者は、新たに生まれる偶像の、巨大な後ろ盾を得ることを意味する。
たとえそれが、出自の怪しい勇者らしき者であっても。
「おれが出たっていい」
……ああ、まさしく彼ならば、その栄光を当然のように簒奪するだろう。
この鳥竜はただ一人で旅して、望む全てを彼だけの腕で掴んできたのだから。
難攻不落の迷宮をどれだけ制覇したのかを知っている。
不可思議にして希少な財宝の尽くを得たことを知っている。
誰も勝ち得ない敵であるほど、彼が打ち倒してきたことを知っている。
部下の大半を失い、屈辱に落ちたハルゲントであっても。その王城試合で、必ずや勝つであろう星馳せアルスを擁立できるのであれば。
「……あ」
アルスの平静な呟きで、ハルゲントは気付く。
しかし既に遅すぎた。
とうに死に体と思われた燻べのヴィケオンが、最後の生命の灯火であろうか。大口を開いていた。
詞術の詠唱とともに、高熱の黒煙が二人を諸共押し流さんとしている、今はまさにその時であった。
――だが息はハルゲントを避けた。
「まいったな……自慢しないって、言ったばかりなのに……」
円形の首飾りのような、ごく小さな装飾物である。
アルスの腕の一本が握るそれが、何もかもを殺滅する竜の息の軌道を分けた。
「……死者の巨盾」
「オッ、オオオ……ッ! “星馳せ”ェェ……!」
「……で、これが……」
フ、とアルスの姿が消えた。それが羽音すら立たぬ超高速の飛翔であると、この場に立つ者達は知っている。
影すら残さぬその突進に、眩い光がきらめいた。
ヂィアッ――と。何かが焼ける、恐ろしい音までもが続いた。
それは剣であっただろうか。
人ならぬ鳥竜に、僅か刹那の間に剣を抜き放つ技量があったとして。抜き放ったその剣に、10m以上に及ぶ光の刀身があったとして。その光の刀身が、燻べのヴィケオンを、竜鱗ごと両断するなどということがあり得るのだとすれば、そうであったのだろう。
「――ヒレンジンゲンの光の魔剣」
伝説の竜はもはや正中線から二つに別れて、峡谷の底に転がっていた。
凄いやつだ、とハルゲントは言いたかった。
かつて、海の見える町で出会ったときの彼は、三本目の腕を動かすことすらできていなかった。
その驚くべき研鑽と、それを為し得た意志の力を認めたかった。
けれど、それだけはできない。
この歳月を重ねて、誰もがハルゲントの悪名を囁いている今でも……
アルスの前で敗北を認めることだけは、したくなかった。
「……アルス」
「…………」
「お前も、知っての通りだ。私たちは……私だけではない、二十九人いる黄都二十九官の誰もが、勇者を探している。この世界で最強の者を、集めようとしている。その強さを誇るのならば、お前も名乗りを上げるがいい」
そこに続く言葉を、友はもう分かっているようであった。
「だが、私はお前を選ばない。他の何者かに選ばれるがいい。私は……決してお前の力で、栄光を掴むことはしない」
「……そっか」
鳥竜は細い体を夕陽に向けて、短く答えるのみである。
短いが、どこか誇らしげな声色であった。
「……その欲望が、おれには本当に眩しい……尊敬できるところなんだ……。ハルゲントは……いつか、おれよりずっと凄いやつになれるよ……」
本当に、そうだろうか。
この世の全てを制覇した鳥竜の英雄のように、なれるのだろうか。
全てを失ったとしても、まだ間に合うだろうか。
「……アルス!」
夕陽に向かって、その影は飛んだ。
次の何かを掴みに行くのであろう。新たる天地へと飛び立っていくのであろう。
――そしていつか勝利して、勇者となるのだろう。
「……」
ティリート峡の陽が沈んでいく。失われた全てのものを、闇の中へと隠していく。
アルスが別れの言葉を告げなかった意味を、ハルゲントは思った。
後悔はしていない。少なくとも、ここで彼を見送ったことを後悔することはないと確信できた。
……何故なら彼は、その悪の定義を信じている。
(それは自分を裏切ることだ)
それは異常の適性で以て、地上全種の武器を取り扱うことができる。
それはこの地平の全てよりかき集めた、無数の魔具を所有している。
それは既に、広い世界の遍く敵と戦いを知り尽くしている。
竜の息ですら追いすがれぬ、空中最速の生命体である。
冒険者。鳥竜。
星馳せアルス。