地平咆、メレ その1
空はよく晴れていて、草木はいつも以上に色づいて見えた。
サイン水郷の外れ、低地の豊かな田園を見下ろす小高い丘には、“針の森”と呼ばれる一帯がある。
その由来は、幼いミロヤにもはっきりと分かるほど明白である。
遠くから見れば、木の一本すらない荒れ果てた丘に、無数の鉄の針が突き立っているように見えるのだ。
さらに、こうして山道を登って近づいてみれば、その針の正体も分かる。
ミロヤが毎年の奉納祭で見ているものと同じ、それは一本一本が太い鋼鉄の柱だ。
鉄の樹海のあいまから突き出した踵をミロヤは蹴った。
「オラッ、起きろ! もう昼過ぎてるんだぞ!」
――そう、踵である。寝転んだ足裏だけでも、ミロヤの身長の三倍がある。
「うるッせぇなあ……またお前かよー、クソガキ……」
「お前は穀潰しだろ! ゴロゴロしやがって」
遥かな昔からこの丘の上には、一種の生物しか生息していない。すなわち巨人。村の誰もが知るその名を、地平咆メレといった。
「うあーあ、よっこら……しょっと」
周囲に突き刺さる柱の一本を掴んで、その存在は大儀そうに上体を起こした。
毎年大人が十二人がかりでようやく運ぶ鉄柱は、物干し竿のようにたわんで、ギシギシと音を立てた。
大きな男である。とても大きい。
草木を工術で編んだ簡素な衣装だけを纏っており、その頭頂は、彼が胡座をかいた姿勢であっても、ミロヤが殆ど真上まで見上げなければ見ることができない。
数の少ない巨人の中でもメレはさらに特別なのだと、ミロヤは村長から聞いたことがある。
巨人にも抜きん出て背の高い者と低い者がいて、メレの身長などは中央の都市での単位で、確か20mだか30mにもなるのだとか。
「なんだなんだ、また親父さんと喧嘩したとかじゃねえだろうな」
「違うって! 弓! 弓あるだろメレ!」
「おー、あれか? どこやったかな」
「あんなにデカいのになくすのかよ! ほら、あっちに転がってんじゃん!」
ミロヤは忙しなくそれを見つけた。もっともそれは、サイン水郷の外の者は誰ひとりとして弓だとは認識しない物体であろう。
材質不明の、黒い蛇竜の如く長大な構造物であった。
乱立する鉄柱の隙間に、まるで地形の一部のように横たわっている。
「こいつの弦を膝の高さまで持ち上げたら、村一番の力持ちだってプークが言ってた。マジなの?」
「なんだそりゃ、バカだな! 一番力持ちになっても意味ねーだろ。俺は千倍力持ちなんだからよォー」
「メレがどうかなんて知らねーよ! プークが絶対できないってバカにすっからさ、俺、確かめてやんの!」
巨人はずぼらに寝転がって、放り出されていた巨弓を指先で引き寄せた。
まばらな草や、土がその動きに巻き込まれて、ガリガリと地面を抉った。
ミロヤは呆れてため息をついた。ミロヤの姉よりだらしがない。これで本当に村の守護神なのだろうか。
「ほい、地面に挟まって死ぬなよ。お前ら激弱なんだから」
「うるせっ」
悪態をつきながら、固く撚られた金属の弦を持ち上げようとしてみる。
巨人の身長ほどもある長い弦の真ん中を必死で持ち上げても、それは周りに立ち並ぶ柱と何も変わらない、一本の鉄の棒のようである。
迷い込んだ猪が、置かれている黒弓に激突して死んだという話も、作り話だとばかり思っていた。その時も弓はその場からまったく動かなかったのだそうだ。
「あー、うー、くそあああァァーッ! ……はぁ」
「ガハハハハ! やめとけやめとけ。その年から腰壊しちまうぞ」
「お……俺、水樽だって一人で持ち上げたことあるんだぜ! こんなのできる奴いんのかよ!」
「いるじゃねーか俺が」
「そうじゃなくってさ~」
メレは再び、面倒そうに荒れ地に寝返りを打つ。
この巨人が素早く動いたところを、ミロヤは一度たりとも見たことがなかった。
「そうだそうだ、弓じゃねーけどよ。何十年だか前に、村のバカな若者連中が集まってよ、俺のアレを持ち上げられるか、試そうとしたことあったなあ」
「アレって何さ」
「決まってんじゃねーかチンコだよ」
「はあ~!?」
ミロヤは思わず巨人の股間を見る。確かに、腰蓑の下は丸出しではあろうが。
「な……何人で持ち上がったのさ!?」
「五人までは無理だったなあ。で、こりゃもう本気でやらなきゃなんねえってことで、六人だ。全員、選りすぐりの力自慢よ」
「なんでそんなバカやる大人が六人もいるんだよ!」
「親父や爺ちゃんに聞いてみろ。男共なんていつになってもバカなもんよ。でも、持ち上がったかどうかがちょっと分かんなくてな……」
「ちょ……ちょっと待てよ、気になるじゃん!」
そもそもこの話の向きで、当の本人がどういう結果になったか分からないということがあるのか。
メレは少し気まずそうに腹を掻いた。
「いや本当に分かんねーのよ。六人がかりで触られると、俺のほうもこう、ムズムズきちまってな……持ち上がったは持ち上がったんだが……」
「ぶはっ、マジかよ!?」
「ガハハハハハハハ! そいつらも驚いてたぜ! 『お前ソッチの趣味だったのか!?』ってよ!」
――メレの語る話は、いつも村人との、呆れ返るような思い出話ばかりだ。
たとえばメレのくしゃみで自分が吹き飛んだ距離を競う、危険な遊びが流行ったことがあるだとか。
村長の父親が若い頃、肩に乗せて女達の浴場を覗かせてやったはいいが、目立ちすぎて制裁を受けたとか。
とある娘の結婚式で歌を歌った時は、あまりの酷さに永遠に禁止されて、それは今でも村の条文にあるとか。
老人から子供まで……サイン水郷に暮らす全員が、長きを生きる大巨人との思い出を持っている。
まるで地に根を張ったような弓の重さを、ミロヤはいつまで覚えているだろう。
「でもさメレ、図体デカい割に、戦った話は全然聞かねーのな。弓、使えんの?」
「そんなの気にすんな。矢なんて射たないに越したことはねーのよ。知ってたか?」
「はあ~? 射たない方がいいってんなら、元々弓矢がこの世にあるわけないじゃん! やっぱ射ったことねーんだろ、それ」
「口の減らねえガキだなあ」
事実、ミロヤの言うとおりであった。
彼の並外れた巨体や剛力のことは、村人なら誰もが語っている。
けれどその力を振るって勇猛に戦い、敵を退けた話は、その中に一つも含まれていない。
メレは紛れもなくこの村の英雄ではあったが、武勇を知られぬ英雄でもある。
「これでも心配してるんだぜ? 黄都にはあのロスクレイだっているしさ……おぞましきトロアなんて、あんなの、もう怪談に出てくる奴じゃん! メレじゃ絶対勝てねーもん!」
「バカ言ってんじゃねーよ! 俺は最強だっつーの。本気出したらもう、すっげーぞ? ビックリするからなお前」
「はあ~!? いつもゴロゴロしてるだけだろ! ロスクレイの方が絶対強えし!」
黄都の王城試合に彼らの守護神が赴くという話には、ミロヤも少なからず心を躍らせている。
彼らとずっと共にあった、サイン水郷最強の存在が、本当にこの大地で最強なのだと信じてみたい。
けれど同様の候補者――例えば黄都第二将、絶対なるロスクレイの名声などは、一つの村に留まるものではない。人間の子であれば、誰もが憧れる大英雄である。もちろん、ミロヤもその一人だ。果たして、どちらが勝つのだろう。
「っていうか、ちょっとは感謝とかねえのかよ。黄都の報奨金、すっげえぞ? 雷で焼けちまったクワイの家だって、あとは西の水車だって新しくできんだろ」
「あー、確かにあっちの水車はもうボロボロだ」
「お前の爺ちゃんの代から修理して使ってるしな。あとなんだ? そうだそうだ、ポアニのお産の費用だ。もう三人目だからなあ。ミゼムラの畑耕すのに、黄都の機械も買ってやりゃあいい」
「ミゼムラはいいよー、あんな変人ジジイ」
「ガハハハハハ! どうせ俺が優勝したらもっとデカい金入ってくんだろ! 村の仲間でケチケチしてどうすんだ!」
「……やっぱこんな事言ってるようなやつ、絶対勝てねーよ!」
メレはいつも、楽観的に笑っている。
世の悲劇の大半は、その巨体に比ぶれば小さく見えてしまうのだろうか。
学業や畑仕事の悩みも、巨人の視点で見ればそうであるように思えた。
だからいつも、用がなくても、村人たちは“針の森”を訪れるのかもしれなかった。
「やっぱ悔しいなあ……! せいぜい弓折られるんじゃねーぞ! 負けて戻ってくる頃には、その弦持ち上げてやる」
「生意気言いやがるな。でもあれだ、今日はもう帰っとけ」
不意に、メレは体を起こした。青い空の遠くを見ているようであった。
ミロヤの目にはそれは何の変哲もない、よく晴れた空にしか見えなかったが。
「雨が降るぞ」
「あー、そうなの? まだ晴れてるけど」
「いや。大分降る。雲の様子で分かるんだよ」
ミロヤは腰を上げて、小走りに家路を下っていく。
並外れた巨体を持つメレには、風雨を防ぐ家屋はない。その必要もなかった。
サイン水郷を見下ろす“針の森”が、ずっと昔から、彼の住む家である。
「さーて、今夜辺りか……」
他の誰も、地平線の端に浮かんだ雲の形を、見ることもできないだろう。
メレは、黒弓を手に取った。
また今年も、サイン水郷の滅びの日がやってくる。
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ざあざあ、ではなく、バリバリ、というような音が相応しかった。
雨音はまるで地震のようで、暗く荒れ狂う空が、大地を丸ごと押し流そうとしているかのようである。
暴風が、隣の山からの木々を飛ばす。そのいくつかが相当な速度で肌に激突しているが、メレには何の痛痒もない。
闇夜の嵐の只中で、規格外の大巨人は両の脚で立ち上がっていた。
天を衝く巨大な影に浮かぶ、恐るべき二つの眼光。
その暴雨の凄まじさも相まって、これを知らず目の当たりにする者にとっては、破滅の光景そのもののようにも思えたことであろう。
「……もう少しで、来るか」
メレの唸りは、誰に向けた呼びかけでもない。
この風にも倒れることのない――深く突き刺された、“針の森”に乱立する柱の一本を、彼は引き抜いた。
年に二度のみ、それは奉納される。
土地の近辺に広がる良質の鉄鉱を融かし、毎年村で最も工術に優れた一人が、美しい直線の柱へと整形する。そして錆が浮かぬよう、鍛冶の処理を施す。
その一本一本にサイン水郷の村人達の精魂が込められた、この村の最大の工芸品でもあった。彼の宝だ。
ただ一つの心の故郷を、メレはいつも見下ろしている。
人々が生を送る家々の明かりが、終焉を告げる豪雨に震えている。
豊かな水と鉱石資源、動植物を育てる土壌に恵まれた、平和な村。
二百五十年前の物寂しいあの時代には、存在していなかった村だ。
「……」
いつもと同じように――目を閉じ、集中する。
竜のように荒れ狂う川の流れが変わる瞬間。
全ての感覚を叩くこの天候の中に、その一瞬を見逃すことがあってはならない。
低く、ゴウゴウと鳴り続ける川音が……ごく僅かに、その音の高さを変え。
メレは目を開いた。その予感とちょうど同時、海へと至る巨大な本流が、村を通る川へと逆流しつつあった。
豊かな水と土壌の栄養に恵まれた村。しかしそれは、長い歴史の中で、このような河川氾濫に、繰り返し脅かされ続けてきた土地であることをも意味している。
年に一度、恐るべき規模の暴雨がこの土地を通り過ぎ、そのたびに洪水が溢れ、彼らの築いた村は全て水底に沈む。
それがサイン水郷の滅びの日であった。
……地平咆メレは、普段のように無駄口を叩くことはない。
ただ、彼以外には引けず、持ち上げることすらできない黒弓を、引いた。
そこに番える矢は――村人達が奉納した、“針の森”の一本の鉄の柱である。
「……」
丘より見える地平線の端。襲い来る洪水には、三つの流れが入り混じっている。
中洲の巨岩に迂回して、左岸を抉ろうとする流れ。遮られぬ、速い流れ。海の潮の満ちる力を得た、後ろから来る遅く力強い流れ。
この距離からでも分かる。暗雲と雨嵐にかき消されるこの夜でも、相手が形持たぬ暴れ狂う水であっても、メレの目にだけは、はっきりと。
雨で弱まった地盤が崩れることはないか。抉り取るべき深さは正しいのか。逸れていく先に、来年の耕作地はないか。ミロヤのような子供の遊び場が、そこにはなかったか。
狙撃の刹那を前に、全ての思考は一瞬で通り過ぎる。
膨大な経験より至る一つの直感だけが、全てを解決する道を示してくれる。
「そこだ」
一射を放った。
ゴガ、と空気が割れた。雷鳴よりもなお大きな、音の壁を割り裂く音。
誰も、光のようにしか見えない。
それは見た目の通りの速度で、大地へと突き刺さった。
――サイン水郷の土地は、その岩盤ごと弾けた。
狙い過たず命中した矢は、なお大地の下へと潜り込んで、地中を直線に破壊した。
土煙の爆発は、ただ噴き上がっただけでなく、その間中、噴き上がり続けた。
もはや地震のような、という形容ではない。地平咆メレの弓撃は、まさしく地震である。
これほど遠い、地平線までを狙う距離の一射であっても、なお。
「……よっし」
メレは、その夜はじめて、会心の笑みを浮かべる。
大地を一直線に抉り取った新たな傷口へと、膨大な水量が流れ込んでいく。
それらは人々の住む土地を逸れて、低い郊外の荒れ地へと注がれる。
次の矢を番える必要もないほどの、完璧な一矢であった。
「よーし……! 寝るか!」
今年も、サイン水郷の滅びの日がやってくる。
だが今年も、サイン水郷が滅ぶことはない。
前の年も。さらに前の年も。二百五十年前には、存在していなかった村だ。
年に一度、洪水の災厄がこの土地を襲う。
年に二度だけ、その鉄の柱は奉納されている。
――その柱は今、“針の森”と言われるほどに、この不毛の丘に突き立っている。
地平咆メレは、武勇を知られぬ英雄である。
その力を振るって勇猛に戦い、敵を退けた話は、村人の語る伝説には、一つも含まれていない。




