第二話
あの日、再び彼女の姿を見かけなかったら。『SHINE』に行けば彼女に会えると気付かなかったら。変な期待をせずにいつも通り憧れで終わっていたかもしれない。
だが一度だけ姿を見たかっただけのはずが、毎週土曜日の夕方、決まって木崎の姿が喫茶店で見られるようになった。それまで彼女が例外として現れなかったことは一度もなく、身を縮めて入店すると必ず所定の位置に座っていた。
彼女は木崎の存在に気付いていないようだった。一度として本から視線を逸らさない。
ある日から、思い切ってカウンターに座ってみた。後ろ姿だけだった彼女の存在が、突如としてリアルに感じられてまともに顔を上げられなかった。
彼女の横顔だけを一瞬だけ盗み見て、後はミルクティーを味わうことに専念する。
結果として彼女と初めて言葉を交わすことになったのは、初めて彼女を見かけた日から二ヶ月後の事だ。うだる熱が億劫だった夏が過ぎ去った、もの寂しさを感じる中秋の事だった。
その日。彼女は珍しく読書に耽ってはいなかった。レトロな鈴の音と共に入店した木崎は思わずその場で立ち止まってしまうも、不信感を抱かれないよう平然を装ってカウンターに座る。
もはや定位置となった、彼女と二つ分の席を開けた木崎の椅子。ミルクティーを注文しじっと待つ。
本を手にしてない彼女は、本当に石像のようだ。丸みがちだった背をピンと伸ばし、なのに文字を追いかけるだけの視線は空を泳いでいる。店の奥から聞こえる高いはしゃぎ声のせいだろうか。妙に彼女の姿がこの場に浮きだって見えた。
今の彼女は本の世界に魅了されていない。現実の世界に意識を置いてそこにいる。
何十回、頭の中でシミュレーションした言葉を必死で吐き出すのに、途方もなく労力を消費した。
「本、今日は読まれないんですか」
一つ間を置いて彼女の周囲の空気がようやく動き出す。こちらに顔を向けているのが気配で伝わってきたが、首が固まって回すことができない。明らかに話しかけてきたのに、こちらに視線を寄こさないなんて失礼だと思われているだろう。
だから、一瞬幻聴なのかと思った。
くすり。鼻だけで笑う掠れた音。初めて聞いた彼女の声は、見かけ通り、落ち着いて楚々とした、少し低めの声だった。
「今日は気分じゃないんです」
ぎこちなく回した首を向けると、石像のようだと思っていた表情が、やはり少しだけ硬めの笑みを向けていた。
彼女――小野悠里さんは、やはり見かけ通り落ち着いた人だった。突然話しかけてきた木崎に激しい警戒心を見せる訳でなく、かと言って腹の内をさらけ出すような一線を越えることもなく、適度な距離を見せてくる、木崎よりもだいぶ大人な人だ。
「ここのコーヒーが好きなんです」
小野は愛おしい存在に触れるかのようにコーヒーカップを包み、淵をそっとなぞる。
「深煎りで苦みが強い。色んな喫茶店に行きましたが、マスターの淹れるコーヒーが一番おいしい」
マスターは軽く会釈するだけだったが、小野はそれだけで満足したようで肩を揺らした。
コーヒーが飲めない木崎にとってよく分からない内容だったが、染み付いた相槌でやり過ごそうと試みる。が。
「コーヒー豆の煎り方で味が変わってくるんですよ。時間をかけて深く煎る程に苦みが、浅くすることで酸味が残るんです。店によって個性が出るんですよ」
相手が知らないことを前提にした物言いは、ぐっと息が詰まるものがある。まるでその場を軽くあしらうことを咎められているようだった。
「・・・僕コーヒー飲めないんです。大人なのに情けないんですが」
コーヒーよりも紅茶。ビールよりカシスオレンジ。小説より漫画。
背が伸びるたび、歳を重ねるたびに感じていた、周囲との些細な差。まるで自分だけが子供のまま取り残されていくような感覚。
無理にコーヒーを飲んだって、何も変わりはしないのに。自分だけ、時が止まったままで。
「飲めないことは別に情けなくありません」
少し離れたマスターに、小野はコーヒーのお代わりを頼んだ。
「大人でも飲めない人なんて珍しくもないですし、好みも人それぞれです。体にいいとは言われていますが、コーヒーはあくまで嗜好品ですし、好きな人が飲めばいいんですよ。それに、私だって嫌いなものはあります」
「・・・ケーキとかコーラとかですか?」
「炭酸は得意ではありませんが、嫌いとまではいかないです。甘いものも食べます」
「着色料たっぷりのグミとか」
「あの触感はなぜか時折無性に食べたくなりますよね。人工的なわざとらしい味も嫌いではないです」
「半熟の目玉焼きが乗ったハンバーグ」
「むしろ大好きですよ」
「半額の値札が付いたスーパーの刺身」
「面白いことを言いますね」
セミロングの髪を耳にかける。日焼けを知らない白い肌が、薄暗い店内では寒そうだった。
「木崎さんって、変わってるって言われません?」
「まさか。僕みたいなつまらない男もそうそういませんよ」
ほんのり苦めの笑みを向け、小野は美味しそうにコーヒーを一口飲んだ。
それから小一時間程度、木崎は話が途切れれることを恐れてひたすらに口を開き続けていた。自分の仕事の話。好きな車の車種の話。最近あった出来事等々、とにかく小野とのつながりを見つけることに努めた。
彼女は自分から多くを語ることのない人だというのは話をしていて伝わってきた。興味のない内容だったかもしれないのに、木崎の目をしっかり見て頷いてくれる聞き上手。そのせいか自ら口を開くことが苦手な木崎でも、次第に気負いせずに会話を進めることが出来た。
わざとらしいオーバーリアクションも表情の移り変わりも激しくない小野は、ただただコーヒーを飲みながら木崎の声を聞いて、時折質問を投げかける。気負いない姿勢が木崎を落ち着かせた。
自分の話をする中で彼女のことも少し分かってきた。仕事は銀行員で年はやはり一つ上で、そしてコーヒーと読書をこよなく愛する人。毎週土曜日は必ずと言っていいほど来ているようで、来週も話す約束をなんとか取り付けることが出来た。たまたま話した家電機器に興味を持ってくれたらしく、パンフレットを見てみたいと言われたのだ。家電量販店の販売員みたいな状況になってしまったが、小野と次の接点を持てるなら何でもよかった。
六時の時計が鳴った頃に小野と別れた。
帰り道が同じであることを期待したが、小野は木崎とは反対方向に体を向けて去っていった。
「木崎君、何かあったの?」
ディスプレイに表示されたコードを解読している時、隣から不意に声がかかる。相手もキーボードを単調に打ち付けながら視線を逸らすことをしない。だが木崎は先程まで浮かんでいたロジックが頭から吹き飛んでしまう。
「どうして?」
「なんだろ、うまく言えないけど」
驚くべき速さでプログラムを組んでいく綾野朋は、同期のよしみであるからか、上司に向けるものとは違い言葉を崩す。威勢よくエンターキーを叩く音がすると、椅子に背を預けてようやく木崎の方に顔を向けた。愛嬌のある丸い目がすっと遠くを見通す。
「やる気が違うって言えばいいのかな。なんだか今日は前向きに仕事してるように見える」
「いつもはやる気なさそうに見えてたの?案外間違ってないからいいけど」
綾野は木崎が緊張せずに話せる数少ない女性の一人だ。綾野相手だと妙に皮肉っぽくなってしまうが、綾野は特別気にしてる様子ではなく、そして綾野も木崎相手には言葉を偽ることをしない。
「そんな悪い風には捉えたことないよ。そりゃ、相手にやる気がないと苛立つ人はいるけどさ、私はやるべきことをこなしていれば何も文句はないし。仕事に対するモチベーションなんて人それぞれだよ」
いい意味でも悪い意味でも割り切りがいい綾野はどこか冷めている。それでも熱血的に訴えてくる言葉より、綾野の現実的な思考論の方が、木崎にとってはすんなり心に響く。そう思っている時点で、きっと自分も冷めた部分があるのだろうと、木崎は他人事のようにぼんやりと考える。
「まあ、ちょっとね」
白のカップを手に持つ小野の横顔を思い出す。すると口角が自然と上を向いた。
「・・・木崎君、一つ忠告しておくけど」
「なに?」
「豆腐が崩れたような顔、しまりがなくてだらしないって、怒られないようにね」
「・・・崩れても醤油かければ美味しいじゃないか」
「木崎君のそういう返し、嫌いじゃないよ」
ちなみに私はポン酢派だと付け加えてくる。
綾野とは信頼性のある知り合いとして長い付き合いが出来そうだと、木崎はなんとなく思った。
仕事終わり、何の気なしに近くの家電量販店に寄る。機械的に流れる安っぽい宣伝放送がなぜか妙に気に入っていると言えば、完全に店の思惑に嵌ってしまっているのだろう。
目的もなく探索するには家電量販店は正直向かないかもしれない。だけど真新しい機器に囲まれて眺めるのは好きなので、向いているかなどどうでもいいことだ。いや、でも家電が好きな人は正直多い。自分のような目的で来る人もいるかもしれない。どう考えると向いているのか。なんだか自分で考えていてよく分からなってきた。
ふと、使っているイヤホンが壊れていたことを思い出す。妙な所でこだわりがある木崎は愛用している会社のイヤホンでないと気が済まない。いくつかストックはあるのだが、一つでも欠けていると気になるのは損な性格だと自分でも思う。
イヤホンの売り場はすぐに見つかった。目的のメーカーのそれは色ごとに分けられ、そして種類が多い。
色なんて特別気にかけたことはない。音楽が聴ければ何でもいい。数はなくても白か黒は間違いなくあるから、無難に決まってどちらかを選ぶのが常だ。白か黒は間違いないがないから楽だ。まさに自分らしい、代り映えしない選択。
案の定、いつもの黒いイヤホンがかけられていた。壊れてしまったものと色もデザインも同じだ。色とりどりのケースを無視して手を伸ばす。
が、意図せずその手は阻まれることになる。
間合いを狙っていたかのように伸ばされた手は、木崎のそれと交わるようにして目の前に来た。咄嗟に手を引込めた木崎は隣を見やる。
あどけない少女だった。白いワンピースがさらに幼く見えるが、歳は七、八くらいだろう。
少し驚く木崎の視線に気付いたのか、少女は視線をこちらに向けにんまり笑う。裏表のない、潔癖すぎる笑みだ。そして手に取ったそれを木崎に差し出す。
「え、なに?」
それはたった今手にしようとしていたイヤホンだった。ひとつ訂正するのなら、目の前にあるものは色が違った。
少女が何も言わないので恐る恐る手に取る。すると満足したのか、少女は更に笑って指さした。
「オリエンタルブルー」
「・・・えっと?」
「オリエンタルグルー。そのイヤホンの色ですよ」
いつの間にそこにいたのか、少女の背後に立っていた男が答えた。答えにならない言葉と唐突過ぎる人の登場に軽い混乱を起こす。
手中のイヤホンと少女の顔を交互に見る木崎の様子に気付いたのか、男は苦笑して肩をすくめた。
「失礼しました。花がじっとあなたを見ていたものですから、少し気になってしまって」
「僕を、ですか?」
「えぇ。きっとどの色を選ぶか気になったのでしょうね。で、あなたが黒を選ぼうとしたことが不満だったんでしょう」
花、と呼ばれた少女の視線は先程のイヤホンの数々に向かっていた。そして一つ一つ指を指しながらブツブツ呟いている。
警戒心もなく接してくるこの二人。
木崎かしらしたら不審な気配しかしないが、悪い人たちにも見えないので反応に困る。
なので当たり障りなく接することを素早く決断した。
「そうなんですか。僕、色とかあまりこだわりがなくて」
「だから安定の黒を選んだ、と」
「えぇ、まあ」
なぜか一気に糾弾されている気分になり声が低くなる。安定という言葉はとても自分に合っている。だがまだ会って間もない、知り合いと呼べる薄い関係性にすらなっていない他人に、自分の人間性を図られたようで少し面白くない。
構わず男は木崎の手の中を指さす。深みのある濃い青。
「オリエンタルブルー。チャイナブルーとも言います。中国で生まれた色で、陶磁器などの色味によく使われるものです」
まじまじとイヤホンの青を見つめる。自分でした行動なのに、男の意思通りに動いているような気がして少し心がざらついた。
「色の力はすごいですよ。時に人の心を左右してしまうことだってある」
男が手招きすると、花はご機嫌で男に抱き付く。その行動が見かけに反して幼過ぎるので違和感を覚えた。
「その色は、花があなたにと選んだ色です。きっと良いことが起こりますよ」
迷いなく確信をもつ男に、木崎は首を傾げる他なかった。
「どうしてそう思うんです」
男はにこりと微笑んだ。これまで潔癖すぎる、大人がしてはいけない真っすぐな笑みだった。
「花は色を司る天使ですから」
それきり花を連れて背を向けてしまう。
しばらくその場に呆然と突っ立ていた木崎だったが、男の長い髪が見えなくなった頃、ようやく耳で店内放送を拾うことに成功する。
男の不思議な説得力のせいか、不審さで抗えなかっただけなのか。
木崎はなんとなく選び直す気にもなれず、オリエンタルブルーのイヤホンをレジに持っていくのだった。