不言のウハク その1
このアリモ列村ではとても珍しい、大雪が降った日の翌日でした。
扉を開けると、救貧院の広場は見たこともない白い輝きに埋め尽くされていて、老境の目に酷く堪えたものです。
今でも私は、その日のことを思い出すことができます。
私が起きたのは太陽が昇るより前でしたが、そのときにはもう、白い庭に一本の道が作られていました。雪をかき分けて作られた、街へと遠く続く道。
私の知る限り、それができる者は一人しかいません。うず高く積もる雪の厚みは、そのまま彼の献身の深さを示しているかのようでした。
ちょうど、たった一人で街まで拓いた道を歩んで、灰色の肌の大鬼が戻ってくるところでした。
ウハク。ただ一人の、私の家族。
「――ああ、ありがとうウハク。寒くはなかった?」
私はいつもウハクに話しかけていました。
それが正しいことだったかどうか、今となっては分からないことですが。
帰ってきた彼は、白い狼の仔を抱えていました。目を閉じて震える、小さな命を。
「そう……これを見つけてきてくれたの。素晴らしい働きだわ。これで、三年後の誰かがきっと安心できるでしょう」
私は彼の行いの正しさに感嘆して、その大きな掌から仔を受け取りました。
……それを石段に叩きつけて殺すために。
割れた頭蓋から温かい血が溢れて、白い雪を溶かしていく様子を覚えています。
その時のウハクの目が、今も私の頭の内から離れないためでしょう。
――どうしてウハクは哀しんでいたのか。私はずっと考え続けています。
いずれ人を襲う獣の仔を駆除することなど、当然の成り行きであったはずです。
この世界の誰もが、慈悲をかけずにそうするであろうことをしただけでした。
それは……詞術の祝福を与えられた私達とはまったく別の、心持たぬ獣であるはずだったのに。
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その日、アリモ列村の村人が私に相談を求め、いつもの礼拝の時間で、私はその求めに応じました。空気の乾く季節のことでした。
「……環座のクノーディ様、どうか。力なき我々に代わって、どうか彼らに、詞術の御加護をお授けいただきたいのです」
「ええ。共に集う隣人のためとあらば、勿論のことです。私に、詳しいお話をお聞かせ願えますか?」
「街道の森に、大鬼が現れるのです。男達の背丈の倍にもなる、人食いの怪物です。村の中から勇気ある者が集い、明日の朝に討伐に向かいます。クノーディ様……“教団”の詞術の御力で、死すべきでない命が失われることのないよう……」
もちろん、“教団”の神官たちが詞術を深く学ぶのは、この世に遍く通ずる言葉をもたらした詞神の奇跡を知るためであって、その力を争いや護りに用いるためではありません。
しかし、救いを求める信徒にそのように説くことは、私にはできませんでした。“本物の魔王”の時代には、生きる誰もが流血と闘争から逃れられず、誰もが、善く生きるための力を戦いに用いたのです。“教団”の者たちも、例外なく。
魔王最後の地に最も近いこの村には、あまりにも大きな時代の傷跡が刻まれていました。神官たちは争いと狂乱の中に倒れ、救貧院を賑やかした子供たちの声も静まり返って、私だけが、この小さな村落の教会にただ一人残った正式の神官でした。
信徒にとっては、この貧しい一人の老婆だけが心を支えるよすがであって、また、私にとっても、彼らの存在だけが、自らの信仰を繋ぎ止める光であったのでしょう。
「分かりました。この老いた身で、私やあなた方の思うように助けられるかは分かりません。しかし僅かでもあなた方の心が安らぐのなら、行かぬ理由はないでしょう」
「ああ……ありがとうございます、クノーディ様」
翌朝早く、私は勇敢な村人達と共に街道の森へと進みました。狩人がくれた、森で目を欺くための外套は、私の内心の恐怖の震えをよく隠してくれました。
大鬼。鬼族の中で、最も強く大きく恐ろしい、人食いの怪物。
幼い頃に、一度だけその姿を間近に見たことがあります。木登りをして遊んでいた森の中、大きく赤黒い肌の怪物が、私達の眼下を横切っていった姿を。樹上からでも、はっきりと分かるほどの憤怒と飢えに満ちていました。もしも私達に気付いていたのなら、私達の隠れる大木をその腕だけで容易く折り倒したでしょう。
その大鬼の口の端から何かが垂れ下がっているのを見つけて、私の隣に隠れる友人は、二日前に帰らなくなった狩人のジョクザのものではないかと囁きました。私は……初めての死の恐れの中、夕暮れの赤に染まった森の奥へと孤独な捕食者が消えていくまでを、ただ見つめていました。
その時の空は夕暮れではありませんでした。街道の森には明るい朝の日差しが差し込んでいて、野兎や鹿がのどかに草を食んでいました。
狩人たちは私のように先行きを恐れてはいないようで、私が驚くほどに早く、身軽な足取りで、横たわった倒木や小川をひょいひょいと飛び越えていきました。
私はというと、彼らの足取りに追いつくどころか、土の柔らかさに足をとられて転んでしまわぬよう、それだけで精一杯でした。
「大鬼は知能が高いからな」
彼らのうちの一人が一度、仲間に注意を呼びかけました。
「待ち伏せをしているかもしれない。木の上から襲ってきた奴の話を、聞いたことがある」
その忠告を受けるまでもなく、狩人たちは周囲の全てに気を払っており、神官の私が危険に晒されぬよう、守ってくれていました。
なので最初にその姿を捉えたのも私ではなく、彼らのうちの一人でした。
彼らの視線を目で追うと、大木の下に座る、灰色の大鬼がそこにいました。
何かを食べている最中のようで、私達に背中を向けていました。
あの日に見た赤い大鬼よりも幾分小さいようでしたが、それでも、座り込んだ高さだけで私たちの誰よりも大きく、その傍らには、使い古された木製の棍が無造作に転がされていました。
「こちらから撃ち掛けて、あの大木を盾にさせる。何人か向こうに回って、奴が木の後ろに回りこんだところを仕留めよう。クノーディ様は、彼がこちらに飛び込んできたときのために、我らをお守りいただけますか」
「……ええ。けれどあの大鬼、どこか様子がおかしいように思えて。本当にあれは、人を害する大鬼なのでしょうか」
「どうしたのですか?」
それは、私にも説明の付かない違和感でした。
私も、村人たちと同じに人食いの大鬼を恐れていたはずなのに、その時には何故かふと、その考えが心に浮かんだのです。
「待って下さい。私が、もう少し近づければ……」
「クノーディ様! 気付かれます、危険です!」
大鬼に近づいて違和感の正体を確かめようとしたのは、愚かな行いだったのでしょう。私一人のために、勇敢な村人をも犠牲にしかねないことだったと、後になって気付きました。恥ずべきことです。
それでも、その直感に従っていなければ、気付くこともなかったのでしょう。
彼が食べていたのは木の実でした。私たちの知るような大鬼の食事ではなく。
森に入ってから、野兎や鹿を見かけたことを思い出しました。彼らの振る舞いは、異質な捕食者に追われるもののそれではありませんでした。
子供の頃に見かけた大鬼とはまったく違って、その大鬼には、身に纏う血の死臭がありませんでした。彼が座る傍らの巣穴で、野兎が出入りすらしていました。
「……彼は、もう私たちに気付いています」
確信を持って、私は追ってきた狩人に伝えました。
微動だにしないその背中は、ともすれば眠っているように思えるほど静かでしたが、それが分かりました。
「彼が私たちに危害を加えていないのは、私たちがそうしていないからです。すぐに、向こうに回った人たちを呼び戻してください」
「クノーディ様、しかし……あれは、大鬼ですよ。鬼族は人族を食べる……! この世の始まりから、そう決まっています」
「それでも心があります」
それが私たちの教えでした。
――すばらしい奇跡のために、私たちはもう、孤独ではありません。心持つ生き物の全てが、皆の家族なのです。
いつしか、私は彼らを置いて、その大鬼に触れる距離にまで近づいていました。
とても色彩の薄い、白色に近い瞳が私を見つめ返しました。
自らの行いを恐れ、困惑しながらも、私は精一杯笑って、語りかけました。
「……こんにちは、新たな隣人。私はこの先の村で、神官をしている者です。この環座のクノーディは、あ、あなたを……救いたいと願っています」
返答はありませんでした。大鬼は私に危害を加えることなく、そして無視することもなく……ただ、座り込んだまま無言でした。
私が言葉を続けても、返ってくるのは沈黙と、彼の眼差しのみでした。
大鬼は手を差し出そうとして、すぐに下ろしました。
まるで私の心は伝わっているのに、それを返す術が見当たらないかのように。
「まさか……あなたは」
それがウハクでした。
ただ一人、あり得るはずのない障害を負って、この世に生まれ落ちた大鬼。
「私達の言葉が聞こえない?」
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まず私の試みたことは、この大一ヶ月で行方知れずとなった村人のいないこと、大鬼に直接襲われた証言をする者のいないことを、はっきりさせることでした。
人を食べる大鬼を……それも言葉を解さず、申し開きもできない者のことを皆に信用させるのは、容易な成り行きではありませんでした。
それでも私は、彼らと私の信じる教義においては、罪によらず迷い苦しむ者であれば誰であれ手を差し伸べるべきであることを根気よく説き、彼を救貧院に『保護』――村人の言を用いれば『監視』する同意を得ることができました。
「ウハク。これまであなたに言葉が与えられたことがないのなら、今、この名をあなたに与えましょう。“不言の”ウハク」
不言。伝説の時代、詞神様より賜った詞術の力に驕れる兄弟の中でただ一人多弁を慎み、語らずして多くの種族の争いを収めた聖者――不言のメルユグレ様が果たした徳の名です。
彼はその二つ目の名が示すとおりに、生まれ持った力を以て争うことなく、私を誠実に助け、年老いた女ではできない、様々な仕事を助けてくれました。
たとえ言葉を用いることができずとも、彼が無益な争いを好まず、誰かの心を慮ることができる大鬼であることは、すぐに理解できました。
ウハクを預かってからというもの、教会を訪れる村人の数はめっきり少なくなりましたが、誰かが祈りを捧げる時には、ウハクは彼らを怯えさせぬよう姿を消していたことを、村人のどれだけが知っていたでしょうか。
「あなたは文字を知らなければなりません。口で語ることができないのならば、あなた自身の心を伝える方法を学ぶのです」
言葉で伝えることのできない彼に教団文字を教えることも、無学な女がこれまで経験したことのない、難しい仕事でした。
まずは銀貨から始めました。銀貨そのものを示す文字と、市場で使うエギルの文字の違い、そして銀を表す文字と、円形を表す文字。最初の一歩からそれは、とても困難な道のりでした。
木の串を液墨に浸して、用を終えた子供の古着を板に張って、私は毎日夜が更けるまで、文字を教えていたように思います。
言葉を話せぬウハクは、しかし愚鈍でも怠惰でもなく、ひたすら勤勉に、新たな知識を学んでいきました。彼の上達の速度は目覚しく、私の教えられる教団文字は、最初の小三ヶ月で尽きてしまったほどです。
いつしか、無言の大鬼は私にとって、なくてはならない家族になっていました。
遊ぶたびに救貧院の窓を割って、葉を整えた植え込みなどは翌日に散らかしてしまって、いつも私を悩ませ、笑わせてくれた子供たちの姿は、もうありません。
私と共に学び、“教団”としての勤めに励み、そして善く人を助けた神官たちも、皆、土の下に眠っています。
孤独な生活の中に現れたこの風変わりな大鬼は、私にとっての息子であり、共に信仰の暮らしを守る仲間でもありました。
ウハクは決して肉食をせず、毎食を簡素な豆と木の実のみで済ませました。
彼はいつでも自身の食べる分だけを、多くも少なくもなく、大一ヶ月の初めの日に森の中から採ってきました。
毎朝のはじめに救貧院と礼拝堂の掃除を終えて、言葉を唱えず詞神様への祈りを捧げ、薪や羊の乳を運ぶときには、一人でそれを行いました。
文字を学んでからは、神官たちが残した本を読みふけり、私が文字で尋ねれば、詞神様の教えのどの節であろうと、すぐに探し出して示すことができました。
「……私達が、なぜ詞神様の教えを学ぶのか、あなたは分かっていますよね」
崖から落ちて足を挫いた子供を、ウハクが助けたことがあります。
しかし子供はその顔と姿に怯え、この教会で暮らす間、ウハクは、ついに彼の得るべき感謝と信頼を得ることもできませんでした。
文字に書いて心を伝えるときも、私はいつもウハクに話しかけていました。
それは本当に正しい行いだったのか。今となっては分からないことです。
「神官は、呪いを解く者です。人の心に落ちる影を、言葉を……意志を通じて、時に晴らすことができます。だから言葉は尊く、詞術は私達の祝福なのです。……けれどウハク。あなただけは……言葉を与えられていません」
ウハクはずっと俯いたままでした。大鬼は、人間の思うよりもずっと繊細な種族なのだと聞いたことがあります。あの赤い大鬼もそうだったのでしょうか。あの時、彼の心を救える者がどこかにいたのでしょうか。
大鬼が神官と認められるなら、どれほど良かったことでしょう。彼以上に敬虔で慎ましい信徒は、どこにもいなかったというのに。
「それが詞神様の思し召しなのか、何かの罰を贖う途中なのか、私には分かりません。けれどあなたには言葉がなくとも、その行為で誰かを救おうとする意志があります。それは……誰が何を言おうと、変わることはないのですよ」
私は嬉しかった。いつでも、あなたの心の温かさに救われていたのです。
だからあなたの為したことのすべてを、罪に思う必要などありません。
「ウハク。あなたには心があります。私達と何も変わらない、心が」
あの風の強い日、魔王の残火がどれほど恐ろしい物事をもたらしたのだとしても。
私の信仰が、あの日を境に意味を失ってしまったとしても。
あなたは、私の大切な家族でした。




