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花ちゃんの色言葉  作者: 望月 薫
二色目  オリエンタルブルー
8/11

第一話

「木崎君。ちょっと頼まれてくれないか」


事務所の中央のデスクに肘を立て顎を乗せながらにっこり笑った叶野部長に、指名された木崎栄太朗は不器用な愛想笑いを返して頷くしか術はなかった。

クールビズだ節電だと囁かれている時代に反し、その階だけは惜しみなく冷房の冷たい空気が満たして、真夏だというのに快適すぎる環境が出来上がっていた。IT業界に属する木崎の会社には高度なコンピューターやシステムが導入されているのだが、いかんせんコンピューターは熱に弱い。しかも木崎の所属する課は特殊な機械を扱うので他の課に比べて設置環境に気を配られている。

だがその分、天国と地獄の差が大きく開いてしまい外に出るのが億劫になってしまうのが難点だ。叶野の笑顔を受けゆっくり自分のデスクに向かった木崎はため息をつきながら窓の外を眺める。コンクリートの道路からの熱気が見ているだけでも伝わってきそうで、木崎は思わずネクタイを緩めた。

小さい頃からの夢だったプログラマーとして働き始めて二年目。これまで培ってきた知識が奮える職場に就けたのは良いが、木崎が思っていた働き方とのギャップに溜息しか出ない。平均的な成人男性よりふくよかな体型をしている木崎にとって、快適な室内で下手をしたら一日中パソコンとにらめっこしているプログラマーという仕事は天職に思えた。自分の将来を真剣に考え始めた際、プログラマーになろうと決心したのもその比重が大きい。

が、いざ入社した会社はいささかIT業界にしては規模が小さく、プログラムを組むだけという訳にはいかなかった。いや、入社した当初はろくにデスクに座っていなかったように記憶している。人が足りないために問題が起こった顧客へ出向くことが多く、プログラマーというよりサービスエンジニアの仕事が多かった。最近になったようやく落ち着いてきたが、それでも外へ出る仕事がなくなったわけではなく、こうして現在も命じられてシステムのトラブル対処に向かう。

実際パソコンに触る仕事なので大きな不満はない。だが動くことが苦手で活発的な性格ではないので、外の仕事というだけでひどく憂鬱な気分にさせられるのだ。外交的な性格だとはお世辞にも言えず、他の会社の人々とのやり取りもできれば避けたいところである。

どうやら世の中は、自分が考えている事のようにうまくいかないらしい。

そんな至極当然のことを考えながら、木崎は天国の出口のドアを開いた。









「ではまた何かありましたらご連絡ください」


相手の男性に軽く頭を下げ、会社のエントランスを抜けて外に出ると、一気に熱気が体中にまとわりついてきた。羽織っていたジャケットを脱いで小脇に抱え、ネクタイを素早く緩める。

腕の中の時計を見ると、時刻は業務時間を過ぎていた。遅くなりそうならそのまま直帰してよいと言われていたので、木崎はそのまま駅に向かって歩き出す。電話を受けた会社が駅から少し距離があったが、休日出勤でタクシー代は経費で下りない事になっている。仕方なく灼熱の中を歩くことになったが、会社についた頃には汗だくで散々だった。夕方になれば少しはましになるかと思ったが、真夏の夕方を甘く見ていたと、木崎はひどく反省している。地面からの照り返しが更に汗を誘った。

家に帰るには再び駅に向かわなければならない。まだ車も所持していないので自分の足だけが頼りだ。だが行きまでの道のりとネットワークの修理でかなり体力を浪費しているのか、足取りがかなり重い。じわじわくる熱と衰えない太陽の光が加勢して気力を奪っていく。木崎は思わず舌打ちをした。

昔からなんでも要領よく出来た試しがない。自分はあまり器用ではないと自覚はしているが、なんでも流されるままされるがままに選択して生きてきた。そのしわ寄せが今来ている気がして苛立ちを覚える。不器用で時々間抜けな部分を出してしまう自分は、きっと人から見たら愉快なピエロに見えることだろう。ピエロはピエロ並みに人生を楽しんではいるのだが。

蝉の音がうるさい。そう思った瞬間、ついに足が止まってしまった。気力というガソリンが底をついてしまったようで、足が前に進んでくれない。己の短い足の影を見つめながら、木崎は大きく息を吐いた。


「どこかで休んでいくか・・・」


体に休息を与えてやらないと暑さにやられてしまいそうだった。まだ遠く感じる駅を一瞥し、木崎は緩慢に首を振って辺りを見回す。熱気で揺らめく視界で必死に探していると、テナントビルの羅列された看板の一番下に、さりげなく質素に連ねている名前を見つける。それはまるで蜃気楼を見ているかのような奇跡に思えた。

『喫茶 SHINE』

煤汚れたネオンの光に照らし出されたその名を見つけ、木崎は考える事無く歩を進める。テナントビルの地下にあるらしい喫茶店は、一歩階段に踏み入れただけでほのかにコーヒーの香りが漂っているようだった。その瞬間、木崎の顔が僅かに歪むが、そんなことは構わず喫茶店のドアを開ける。

開けた店の中は、薄暗い地下とは打って変わり緩やかな光が満たしていた。喫茶店というよりカフェに近い明るい店内だが、古びた木や年季の入ったイスとテーブルが店の色を出している。穏やかなクラシックが控えめに流れ、高い天井で大きなプロペラが回る。だが木崎の体は冷たい空気と水分を求めていて、あまり周りの事があまり見えていなかった。


「いらっしゃいませ」


カウンターの中でコーヒーカップを拭きながらそう言ったマスターに小さく頭を下げ、汗を拭いながら慌ただしく中央のテーブル席に着く。そしてメニューを素早く見ている間にマスターがやって来たので、好物のアイスミルクティーを注文した。髭の下でにっこり笑ったマスターがカウンターに戻った時、木崎はそこでようやく落ち着いたように息を吐いて椅子にもたれ掛った。

(にしても、こんな所にカフェなんてあったんだな)

この近辺は仕事がらみでよく足を運んでいるが、普段コーヒーを飲まない木崎には『喫茶店』という言葉は目に入らなかったらしい。  

夕刻という事もあってか、客は木崎ともう一人しかいなかった。冷房の空気が次第に体に浸透し落ち着いてくると、木崎は何気なくちらりともう一人の客に視線を向ける。

息をするのを、一瞬忘れる。

本当に何気ない仕草だった。だが瞳に映ったその人に、瞬間的に目を奪われてしまう。安易に目をやった事を後悔するほどに、確かな衝撃を受けたのを、木崎は認めざるを得なかった。

女性だった。カウンターの壁際から二番目の席に腰掛けているその人は、白い鈴蘭があしらわれているブックカバーの本を片手に持ち、姿勢をぴくりと変えずにページを捲っている。木崎の席からは僅かな横顔しか見えないが、それだけでもはっきりとしたまばゆい目と鼻筋の通った輪郭が分かった。黒の単調な文字を追う細い視線が妙に色めかしく、時折カップを持つ手がかなり儚い。僅かな仕草で時折揺れるセミロングの黒髪が音を立てているかのような心地よさを演出し、大きめのサマーニットが細い体を包んでその場に落ち着いている。

彼女は木崎に全く気付いていないようだった。細い目で文字だけを追う孤高さと独立した存在感は上手くその場のコーヒーの香りに溶け込み、まるで彼女からほのかな湯気が立っているかのように見えた。白い靄の中から現れた、儚い女神。


「お待たせいたしました」


突然降りかかった渋い男の声に、思わず肩をびくつかせてしまう。マスターはその反応に首を傾げる事もなく、目だけで笑ってグラスを置いた。淡いクリーム色のミルクティーからは薄い湯気は上がっていないのが、なぜか勿体なく感じてしまう。それだけの違いで彼女との境界線が出来たような気がした。

彼女の持つカップの中身は深いコーヒー色。ミルクなんて入っている様子など無い。そしてふと目の前のグラスを見る。優しいクリーム色。彼女の色とは大違いだ。

ストローにかじりつくように中身を吸い上げる。舌にすんなり馴染む甘さと、鼻から抜ける紅茶の香りが染みこんでいく。

ひどく喉が渇いているはずだったのに、たった一口でひどく潤ったと感じたのは、きっと気のせいではなかった。











「栄太郎くんってちょっとクサい所あるよね」

「え、やっぱり汗臭い?」

「そうじゃなくて。言動の話」


けだるさを象徴するように襟元が緩んでいるタンクトップを着ている苑子は、流れるように肩肘を突く。


「女神だなんて古臭い例えやめなよ。一歩間違えたら引かれるから」


自分の事を思って言ってくれていると分かっていても、歳の近い姪の言葉はたびたび痛いものがある。


「早い話が一目惚れしたって事でしょ?ふーん、栄太郎君にも春が来たんだ」

「その言い回しはクサくないの?」

「細かいこと気にしてると剥げるよ」


即答した苑子は勢いよく麦茶を吸い込む。慣れ親しんでいるはずのその味をにんまりしながら味わう様はどこか子供っぽい。そのくせ木崎よりずっと大人な思考の持ち主だからよく分からない。苑子に釣られるように麦茶を一口含む。

一目惚れ、なんだろうなと自覚はあったものの、第三者から突き付けられて改めて実感する。初恋は小学校の頃に経験済み。告白すらできないとうありきたりなルートを辿り、その後も流されるまま時を重ねて今に至る。

謙遜ではなく、木崎栄太郎はモテない。恋愛経験などないに等しい。興味や関心は人並みに存在していたが、己のヒエラルキーの低さを重々承知しているせいか、一歩どころか二、三歩下がって避けていた。興味以上に安寧を求める当たり障りない性格は典型的な日本人だといえる。

言い訳ではなく、そんな性格を嫌だと感じたことはない。勿体ないと思うことはあるが、何かを諦めて代わりに得るものがあるならそれでいい。木崎にとってそれは日々の波風ない平穏だったり保身だったりする。


「それで栄太郎くんはこれからどうするの?」

「え?」

「まさか私に話して満足ってオチじゃないよね。いい年して一目惚れして何もしないってことはないよね?」


苑子はいつだって停滞の状況を嫌う。評判のクレープ店のメニューを見て、定番ではなく新メニューのチョコチップ桜餅フレーバーなどという、合うか分からない組み合わせを当然のように頼む人間だ。間違いなく失敗はない安定のチョコバナナを頼むような木崎からしたら、苑子はずっとギャンブルに徹している。


「栄太郎くんはもっと積極的に動きなよ。何でもかんでも向こうからやって来ることなんてそうそうないんだから。イケメンかお金持ちしかできない能力なんだからね」

「そうだね、僕はイケメンでもお金持ちでもないしね」

「よく分かってるじゃない」

「苑子ちゃんは本当に正直な性格しているよね」

「ありがとう」


褒め言葉としてか皮肉としてか。苑子はどっちで解釈したかは分からないが、半分は嘲りを、半分は羨みを込めていた。

そんな威勢のいい言葉を不安なく言い切る勇気は、自分にはない。

根本的に、木崎は全てにおいて自分に自信がない。

自信や魅力といった類は自分で生み出すものじゃない。全部周囲の存在や評価で生まれるものが多いのだ。

例えば、人より少しだけサッカーが得意な子がいたとして。周りが「上手だね」とか「すごいね」と称賛を与えたとして。

謙遜はあったとしても、間違いなく自信に繋がるのだ。「自分はサッカーができる。才能がある」のだと。

周囲に認められて自分の才能を受け入れ、自身の魅力として開花させたら、あっという間に偉大な夢を抱いた、輝かしいサッカー選手の出来上がりだ。

己への賛歌を受け入れられない人なんていないと思う。人に認められること、褒められることを拒絶する人なんているのだろうか。

人に多方面から受け入れられて、認められて。そんな人間はきっと一面に花だらけの道しか見えていないのだろう。

木崎のように、花もなければ雑草もなく、かといって荒々しい風も吹かない、殺風景な人生を歩いてはいない。各段大した取り柄もなく、何かを激しく褒められたこともない木崎にはぴったりの人生だ。


「僕には、無理だよ」


だけど一度だけ。ほんとに一度だけ。


「またそんなこと言う」


姿を見ることくらいは、許されるだろう。











土曜日。日が沈む時刻。木崎はあの日と同じコンディションで例の喫茶店の前に立つ。

何かを期待しているわけではない。だが少しくらいの可能性を求めることは悪くないだろう。

もう一度彼女を見つけられるとしたら、やはりここしか思い浮かばなかった。もし彼女が常連客だったら、同じ時間帯に現れる可能性が高い。

だが彼女の姿がなかったら、木崎の淡い憧れは瞬く間に砕けることになるだろう。なにせここにいなかったら他に手がかりはないのだ。探偵のように鋭い思考力と地道な調査をするような根気と技術は木崎にはない。

相変わらずひっそりと建つ扉をじっと見つめ、空回りもいい胸の高揚を覚えながら入り口の鈴を鳴らす。


「いらっしゃませ」


落ち着いたマスターの声を聞き流し、木崎は迷いなくカウンターに視線を向けた。

人が少ない空間で、その姿は容易く飛び込んでくる。

その人は前と変わらず、薄い湯気を前にして読書に耽っていた。まるでずっとそこにいたかのような、以前の姿そのままの光景が視界に映る。

立ちすくみそうになる体を叱咤してテーブル席に着く。人が少ないので独占していても非難の視線はない。メニューには目をくれずアイスミルクティーを注文すると、そっと後ろ姿の彼女に視線を向けた。

手にしたカップが空になったのか、小さな音を立ててソーサーに置くと、マスターが自然な流れで新しいコーヒーを継ぎ足して卓に置いた。やはり彼女はこの店の常連客なのだろう。言葉なしにマスターに会釈して再びコーヒーを味わう様は、名も知らぬオブジェのように洗練されている。

だがしかし当然なのだが、彼女がカウンターに座っているので、木崎の位置からは殆ど後ろ姿しか拝むことが出来ない。垣間見えるカップを持つ手だけが、色濃く輪郭を模っていて艶めかしい。


「お待たせいたしました」


この間と同じアイスミルクティーが目の前に置かれる。この日は特別厚いわけではなかったのに、なぜか体が、喉が、精神が住文を欲していた。

勢いよく吸い込む。ペットボトルに詰められて売られているものとは違う、なんだか上等な味がした。

カラン。入り口のベルが遠慮気味に鳴ると、一人の青年が入ってきた。大学生くらいだろうか。背にギターケースを背負ったまま、カウンターに腰かける。当たり前だが彼女とは離れている。

ふいに小声の笑い声が耳に入ってきた。どうやら奥にも客がいたようで、若い女二人がにこやかに談笑している。女子が集まるとその場だけライブ会場のテンションになるような騒がしさはなく、場に合った落ち着いた音量が溶け込んで空気に混ざる。

視線の先のテーブルでは一人の老人が新聞を広げている。部屋着と兼用できてしまいそうなヨレヨレのポロシャツなのに、履いている革靴だけは妙にピカピカなのがアンバランスだ。

不思議な感覚だった。皆が思い思いの今を過ごしているのに、同じ空間で、同じ時間を共有している。喫茶店という場がそうさせるのか、カオスな空間になっていないどころか一体になっている気さえした。大げさな感想だろうか。だが木崎はこんな公共の場があることを今までに知らない。どこかで休憩するとなれば、大体騒がしくもお手頃なチェーンのカフェだったりファミレスだったりしたので妙に新鮮だ。だが己が浮いていると狼狽えることもなく、分け隔てなく受け入れる懐の広さは、コンビニのそれとは格式がまた違っていた。

青年の目の前にクリーム色のグラスが置かれる。見たことがあるような気がするが、どうしても名前が出てこない。話が盛り上がって来たのか、女二人の声が一瞬だけ高くなった。老人が分厚いツナトーストを齧るも、一口が大きすぎたのかコーヒーで流し込んでいる。彼女の目は依然本だけに注がれている。

細い手が再びカップを手にする。

そして木崎は、彼女の手の動きと、グラスの中の氷の動きを交互に見つめて過ごすしか術はなかった。

驚くほど苦にはならなかった。





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