「シン・ゴジラ」偏見的考察
今回は「シン・ゴジラ」について考えていこうと思う。この映画は公開するやいなや様々な分野からの批評が巻き起こっている。まさに全盛期のエヴァンゲリオンのようである。かくゆう私も観に行って興奮冷めやらぬまま帰路についた。そして少しばかりクールダウンしてくると、はたして「シン・ゴジラ」とはなんだったのかと考え始めた。今ここで筆をとっているのはその疑問になんとない答えが見えたからなのだが、単刀直入に言うと、「シン・ゴジラはすごく記号(=シニフィアン)は作りこまれているが、それが伝えるイメージ(=シニフィエ)はない映画」ということである。諸氏様々な意見があると思うがこれは私なりの考察ということでどうかお聞きいただきたい。
今回の「シン・ゴジラ」は現実の日本に虚構のゴジラが現れたらという「日本沈没」のようなポリフィカルフィクションとして作られている。冒頭の閣僚会議に始まり自衛隊の防衛出動、そのリアリティは邦画の中でも群を抜いている。それは今回のゴジラが行政の動きを徹底的に取材し描かれ、それが庵野秀明のスピーディーな演出で一級のエンターテイメントとしても成立しているのである。そこで展開する専門分野としての行政の姿は一見の価値がある。私もこのリアリティとエンターテイメントの二点に感服した。
だが、この「シン・ゴジラ」について私が気になったことがある。それはSNSの感想で、人間が描かれていない、というものである。この意見に対して別の視聴者から「あなたは映画への理解が浅い」と辛辣な意見が飛んでくるというのがよくあるそうだ。ここでいうのもなんだが、私も今回の「シン・ゴジラ」は人間を描けていない思う。この時点で私も叩かれてしまうかもしれないが、それに対してのわたしなりの考察として前述の「シン・ゴジラはすごく記号(=シニフィアン)は作りこまれているが、それが伝えるイメージ(=シニフィエ)はない映画」だということをあげてみたい。
では「シン・ゴジラはすごく記号(=シニフィアン)は作りこまれているが、それが伝えるイメージ(=シニフィエ)はない映画」とはどういうことか。ここにおける記号とは映画におけるすべての諸要素、映像、セリフ、音響などである。その一つ一つは庵野秀明の力(それは個人的ものもあれば社会的ものもある)によって日本国内に高いレベルに達している。これは疑いようのない事実である。ではイメージ(=シニフィアン)がないとはどうゆうことか。それは「シン・ゴジラ」の記号、映画の諸要素は何もイメージを引っ張ってこないということである。論理的な根拠に欠けてしまうのだがここで映画監督のジェームズ・キャメロンの作った映画「アバター」を引用したい。これは未開の惑星を開拓しようとする人類とそこに住む原住民の闘いを原住民を主軸にして描かれているのだが、原住民に側に立つことによって開拓を進める人類は悪者として描かれる。それはまさに自然を横暴に破壊する我々への警告とも読めなくはないのだが、あの映画に置いてそのイメージはそこまで強いようには思えない。私はもしかジェームズ・キャメロンと庵野秀明に一つの類似項すらみるのである。「タイタニック」も「ターミネーター」も「エヴァンゲリオン」もまずどのようにすれば面白くなるか、画が映えるか、作品ができあがるか、を中心に考えられているような気がする。それは「アバター」の世界を驚嘆させたVFXも、「シン・ゴジラ」の作り込まれたシナリオも、いかに映画を面白くするかという観点、もっと言えば映画の持つべきイメージ(=シニフィエ)が「面白くあればいい」というライトなものだからではないだろうか。
これは蛇足かもしれないが記号(=シニフィアン)とイメージ(=シニフィエ)がつながった(=シニフィカシオン)映画とはなんだろうと問われれば、私は寺山修二の映画と答えよう。あれらの映画はまさにシニフィカシオンの重ね合わせでしかできていない。
話を戻そう。人間が描かれていないに対する辛辣な意見である。これはつまり記号が提示される中で一方はそれを集め自分なりのイメージを作り出し、他方はそれをせずに表面上だけ見ただけとうことである。おそらく後者は監督からの強烈な叫びを聞きたくて劇場にいって肩透かしをくらったのではないだろうか。「シン・ゴジラ」に対し著名な批評家は様々な意見を述べているが、私は「シン・ゴジラ」に正解はないと思う。映画を見た個人が提示された記号(=シニフィアン)を集めてどのようなイメージ(=シニフィエ)を作り出すかは本人の自由である。行政の正誤に熱くなるもよし、自衛隊の防衛出動プロセスを確認するもよし、今までの怪獣映画から「シン・ゴジラ」を体系的に捉えるもよし、ラストの意味を想像するもよし、市川実日子に萌えもよし。往年のエヴァンゲリオンのように。なぜなら「シン・ゴジラ」はつながって(=シニフィカシオン)はないのだから。
至極個人的な意見を言ってしまえば、「シン・ゴジラ」は3・11を経たゴジラかといえばそうではない。きっと庵野秀明は3・11起きずともこうゆうゴジラを撮っていたのではないか。私はもっと個人にカメラを向けるべきだと思っている。その中に濁流のように溢れる息吹を撮るべきである。集団を揺り動かしていく息吹である。そこにこそポスト3・11に生きる我々が見るべきゴジラがあるのではないかと思っている。
ただ、一ゴジラマニアとして、「シン・ゴジラ」の登場はとってもウレシイ。