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花ちゃんの色言葉  作者: 望月 薫
一色目  橙
7/11

第七話

二人の為に建てられた新居は、まだ真新しいヒノキの香りがした。大方の荷物は使用人が片付けてくれたものの、私物の多い千恵子は手間取っているようだ。


「手伝いましょうか」


雑多に散らばる荷物に囲まれせわしなくしている千恵子を見やると、なぜか不機嫌そうに見上げてくる。自分の発言に機嫌を損ねるような要素があったかを思案するより先に、彼女は音もなく立ち上がってじっと目を合わせてきた。


「ねえ、私達はもう夫婦になったのよね?」

「は、はい」

「ならその言葉遣い、おかしいと思わない?」


ずいっと顔を近づけて迫ってくる千恵子から思わず視線を逸らす。だが彼女をさらに意固地にさせたようで、予兆なく腕を強く引かれてしまう。


「ち、千恵子さん」

「さん?」

「・・・千恵子」


するとようやく満足したのか、千恵子はほんのり頬を染めて納得したように頷く。腕を解放されほっとしていると、再び千恵子の顔を見つめた。

 自分より年上の、だがどこか自分より子供っぽい彼女は、やはり幾分幼い表情をして笑う。


「うん。それでいい。私より堂々としているくらいが望ましいけど」


それは無理だと言いかけた口をどうにか閉じ、再び荷物整理に取り掛かった千恵子の近くで膝を折る。

ふと荷物から少し外れた場所に置かれた、女性らしい色彩ある持ち物から浮くような地味な色合いの書物を見つける。何気なく取ったその表紙には、『日本外史 下巻』と印字されていた。


「千恵子さ・・・」

「さ?」

「・・・千恵子、これは何?」


軽く掲げたその書物を見て、千恵子はほんの少しだけ目を見開く。

だがすぐに瞳に優しい光を称え、そっと書物を受け取った。


「ある人への贈り物なの」

「ある人?」

「そう。ある人への」


寂しさとも期待とも受け取れる笑みは、千恵子の手の中の本だけに注がれている。

その横顔がどうしてか、どうしようもなく愛おしいと思えてならなかった。













祖父は高広に何も言わなかった。西田から手渡された『日本外史』を暇があれば開き、その度に面白そうに笑みを深めていた。


「じいちゃん、そんなに同じ本読んで飽きないのかよ」

「飽きないよ。本というのは毎回違う感情を抱かせてくれるものだ」


度のきつい老眼鏡をかけ直し、おぼつかない手でページをめくる。

日に日に体力が落ちている。歳のせいもあり合併症の兆候が出始めた。ベッドから出られない日が増え、一人で立ち上がることもままならない。

それでも、高広が病室を訪れると、いつも書物にじっと目を通す、静かで寡黙な、高広が昔から憧れている祖父の姿があった。

周りの空気に溶け込んで、己の世界で書物に読みふける祖父は、いつまでもずっとかっこよく見えた。普通の人が見たら訳の分からない文字が並ぶ古い書物を、まるで光り輝く宝石のように、新発売され人気のおもちゃのように、大切に無邪気に扱う様が不思議で羨ましかった。

生涯の中でそんな宝物に出会えている祖父は、誰よりも幸せそうで楽しそうだった。

そんな祖父に千恵子を会わせることがかなったのなら、きっともっと幸せになれたかもしれない。

結局、自分はいつまでも中途半端だ。意思のある言葉を並べるだけで、結局何事も上手くなし得ない。

それでも、それでも思うのだ。


「なあじいちゃん」

「ん?」


生返事をして視線を寄こさないのもいつものこと。文字を追う祖父の横顔が、どうしようもなくかっこよく見えて好きだった。


「じいちゃんはさ・・・」


きっと、遅すぎることはないのだ。

何十年前の約束を胸に、あの銀杏の木で座っていた祖父を思い出す。

相手が覚えているか分からない。確かな手がかりなんてない。もしかしたら全てが手遅れかもしれない。

それでも、待とうと決めたのは祖父だ。探そうと決めたのは高広なのだ。

たとえたどり着いた成果が描いたものと違っても、それでも何か結末を求めていたのは事実だから。

こうやって毎回落ち込んでいても、結局はこの生き方をやめられない。何かも中途半端でやりきれない人生だろうが、それでもいいかと納得できてしまうのだから、改めることもできないだろう。


それでもいいさ。それがいいんだ。

だってさ,、じいちゃん。


「何か、欲しいものはないの?」


そんな所がじいちゃんにそっくりで、誇らしくさえ思えるから。












祖父の見舞いに行った帰り道。あまり期待をせずに例の公園を覗くと、珍しい組み合わせがブランコで遊んでいた。

花の背中を押していた苑子が高広に気付き、大げさに手を振ってくる。すると眉間に皺を寄せて歩き出そうとするより先に、顔を輝かせて花が走ってきた。


「にい!にい!」


今にも躓きそうな速度で向かってくる花は、そのまま全力で抱き付いてくる。


「どわっ!」


今度は高広の体が揺らぎそうになるのをどうにか堪え、なぜか上機嫌の花を軽く睨みつける。


「お前な、本当いい加減にしろよ。毎回まいかい・・・」


ふと、見上げてくる花の表情が少し曇る。残念そうな、不服そうな。とにかくマイナスの感情がほんの少し込められたものだった。


「橙、ないの?」

「は?」

「橙、ないの・・・」


あっさり手を離して背を向ける花。だがすぐに走り出し、何事もなかったようにブランコに戻っていった。


「あ、おい・・・」

「こんにちは」

「おぉ!」 


突如背後から聞こえた声に間抜けな声をだしてのけ反ると、例の男がにこりと笑って立っていた。以前会った時から花とは違う不可思議さがあるとは思っていたが、本気で不可思議な存在かと一瞬真面目に考えてしまう。


「こ、こんにちは」

「はい、こんにちは」

「・・・・・・」

「どうしました?」

「い、いやなんでも」

「花の言ったことから察するに、何かあったようですね」


まるで、なにもかも分かり切ったような口調に。

高広はなぜか妙に納得してしまった。

先程まで抱いていた懐疑感が瞬く間に薄れていく。ツッコミどころは沢山あるはずだろうが、それを追求するより安堵感が満たす。


「はい、色んな事がありました」

「そうですか」

「あの・・・」

「はい?」

「花は・・・」


瞬間、遮るように花の高い声が耳に届く。声は高広を呼ぶものではなかった。


「れい!」


呼ばれた男は花に手を振る。見つめる瞳は確かな慈愛に満ちていた。静かで、でも濃い愛情だった。


「花は天使ですよ」


初めて会った時と変わらないセリフを紡ぐ。

花がはしゃぐ声が聞こえる。苑子が暴走する花を宥める声が聞こえる。


「・・・そうですね」


それは心から出た素直な言葉だった。

空を見上げる。もう銀杏は散って寂しい色の枝が見えた。花だったらどんな色だというだろうか。

久しぶりに見た気がした頭上には一面の空色が広がっていた。確かに水色とは違うような気がした。

そしてやはり、高広の目には橙は映らないのだった。



                                               完

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