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花ちゃんの色言葉  作者: 望月 薫
一色目  橙
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第四話

「『赤い糸』の由来には諸説あります。日本古来の「古事記」や「日本書紀」に遡る話もありますし、中国にも似た話が複数存在します」

「ふうん。で、『赤い糸』って結局なんなの?」

「人がこの世に生まれて来る前に立てる、『この世での人生計画』において、お互いに伴侶となることを了承し合った相手と繋がっていると言われているものです。つまり、将来の伴侶となる相手と結ばれている糸だと言われています。逸話の一つですね」

「そう・・・」


自分から調べるよう依頼してきたのに、千恵子さんは曖昧な返答しか返さなかった。だが話に興味がないわけではなく、なにか考え込んでいるように見える。


「なんで赤なのかしら」

「はい?」

「将来の相手と繋がっているだけなら、何色でもいいと思わない?」

「まあ、そうですけど・・・。でも、やはり赤というのは特別な気がします」

「どうして?」

「赤はとても目立ちますし、もしそのような糸が見えたのなら、きっと見失うことはないと思います。それに赤は人間の血肉の色。人が生まれ持ってきたものならば自然な色のような気がします」


だが千恵子はそこでなぜか唸り始める。僕の考えにあまり賛同できないのか、しばし考え込んでから顔を上げた。


「血と同じ色というのは分かるけど、目立つのは少し違う気がするわ」

「どうしてですか」

「だって、皆の糸が赤かったら、どれが自分の糸か分からなくなるじゃない。必死に手繰ろうにも絡まってしまうわ」


思わぬ返答に、僕は少し目を瞠る。


素敵な考えをする人だと思った。僕だったら、きっとそんな考えにならなかっただろう。


なぜだか妙に動揺してしまうのを押さえようと、僕は咄嗟に話を変えた。


「どうしてそのようなことを知りたかったのですか?僕なんて『赤い糸』なんてあなたから初めて聞いてのに、よく知っていましたね」


すると、僅かの間を置いて、千賀子さんの細い声がした。


「ある人に言われたの。『あなたは私の赤い糸の相手です』って」

「え・・・」


それは、つまり。


「この間お見合いした人。半年後には、その人の元にお嫁に行くの」


いきなりの飛んだ話に、僕は何も言えなかった。そして自分自身の反応にも驚きを隠せなかった。


さしておかしい話ではない。千恵子さんはこの辺では大きなお屋敷の令嬢。そして年齢を考えても至極当然の事だ。


だが、なぜだろう。妙に心臓がざわつく。それはきっと、頭上でなびく青葉の音ではない。


「いきなりそのような事を言われても分からないわよ。気になったから、あなたに調べてもらったの。これで納得がいったわ」


やけに晴れ晴れとした表情をした千恵子は、僕に向けてにっこりと微笑む。


「約束通り、あなたにあの本をあげるわ。でももう少し時間をくれるかしら」

「は、はい」


返事はしたものの、僕は日本外史の事などすっかり忘れてしまっていた。


初めて抱く感情の正体を、僕はまだ解明できていない。

















「・・・へえ、そうなんすか」


突拍子のない返事に、高広は疑問を投げかけることを避けた。突っ込むと余計に訳が分からないことを言ってきそうな気がしたからだ。

とりあえず、この男は少しおかしいという結論で落ち着かせる。不思議を超えて謎な子供の保護者も、やはり普通ではなかったということだ。

高広のあっさりとした対応にも関わらず、男はその笑みを崩さない。


「この世に色はいくつあると思います?」

「は?色、ですか」


高広はしばし考えるが、おおよその値を出そうにもよく分からない。それを暗に示すように額に皺を作っていると、隣で小さく笑う音が聞こえた。


「色、というものをどのように定義するのかにも変わってくるのですが、デジタルで表せるのは一万から二万色。人間が色を識別する際の条件揃った場合なら七五〇万色。通常なら一八七万五千色。人間の言葉で言い表し、実際に使われる色は、二千から三千色と言われています」

「はあ・・・。随分数の差があるんすね」

「そうですね。色、と一言で表すのは簡単ですが、それは実に奥が深い。人はその色の世界に常に左右されていると言っても過言ではないのです」


実に大きく出た言い方だったが、男の口調にためらいは一切なかった。


「なんでそんなに詳しいんです?」

「色彩学を少しかじっていていまして」


色彩学。聞いたことのない学問だ。今この場で聞くことがなかったら、きっと一生聞くことがなかっただろう。


「色彩感覚というのも人それぞれあるんですよ。女性の方が優れていると言いましたが、その例外ももちろんある。その中でも特に優れたものを、『四色型色覚』と呼ばれています。通常人間が認識できないような色でも判別するほどの鋭い感覚を持つ人間。世界の二、三パーセントしかいないと言われています」


男は視線を隣の花に向ける。花は座り続けてることに飽きたのか、ベンチから飛び降りてブランコまで駆け出して行った。


「花は、そんな数少ない四色型色覚の持ち主なんですよ。だから些細な色の違いも判別できる」

「・・・それで花は色を司る天使だと言ったんですか」

「おや、あまり驚いていませんね」

「いや、なんかその才能の凄さがまだよく分からないというか・・・」


些細な違いの色の判別がつく。だがそれがなんだと言うのだろう。高広は短いながらも今まで人生を生きてきて、色の判別で困ったことなんて一度もない。これから先も、きっとそのままでなにも支障はないはずだ。

言い方が悪いかもしれないが、花のそれは生きていく上での必要性を感じない。それに、花の才能と言えるそれは、限られた人間のとしか共有できない、独りよがりのものに思えてならない。

それを素直に男に告げると、男はきょとんとした後、なぜか軽快に笑いだした。


「ははは、それは確かに。花が私たちに共感を求めようとしても、きっと期待に応えることはできないでしょうね。普通の生活をしていれば、なんの役にも立たないのは確かですし」


高広の考えに激しく頷く男だったが、ブランコで遊んでいる花に目を向けると、その瞳を細くして輝きを持たせた。


「でも、私は花のことが羨ましいと思っているんですよ」


高広は少し驚いて男を見る。


「どうしてですか」


すると、男は先ほどまでと声のトーンを変えて言った。


「だって、普段僕らが見る平坦な日常でも、花から見ればとても鮮やかに写っているのなら、とても素敵なことだと思いませんか?」


そう言った男の目はとても輝いていた。幼い子供と同等の純粋な好奇心が垣間見える。男より若い高広でも、こんな風に素直な好奇心を持ったのが遠い昔に思えた。


「普通の子供より劣っている分、花には素晴らしい世界が見えているんです。僕たちが見落としてしまうような光景の美しさを誰よりも理解している。僕にはそれが羨ましくて仕方がないんですよ」


劣っている?男はそれがさも受け入れられているかのようにそう言ったが、高広んはそれが何を指していいるか分からなかった。その疑問をぶつけようとした時、公園の向こうで深みのある声がした。


「おぉ、高広。お前がここにいるなんて珍しいじゃないか」


毎日聞いている声を聞き間違えるはずもなく。声の方を振り向くと、そこには心底不思議そうに高広と男を交互に見ながら近づく祖父の姿があった。


「じいちゃん!」

「なんだ、そんなに驚くことでもないだろう。高広、そちらの方は?」


すると男はすっと立ち上がり、祖父に軽く頭を下げた。


「うちの子が転んで怪我した所を、高広くんが手当てしてくださったんです」

「おお、それはそれは。お嬢さんは大丈夫ですか?」

「えぇ、あの通りピンピンしていますよ」


男が滑り台の方向を指さすと、ちょうど滑り終えた花がそれに気づいて、満面の笑みを向けて駆け寄ってきた。そして花は男ではなく、なぜか高広に思いっきり抱き付いて来る。

てっきり男の方に行くと思っていたので、高広は予測していない事態に思わず声を高くした。


「うわっ。なんだいきなり」

「高広、随分なつかれたようだな」


花が抱き付いたまま頬を摺り寄せるのを見ながら、祖父はなぜか面白そうにしている。

周りに子供がいない環境なので、高広は花の対応に困惑していた。ただされるがまま、抱き付いたまま飛び跳ねる衝撃をもろにくらいながら突っ立っている。


「お前な、いい加減に・・・」

「にい!」

「は?」

「お兄さんって言っているんですよ」


男も嬉しそうに笑っている。

なんだ、このほほえましい状況は。嫌悪することまではいかないが、なんだかこそばゆい。

体をぐらぐらに揺らされていた高広だったが、その攻撃は唐突に止む。思わず花を見下ろすと、花は俺の腰に手を回したまま、視線を祖父の方に向けていた。あんなに高い声を出していた口を閉ざし、祖父をじっと見つめている。


「花、どうしたんだい?」


男はそう言いかけた時、それより早く花の高い声がした。


「橙!」

「え?」


その抜けた声が誰のものだったか、高広は分からなかったが、その場の皆が驚いていたのは間違いないだろう。

花はあっさりと高広を解放すると、なぜか固まっている祖父の手を取る。年季の入った皺だらけの手をしばらく優しくさすっていると、異様に小さい小指を立たせた。

祖父はその一連の流れを黙って見ていた。優しく見守っているのではなく、自分の体だけに激震が走ったように動けないのだと、祖父の余裕のない表情を見て悟る。


「じいちゃん?」


祖父は答えない。


祖父の、こんな風に驚く表情を、高広は見たことがなかった。いつも老人らしからぬ余裕のある態度を見せるかと思いきや、研究者の性であるかのように固い考えを押し付ける祖父が、人に乱されているなんて信じられない。

皺か指紋か判別が難しそうな模様のある小指と、己の艶のある小さい小指を立たせると、花はまたもや嬉しそうに笑う。


「橙!」


花がそう叫ぶたび、祖父の顔色が変わっていく。それを見て、高広は思いだすことがあった。

この公園で初めて花と出会った時も、花は同じように『橙』と言っていた。確か、それは高広の携帯に向けてだったように記憶している。


ピンと張られた祖父の小指。花は祖父の手を掴んだまま、なにもない宙に指を指す。


いつもなら、不可解で頭がおかしいとしか思えない行動に、思わず息が洩れていただろう。だが祖父の瞠目した表情を見て、呆れることを忘れてしまった。花の一番の理解者だろう男も、先程とは打って変わった真剣な目を花に向けている。

その場の空気が、花の無邪気な声に反して張り詰めたのが分かった。


「お嬢さん・・・、橙とはどういう意味かな?」


震えながらも動揺を抑えようとしている祖父の声も虚しく、花はただにっこりと笑う。そして祖父の手をあっけなく放すと、再び滑り台の方へ駆け出してしまった。


「あ・・・」


弱弱しく伸ばされた手は、もちろん花には届かない。高広はなぜかそれが切なく感じ、祖父の背中に手を当てた。


「じいちゃん、どうした?体調が悪いのか?」


体の不調ではないことくらい明白だったが、気遣う言葉を探すとこれしか浮かばなかったのだ。祖父は首をフルフルと振ると、ポツリと呟く。


「千恵子さんが・・・」


か細い声だったが、高広は聞き逃さなかった。思わぬ人物の名前が飛び出たので、とっさに聞き返す。


「じいちゃん、千恵子さんて?」

「・・・・・・」


祖父は答えることなく、ただ背中を丸めて俯いてしまう。それが他ならない拒絶だと悟ると、高広の気も沈んでゆく。

そんな重い空気をもろともせず、落ち着いた声が隣から飛んできた。


「橙は赤と黄色の中間に位置する暖色。自身に溢れるエネルギー、そして賑やかさを誘い、人を陽気な気分させる効果がある」


場違いにもほどがあるのではと、いつもなら頭に来ていただろうが、この時はなぜか目の前の男の声に顔を上げ、次の言葉を待った。




橙。千恵子。祖父の反応。




結びつかない三つの言葉だが、決して無関係だとは思えなかった。気まぐれな子供が気まぐれに発しただけかもしれない言葉が、なっぜか高広の中で強く存在感を示してくる。


「そして、人との温かい繋がりを示す色でもあります」


男の言葉に反応するかのように、祖父はゆっくりと顔を上げた。まるで男の言葉に縋るような仕草だった。


「それは、私と誰かがそれで繋がれていると考えてもいいんじゃろうか」

「私には分かりません。花が言った『橙』の説明をしているだけですので。それに、それがどのような形をして現れているのか、それを知っているのは花だけです」


三人の視線が無意識に花の方へ向けられる。神妙で複雑な空気を作り出した張本人は、飽きずに繰り返し滑り台を堪能している。

なぜ祖父に向かって『橙』と口にしたのか。それは分からないが、祖父の何かの核心をついたのは間違いなかった。

高広が不思議そうに花を見つめているのを見て、男が穏やかに笑う。


「花は何を伝えようとしているんでしょうか」


疑問符を付けた語尾だが、男が嬉しそうにしていることは明白だった。だがそれを非難することをなぜか躊躇ってしまう。

それはきっと、妙な高揚感と幻怪なものを目の当たりにした影響で、思考がゆっくりとほぐされたような心地になったからだけではない。


花の些細な一言がとても重要な鍵だと、どこかで予感している自分がいることに気付いたからだった。













まだ遊び足りずに駄々をこねる花を宥め、にこやかに手を振って公園を去ってゆく二人を見送った後、高広たちも帰路についた。祖父は帰る間、さしていつもと変わらないように思えたが、高広は気が気でならない。

結局祖父に詳しいことを聞けずに家に帰ることになり、高広は自室のベッドに身を埋めた。ごろりとだらしなく横になりながら、なぜか花の言葉を思い出す。



橙。



傍にあった携帯で『橙』と検索してみる。表示された色見本は、どこにでもありそうなオレンジ色と大差ないように思えた。今度は『オレンジ色』と検索する。すると先程とは異なり、複数の色が出てきた。

よくよく調べていくと、オレンジ色というはっきりした色はないようだ。オレンジ色系統の中に橙色が存在する、と言った所だろうか。つまり橙をオレンジと言っても間違いではないことになる。花が「橙!」と叫んでも「オレンジだ!」って言い切ることは可能だたということだ。

今度花に会ったら必ず言ってやろう。そう心に誓う。再び会えるという確信はないのだが。

ふと、手の中の携帯が震えて音を出した。表示された人物の名を見て思わず顔をしかめるが、このまま無視をすると後が怖いので応答することにする。


「もしもし」

『あんたって暇なの?』

「たまたま手に持ってただけだ。用がないなら切るぞ」

『健太先輩に何か言った?』


電話の向こうの苑子が前置きなく話を始めるので、高広は仕方がなく体をベッドから起こした。だからと言って慌てるわけではなく、ただよく分からず呆れる。


「思い当たることがないんだが。あぁ、部活でお前のことを軽く相談されたな」

『あたしのこと、突拍子もないとか言ったでしょ』


怒っている様子は見受けられないが、責めるような口調にも慣れた高広がひるむことはない。


「自分でもそれくらい自覚してるだろ」


今更そう言われたところで、苑子が傷つくことはないはずだ。


『まあね、あんたによく言われていることだもの。他には何か言わなかった?』

「・・・健太先輩が言ったのか?」


すると苑子の声の勢いがピタリと止む。どうやら図星だったらしく、高広は頭をガシガシと掻いた。


成程。どうやら健太先輩は、俺をダシに使ったらしい。


二人の間でどのような会話がなされたかは知らないが、自分に火の粉がかかるのはおかしい。だからごまかすことなく正直に伝える。


「他に特別悪いことは言ってない。お前の事だからしっかり考えてる筈だって言っただけだ」

『・・・・・・』

「まあ、お前が俺じゃなくて先輩を信じるのなら勝手だけど」

『どうしてそんなこと言うの?』


苑子が心底驚いているのが読み取れて、おかしくて笑ってしまいそうになる。


「恋人を信じるなっていう方が酷だろうが」

『・・・・・・』


しばらく沈黙が続く。このまま切ってしまおうかと思ったが、そんなことしたら後でどんな仕返しが来るか分からない。


『あたしは・・・』

「ん?」


珍しく弱い声がしたので、柄にもなく抜けた声を出してしまった。


『あたしは、二カ月しか付き合いのない彼氏より、ひねくれ者でどこか冷めてる幼馴染を信じる』

「俺は別にひねくれていない。少し考えがシビアなだけだ」

『とにかく、他に何も言っていないのね?』

「お前を怒らせるとどうなるか、一番理解している俺が余計な事すると思うか?」

『確かに。あんたは学習する男だもんね』

「褒め言葉として受け取っておくよ」


電話越しでも苑子の調子が戻ってきたのを感じ取り、高広は安堵して体をベッドに沈める。


「用はそれだけか?今日は疲れてるんだ」

『土曜日の件、忘れないでね』

「わかってるよ」


そういうや否や、向こうから突然通話を絶たれる。高広は特に気にする風もなく、携帯をベッドの上に放り投げる。


「面倒だ・・・」


その言葉が何に対してなのか、高広自身もよく分からなかった。











だいたい何かしらの予定を立てていると、その日があっという間に来てしまうと感じるのは自分だけだろうか。部活を終えて待ち合わせのハンバーガー店に着いた時、苑子は席でのんびりシェイクをすすっていた。


「もう昼は食べたのか?」

「一人で食べても美味しくないじゃない」


何を言っているの?と憤慨するような視線を投げかける苑子に荷物を預けて、高広は注文に向かう。当然のように頼まれた苑子の注文も済ませ、二人分のハンバーガーを手に再び席に着いた。


「ハンバーガー代」


ずいっと手を差し出すと、呆れながらもその手に小銭が乗せられる。


「あんたね、デートの時にそれしたら確実に嫌われるよ」

「余計なお世話だ」 


ハンバーガーの包みを開いてかぶりつく。ほんのりと頬を緩ませる高広を、苑子は肘をつきながらじっと見つめる。


「食わないのか?」

「あんたって本当幸せ者よねえ」


訳の分からない皮肉を言いながら、苑子もハンバーガーの包みを開けだす。

ふと、苑子の身に着ける服がこれまたみたことないシフォンのワンピースであることに気付いた高広は、心の中でまたかと呆れ果てた。学校以外で会うたびに違う服を着てくるものだから、一体苑子のクローゼットがどうなっているのか本当に気になる所だ。

早々に食事を済ませ店を出る。住所が書かれた苑子のメモを頼りに進んでいくと、見知っている住宅街にたどり着いた。高広たちの住む所から駅を挟んで反対側にある場所だが、さして遠い距離ではない。高校の友人の家もあるので何度か足を運んでいる。

苑子もまだ土地勘のある所のせいか、住所だけを頼りに迷いなく進んでいった。高広は黙ってその後に続く。


「あった。ここね」


苑子が足を止めたのは、古くも品のあるこじんまりとした屋敷だった。表札には“宮野”と書かれている。インターホンを押すと、中から祖父と同じ歳ほどの老人が姿を現した。あらかじめ苑子の母が連絡をしていてくれたらしく、お婆さんはなんの戸惑いを見せることなく笑顔で高広たちを家に上げてくれた。牡丹の花が鮮やかな赤を彩っている小さな庭がすぐ見える部屋に通される。


「嬉しいわ。こんな若いお二人が遊びに来てくれるなんて」


皺の刻まれた顔を綻ばせながら、お茶と美味しそうなどら焼きを出してくれる。高広はにんまりと口元を緩ませて餡子の優しい味を噛みしめた。


「お婆ちゃん、この人たちに見覚えはありませんか?」


携帯の画像をプリントアウトした紙を見せると、宮野さんは眼鏡をかけてじっくりとその写真を吟味した。白黒の写真なので判別が付かないかもしれないという心配もあったが、宮野さんのあぁ、という声でそれは杞憂だったと安心することが出来た。


「千恵子さんじゃないか。なんとまあ、懐かしい」


はっきりと聞こえた人名に、高広と苑子は思わず体を前のめりにする。


「知っているんですか!?」

「えぇ。この辺のお屋敷の娘さんだったのよ。子供の頃よく遊んでもらったわねえ」

「この隣の男性はご存知ありませんか?」

「あぁ、この人も見たことがあるよ。名前までは知らないけれど、二人でいるのをたまに見かけたねえ」


しみじみと昔を懐かしんでいるようで、宮野さんの視線が遠くなる。


「千恵子さんは元気で活発な人でねえ。お嬢さんとは思えないくらい気さくな人だったのよ。人懐っこくて知り合いが多くて、彼女の周りはいつも笑顔で溢れていた。若干強引な所がまた男らしくてねえ。当時からしたらとても珍しい人だった」


紙を苑子に返した宮野さんは続ける。


「そうそう、自分の家の柿を分けてくれたこともあったねえ。上等な着物を捲って躊躇くなく木に登って取ってくれたっけ。後で自分のお父様に『じゃじゃ馬が!』って叱られたって、なぜか大きな口で笑いながら話してくれた。懐かしいねぇ」


どうやら千恵子さんは、写真からは想像できないお転婆娘だったようだ。そんな千恵子さんと堅物で変人の祖父。なんとも異色すぎる組み合わせだ。

高広は小さく息を吸って体を若干前のめりにして尋ねる。


「隣の男の人のことは何か知りませんか」

「この人はねえ・・・。何度か見かけることはあっても、ずっと本を読んでいたから話したこともなくて」

「そうですか・・・」


歯切れの悪い返答に高広の肩が項垂れそうになる瞬間、宮野さんはしみじみと、ぽつりと言った。


「でも・・・」

「でも?」

「いつも楽しそうに話していた二人だったけど、一度だけ神妙な顔つきで向かい合っていたのを見かけたことがあるのよ。あんなに悲しそうに笑う千恵子さんは初めてだったからよく覚えてる。後にして思えば、あの二人は恋仲だったんだろうねぇ。丁度その頃だったよ。千恵子さんが嫁に行ったのは」

「お嫁にですか?」

「その当時ではよくある話さ。千恵子さんは大きなお屋敷の娘だったら特にね。確か・・・そう遠くない大きな地主の嫁に入ったんじゃなかったかね。だが格のある家の嫁になるとそう簡単には出歩けないし、他の男と会うなんて許されないから、私もそれっきり千恵子さんには会うことはなかった」


自由な恋すら叶えられない時代に生きた二人。本の中でしか聞いたことのない話を人の口から語られると、急に現実味を帯びてきた。それが祖父の身に起こっていたなら尚更だ。


「その後、千恵子さんがどうなったかは・・・」


宮野さんは黙って首を横に振る。それが全てを物語っていた。


「懐かしいねえ。私にとって千恵子さんは憧れの人だったのよ。嫁に行くときの千恵子さんの白無垢姿が美しかったこと」


うっとりと瞳を緩ませる宮野さんの昔話は続いた。途中から昔はああだこうだったと苦労話や世間話に切り替わっていったが、二人はその話に耳を傾けるのだった。

ひとしきり話して満足したのか、宮野さんはなくなったお茶を淹れるために立ち上がった。珍しい話が多くて飽きることはなかったが、他人の家という気疲れからか大きく息を吐く高広に、苑子は小さく囁く。


「お茶を頂いたらそろそろ帰ろうか。これ以上千恵子さんの話はなさそうだし」

「そうだな・・・」


タイミングよく宮野さんがお茶を運んでくる。目の前に差し出されたお茶の水面を眺めた時だった。なぜだかその水面に、かの公園で出会った奇妙な少女の顔が浮かんでいるように見えたのだ。そして唐突に思い出すものがあり、高広はハッとして宮野さんに視線を向けた。


「最後に一つお聞きしてよろしいですか」

「高広?どうしたの」


間の抜けた表情から一気に真の詰まったそれに切り替える。


「橙、と聞いて何か心当たりはありませんか?」


言ってしまった後でバカバカしいと心の中で自身をあざ笑う。あんな怪しすぎる少女の適当な発言に執着している自分が滑稽に思えてくるが、その反面で賭けてみたいという期待もあった。


「橙・・・」


唐突な質問にも関わらず、宮野さんは顎に手を当てて真剣に考えてくれる。


「あの、橙というのはオレンジに似た色でして・・・、えっとその・・・」


意味不明な動揺を示す高広だったが、次に宮野さんがハッとした表情を見せた時、己の淡い期待に対する不安は杞憂に終わることになる。









「そうそう、千恵子さんはいつも橙の着物を着ていたの。活発な千恵子さんによく似合っていたわ。懐かしいわねえ」











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