冬のルクノカ その2
「小さい頃、文字を習った。通いたくもない教会に通って……学んだのもまあ、簡単な教団文字だけだったが」
大地に僅かに残された草地を踏んで、その男は告げた。
人間の槍兵だった。名前を覚えている。天穹のユシド。
「打ち倒した敵の最後の言葉を刻むためだ。誰もが笑ったが、俺が正しかった」
腰に吊っていた羊皮の束を、彼は投げ捨てた。
この後に続く戦には不要の重量であったことだろう。
自らの前に立ち、なお怯えの見えぬその佇まいに、ルクノカは歓喜で笑った。
「ウッフフフ! その細槍で私の竜鱗を突き通せるとでも? まやかしの勝利に驕った、哀れな人間。かけ離れた天地の差を、赤子でさえ知るというのに」
「飾るな竜。いずれ、最後には別の言葉を吐くことになる」
凶暴な稲妻のように、槍が閃く。その光だけを残して、光景は霞み――。
まるで水面に映る月のように、風景の形は変わっている。
「……ある意味では、貴女と私は友だったのでしょう。冬のルクノカ」
切り立った断崖の上で、老いた森人が両腕を広げている。
この一人の森人が、どれだけの研鑽の果て辿り着いたかを、彼女は知っていた。
惨夢の境のエスウィルダ。忘れるはずもない。
「私が、同じ竜であったなら。そう考えたこともあります。それとも……いっそ人間だったなら。限られた命で、もっと懸命に詞術の道を突き詰められたのでしょうか。今となっては分かりません」
「……エスウィルダ。貴方では私に及ぶことはありません。今だけは、その救えぬ不遜を赦しましょう。生の徒労を知りたくなくば、杖を下ろすことです」
「いいえ、ルクノカ。貴女こそが私の夢だった。死と戦場しか知らぬこの哀れな森人の生の内、一つ灯った星だった。あるいは――私の中で、それだけが惨夢でなかった。始めましょう」
エスウィルダの声が詞術を唱える。眩い熱術の光が、いくつも星のように灯る。
ああ。なんと素晴らしい、人の鍛錬の到達点。
彼の生きた命の全てを思えば、人間の懸命さに劣ると、誰が嘲笑えるだろう。
彼の覚悟に応えるべきだ。ルクノカは息を吸い込み――。
「……貴様を物語の中の存在だとぬかす連中がいる」
風景は変わっている。鏡のような一面の銀世界の中、巨大な鋼鉄の構造体を背に、小人は笑った。
左の枷のアムグサという名の、武器商人だったか。
燃料を用いて雪原を走行する機械というものを、ルクノカはその時に初めて見た。
「酷い話だよな? だから思い知らせてやるのさ。貴様はこうして現実に生きている。そして、そいつらにも分かる現実の価値――つまりはこの俺の、現実のカネに変わることになる」
「……左の枷のアムグサ。愚かな試みはおやめなさい。この大一ヶ月、どれだけ探し続けましたか? 私と矛を交える余力が残っているとでも言うのですか?」
「クックックック。面白い婆さんだ。上品ぶるな。竜なんてもっと残酷でいい。そんな程度のもん、俺の兵器の残酷さと比べりゃ子供みたいなもんだ」
世界は進歩している。彼らはこのような機械仕掛けさえ作り出していた。
あるいは彼女がこれまで見たことのない、その力であれば。
アムグサの兵器を見る。火薬の機構でそれが開き、無数の火矢が――。
「見つけたぞ。冬のルクノカ。母さんも……爺ちゃんも、嘘つきじゃ……なかった。俺が見つけたんだ……」
「まあ、ひどい。ひどい怪我をしているわ。すぐに手当てをなさい。私が氷湖の入口へ帰しましょう」
獣の群生地を越えて現れた少年は、右腕が千切れたばかりだった。
傷口から滴る血を拭う一時すら惜しいと言わんばかり、熱を帯びて叫んだ。
不到の塚のララキという名だった。
「……違う! 俺は……逃げるためじゃない……俺はお前を倒しに来た……! 爺ちゃんも、曾祖父ちゃんも届かなかった……その、銀の首! 俺が、もらう!」
「なぜ分からないのですか? 無謀な試みです。その傷では白銀熊すら倒せはしませんよ。あなたに輝かしい命があるのなら……一時の熱狂でそれを捨てることのないよう、老骨の頼みを聞き届けてくれないかしら?」
「お前が……ッ、俺の命の何を知る! 父と母から継いだこの体に、願いに、足りぬものなどあるはずがない! 地上最強の誇りを……貴様が汚すな、冬のルクノカ!」
もはやルクノカは、その弱小の戦士を捨て置くこともできた。
事実、そうしようと思った。
彼にはそうした迷いはなかった。残る片腕のみで、白竜へ斬り掛かり――。
――――――――――――――――――――――――――――――
「お、おおおお―――ッ!」
雄叫びとともにラグレクスは飛び込み、しかし斬撃は再び宙を斬るだけに終わる。
絶大な自負の源であった剣技の数々は、伝説に何一つの有効打を与えていない。
「――あらあら。戯れすぎると疲れてしまうわ。一息を入れたらどうかしら?」
「戯れでは、ないッ!」
鉄鋲靴で氷を踏みしめ、振り向きざまに全力で薙ぐ。
ルクノカは僅かに前肢を下げて、それで間合いは届かなくなる。
「勝利も名誉も譲った上で、他に何の不満があるのかしら? 老いて頭が鈍くなったせいかしら――ウッフフ! とても分かりません」
ラグレクスは全力だ。それが、傍で見ているハルゲントにはよく分かる。
ルクノカの不意の爪撃に備えて気を張り、息に備えて視線を頭部から外すことなく、足と翼を狙い、動きを止めようとしている。
それがどれだけ滑稽な試みに見えようとも、分かる。
「うううううッ……ぐおおおッ!」
「……やめろ! やめろラグレクス君! 君に勝ち目などあるものか! 彼女の言う通りだ!」
自身がどれほどの無謀を為そうとしていたのかも、よく分かった。
竜と戦ったことのあるハルゲントには分かる。一度の息で二人ともが即死しているはずだった。
冬のルクノカはいつだって、そうすることができた。
そんな存在を、どうして矮小な人間如きの戦いに出すことができよう。
外の王国の盛衰も、もしかすると“本物の魔王”の恐怖すら、彼女にはどうでもいいことなのだ。
他者との比較も意味を成さぬ頂点の存在にとっては、その頂点の名誉のそのものすらも……このように容易く投げ捨てることのできる、がらくたに過ぎないのだ。
「わ、私が伝える……! 勝利だけで良いだろう! 恥も負い目もない、君こそが竜殺しの英雄だ! ラグレクス君!」
「……武官、殿は」
彼は深く息をつき、汗を拭った。
愚かな試みに生涯を捧げ、愚かな夢を抱いて、愚かに死んでいこうとする男。
ハルゲントはこの男のことを、まったく理解できない。
「武官殿は、納得できるのですか。俺の言葉は、ただの無謀な虚言でしたか!」
「……それは、その」
「――俺はこの剣で、竜を倒せると信じた。子供の頃から、いつも脳裏に思う敵は、本物の竜だった。ほんの四年前です。ロスクレイの伝説を聞いて……俺は、俺の思い続けてきたことが、無意味ではなかったと分かった」
違う。そんなものは存在しない。
そう叫びたかった。黄都二十九官の他の誰一人、知らせてはならない真実だ。
「人にどれだけ嘲笑われても。無謀と謗られても。人は……俺は、竜を倒していいのだと、教えてくれた」
――俺がロスクレイならば。
その言葉は本気だったのか。本気でそんなものになれると信じていたのか。
この地平に、他にどれだけの強者が犇めいていると思っているのか。
(……この男は、死ぬ)
少しでも彼女が本気になったのならば、爪の一撃で散るだろう。
全ての夢想が無駄であったと、その現実を初めて知って、ラグレクスは無為に死すだけで終わるだろう。
「フッハハハハハハ! ――武官殿。俺は嬉しかった! 武官殿の他に、俺の話を信ずる者はいなかった! 武官殿は確かに貧弱で、気難しく、弱音ばかりを吐きますがな! この戦の介添に武官殿が立ってくれたことは、何よりの喜びでしたぞ!」
当然の因果だ。愚行にはその愚行に相応しき報いが、あって然るべきだ。
「……ああ、なるほど。確かに私を殺せると示さねば、貴方の心が納まらないと。それは仕方のないことです。では」
冬のルクノカの爪が動く。
屠山崩流ラグレクスは、剣を構えている。その力を信じている。
ハルゲントの思考は、目まぐるしく巡った。自身の命の危機ですらない、ただの愚者の末路であろうに、そうなっていた。
参謀長ピケが死んだ。彼とは違って、有能な参謀だった。容易く竜に殺された。
名誉も勝敗も必要としない、真なる最強種。
百年も経つ。人を避けるように隠れて、彼女を討ち果たした者はどこにもいない。
最強の存在は、何故最強と呼ばれたのか。
最初の遭遇を、ハルゲントだけが見た。崖上から見下ろす、冷たい目――。
――そこまでだった。
思考の速度は間に合わず、あらゆる豪剣を凌駕する爪がラグレクスを直撃した。
残虐な破砕の音が響いた。
「ラグレ……!」
「……。あらあら?」
血が滴っている。堅牢なる大剣は半ばから砕け折れて、輝く破片が氷原に散乱していた。
受ける全てを切断する、地上で最強の斬撃。
「……その爪、受けたぞ。冬の……ルクノカ……!」
ラグレクスは立っていた。
剣を持つ腕は、その一撃で関節が砕けて、力なく垂れ下がっていた。
吹き飛んだ破片の一つが上腕を深く切り裂いて、夥しい血が流れていた。
それでも、彼は最強の一撃を耐えた。
――こう、斜めに流して逸らす技がありましてな。
「……冬のルクノカッ!」
彼とルクノカの間に立ちふさがるように、ハルゲントは飛び出していた。
脆弱で、老いて、兵の一人すら持たない。そのようなことしか思いつかぬ、無能な男だった。
「分かった……。今、分かった……貴様の、恐れることが」
「……。恐れること、ですか? 私に恐れがあるとでも?」
今、最強の竜を前にしている。
彼の人生の中で、今の光景を夢想したことすらあっただろうか。
不相応な、小さな力を求め続けてきた男は、ついに夢想を越える程に不相応な存在と相対していた。
紫色に冷えた唇の震えを、ハルゲントは止めようとした。できなかった。
「貴様は――失望しているのだな?」
「……」
白い竜は、変わらぬ静かな佇まいで、彼の言葉を聞いた。
「……そうだ。そうとしか思えぬ。この百年より前、貴様は戦っていたのだろう。多くの英雄が功名を求め、貴様に挑んでは散っていったのだろう」
とうに人の前から姿を消した存在が、何故今なお最強と呼ばれ続けているのか。
最強と呼ばれるためには、戦わねばならぬ。
強者とその力を競った時が、他の竜の如く闘争を愉しんだ時が、彼女にもきっとあった。
「だが、貴様は最強すぎた《・・・・・》。覚悟持つ者……有望なる者が、泡沫と同じように、貴様の前で消えていった。違うのか」
どれだけ輝かしい鍛錬の結実。あるいは、どれだけ気高い精神があれば、遥か天上の最強種へと挑めるだろう。
弱者である彼には、想像が及ばぬ。それらが自らに傷一つつけられず潰えていくことを見ることしかできぬ失望は、果たしていかほどであろう。
……最初にハルゲントの見た、冷たい目が。
あれが冬のルクノカの、きっと真実の心だったのだ。
「貴様の心中は、この光景と同じだ。終わらぬ吹雪が吹きすさんでいる……!」
「ウッフフフフフ! ……さあ。どうでしょうか」
白い巨竜は最初の出会いと同じように、首を傾げた。
そもそも推測が真実であると、彼自身すら確信できていない。
すぐさま叩き潰されても、何らおかしくない不遜の言葉だった。
……けれど、懸ける他になかった。
二十九官の他の誰も、そのような愚かな試みをしていない。
「――黄都には、いる」
「……?」
「貴様の求めた真の英雄が……今、黄都に集っている。知っているか。貴様の時代よりあった迷宮の内の十二が、既に一羽の鳥竜に踏破されていることを」
そうだ。ハルゲントは、その伝説の全てを知っている。
冬のルクノカを決して失望させぬ、本物の英雄の名を。
「民の尽くを恐れさせた魔剣士、おぞましきトロアを殺し……! ヒレンジンゲンの光の魔剣を奪った者の名を知っているか! その魔剣を以て……燻べのヴィケオンを、このハルゲントの眼前で殺した者が……! 今のこの時代に、実在するのだ! 冬のルクノカ!」
最強の白竜は、動きを止めて矮小な第六将を覗き込んでいた。
まるで物語に聞き入る少女のようでもあった。
「――愚かな人間。貴方のような者を、私は他に見たことがないわ」
「う……私は……わ、私は……私はッ! 黄都第六将! 静寂なるハルゲントだ!」
「ええ。ハルゲント。貴方の名を、刻んでおきましょう。……勇敢なる英雄。ラグレクスと同じように」
ラグレクスは、とうに地に倒れている。
あれほど長い行軍で音を上げなかった男が、ただの爪の一撃を受けて、体力を使い果たしていた。
あまりの必死に、守るべき背すら気にかけていられなかったと知った。
そして彼女は、到底信じがたいことを言った。
「その勇気に免じ、帰路を送ります。そして黄都へと向かいましょう。今しがたの言葉……ラグレクスと同じように、偽りではないと信じるわ」
「……」
ハルゲントの体から力が抜けて、両膝は地に接した。
勇者として擁立できたのならば、その時に勝者が決まる、真に最強の存在。
その途方もない成果を現実として受け止めるためには、ハルゲントはあまりにも朦朧としていて、全てを使い果たしていた。
それでも、次の問いには答えることができた。
「その者の名は?」
「………………。星馳せアルス」
越えるべき敵であった。遥か遠い、彼方の夢であった。
同じ彼方の夢を以てして、そのただ一人の友と戦うのだ。
「そう。アルス。強いのね?」
この地平における最強種。竜の中にあって、さらに最強たる個体。
冬のルクノカの前で、誰がその短い答えを返せるだろうか。
ハルゲントには、それができた。
「――最強だ」
――――――――――――――――――――――――――――――
微睡みの内で、その夢を見ている。
流れて溶けゆく過去の残影の中で、彼らはいつも、彼女に淡い期待を抱かせる。
無敗の強さがあれば。長き時の研鑽がそこにあれば。
それとも、時代の流れが彼女を越えるのか。そのどれでもない精神の輝きが起こす奇跡であれば、あるいはきっと。
きっと。もしかしたら、戦いになるのだと信じた。
人間の槍兵が、神速の槍を投擲する。
森人の絶大な火球が、焼き尽くすべく迫る。
小人の無限の矢は、壁のように全視界を覆う。
あるいは幼い勇士が、その全ての命を懸けて斬り掛かる。
彼女は息を吹きかける。
竜の息は、それ自体が世界に対する詞術となる。
炎、雷、光。熱術とはエネルギーを作り出す術だ。
けれど彼女だけが……彼女の息だけが、この世界に生きる全生物の中でただ一つ。全く正反対の、異なる事象を引き起こす。
彼女に挑む誰もがそれを知っていて、その暴威を防ぐ手立てを携えている。
緑を残す平野が、いつかの断崖が、氷に輝く世界が――いくつもの光景が、彼女の目の前にある。
その一息を境にして、光景は同じく変わる。
まずは白。空気すらも凍りついた白が、見渡す限りを覆って。
すぐに、その色彩は黒へと変わる。岩肌すらも世界の急変に歪んで軋み、捻れた黒い結晶のように変わっていく。
ありとあらゆる構造が壊れて潰れる様を、彼女は見ている。
全て死滅する。風もなく、氷の欠片が宙へと浮かび――パラパラと落ちる。
彼女の愛する英雄達は、どこにも残っていない。
“客人の来る“彼方”は、土地ではなく時によって気候の移ろう世界なのだという。
そして一年を四つに分けた内の一つに、そう名付けられた時節がある。
何もかもが静まり返り、美しい氷に閉ざされて、次の再生の時まで、植物も動物も、世界の全てが一度死ぬ時が来る。
――冬、という。
それは地平の最強種の中にあって数百年、真の最強の名を許されている。
それは地形と気候を変えた、全生命を瞬間に屠る鏖殺の息を持つ。
それは史上にただ一例しか確認されていない、氷の詞術の使い手である。
戦いすらをも許されぬ、それは一つの荒涼の光景である。
凍術士。竜。
冬のルクノカ。




