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花ちゃんの色言葉  作者: 望月 薫
一色目  橙
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第三話

その人は千恵子さんと言った。聞けば本を貸してもらっているお屋敷の娘で、僕のことをずっと知っていたらしい。


あの日から千恵子さんはちょくちょく僕の前に現れた。あまり女慣れしていない僕にちょっかいをかけてきたり、黙って隣に座って鼻歌を歌ったりと自由な行動をする。そんな千恵子さんの気ままな行動に内心戸惑いながらも、僕は読書に徹するのが常になっていた。


「ねえ、いつも何を読んでいるの?漢字ばかりでつまらなさそう」


自分より年上の千恵子さんに押されるように、僕はぼそぼそと口を開く。


「そうですね、僕は軍記ものが多いです」

「軍記もの?」

「室町時代から近世初期くらいまでの、戦国武将や近世大名の話を物語にしたものです」


完結に分かりやすく説明したつもりだったが、千恵子さんは納得の色を全く示さず難色の意を示すように口を尖らせる。


「なにそれ、全然分からない。そんな難しいのよく読めるわね」

「そう、ですかね」

「で、今は何を読んでいるの?」


難しいと言っていたので題名を言っても理解を示さないことは明白だったが、それを本人に言うとまた膨れそうな気がしたので堪えることにした。


「頼山陽の『日本外史』第七巻です」

「日本外史?知らないわ」


予想通りすぎる反応だったため特別落ち込むことはなかったが、自分から聞いてきたくせにそっけない態度だったのが少し後を引いた。だが当の本人はその事をあまり自覚していないようで、


「ふーん。幸彦さんは日本外史が好きなのね。でもそれお父様のでしょ?自分のは欲しくないの?」


その瞬間、僕の頭が異様に沸騰したのが分かった。それは怒りではなくいい意味での興奮からだった。


今の僕の経済状況では一番安い本も買えないのだが、将来は本に埋もれて暮らしたいと思っているほど、自身の本を手に入れたいと願っている。


「それはもちろん・・・!」


思わず力が入ってしまい、僕は胡坐のまま勢いよく千恵子さんの顔を仰ぐように見る。


「あ・・・!」


思っていたより千恵子さんの顔が近くにあり、頬が瞬く間に紅潮していく。それを悟られまいと、僕はとっさに顔を背けた。


「?どうしたの?」

「い、いえなんでもありません」

「ふーん」


千恵子さんは特に気に留めることはなかったようだ。僕の顔を探るような視線を向けたのは一瞬で、すぐに飄々とした表情を作る。


「ねえ、そんなに歴史が好きならさ、調べてほしいことがあるの」

「調べてほしいこと?」

「そう。そのお願いを聞いてくれたら、『日本外史』をあげるわ」


流してしまいそうだった言葉に重要な発言が隠れていたのを、僕は聞き逃さなかった。信じられないといった表情を、千恵子さんと手の中の本に交互に向ける。


「えっ。でもこれは・・・」

「その本じゃないわよ。それはお父様の物だもの」

「じゃあ、どうやって・・・」


日本外史は勿論、このご時世で本は高価なものだ。いくら大学教授のお嬢さんとはいえ、簡単に購入できるはずがない。


そんな僕の疑問を読み取ったのか、千恵子さんは得意げに笑ってみせた。


「大丈夫よ。私が約束を破るなんて、そんなことありえないわ」

「は、はあ・・・」


その受け入れにあまり気乗りしない僕だったが、堂々と断言してみせた千恵子さんの希薄を前に断る根性が、僕には備わっていなかった。ずれてもいない眼鏡を指で上げ、小さく咳払いをする。


「で、僕は何を調べたらいいんですか?」


妙に熱を帯びる頬に気付かないフリをし、僕は千恵子さんの顔を見る。


そんな僕を見て、千恵子さんは最高のご機嫌顔をしてみせる。そのあでやかな笑みに、僕の胸が思わず高鳴る。


「赤い糸よ」


その一言だけを放った千恵子さんが、なぜか一瞬だけ悲しげな表情を見せたのを、僕は後になって身を以って知ることになる。


















祖父の想い人かもしれない千恵子を探すと息巻いてみたものの、高広はどうしたらいいのか全く見当がつかなかった。それを苑子に言うと、


「これだからあんたは。いつも見切り発車で何も考えてないんだから」


やっぱりあたしがいなきゃね、と自信たっぷりに告げた苑子にむっとするも何も言えない。


二人は学校の屋上にいた。昼休みの時間を使って作戦会議といった所だ。


いつもは健太先輩と昼食を取っている苑子からの提案で驚いたが、それも本人たちの問題なのであえて口を挟むのを控える高広は、二段の弁当を食べ終え、購買で買った焼きそばパンの包みを開ける。


「まずね、当時の事を知っている人から話を聞くのがいいと思うの」

「そんなに自信ありげに言うんだから、心当たりがあるんだろうな」

「うん、昨日お母さんに聞いて教えてもらったの。昔からこの地域に住んでいる人」


苑子の母親は介護士だ。この辺では一番大きな介護センターで働いており、老人の情報ならよく知っているのだろう。


「よく教えてくれたな。そういうのって個人情報とかで問題ありそうなのに」

「高広って変な所で気を遣うよね。お母さんは人から信頼があるし、娘だって言えば問題ないわよ」


ある意味そこら辺の男より度胸が据わっている苑子の頼もしさは本当にうらやましい。


「デイサービスで通っているおじいちゃんがいるんだけどね、そこの奥さんが三十年近くここら辺に住んでいて物知りなんだって。あの公園の話とか、もしかしたらおじいちゃんの事も知っているかもしれない」

「どうだろうなあ。祖父ちゃんは悪い人じゃないけど、あまり人付き合いは得意じゃないから知らない可能性が高いぞ」

「そんなの聞いてみなきゃわからないじゃない」

「はいはい」


大きな一口で焼きそばパンに噛り付いて咀嚼するのでしばしの間ができる。長い付き合いなのでそんな半端な間に気まずさは一切なく、苑子も頬を緩ませながら小さな弁当に箸を入れている。


季節に似合わず日なたが心地よく、焼きそばパンが思っていたより美味しかったせいか、高広の心は完全に緩み切っていた。モグモグと口を動かしながら思っていたことを口にしてしまう。


「お前、今日健太先輩と飯食わなくてよかったのか?」

「え」


自然に出た内容に高広は自分で驚くが、その瞬間に苑子の口から突拍子もない声が漏れたことにも目を見張る。


「あ、悪い。ふと出た」

「なにそれ。意味分からない」

「俺が一番驚いている」

「何高広、気になるの?」

「一応お前らのキューピッドだし?」

「しばらく距離を置こう」

「あ?」

「あたしがそう言ったの」


飲みかけていた焼きそばパンを喉に詰まらせそうになる。幸い上手く胃に収まり、高広はペットボトルのお茶を勢いよく流し込んだ。


「・・・お前ら、まだ付き合って二カ月じゃなかったか?」

「もう二カ月よ」

「どうした、先輩が浮気でもしたか」


冗談めかして言ったつもりだったが、苑子の覇気が少し欠けていることに気付き、高広は面食らってしまう。それが自身の言葉を肯定しているように見えたからだ。


「嘘だろ?まさか健太先輩が・・・」

「違うわよ。先輩は浮気なんてする度胸ないもの」


褒めているのかけなしているのか分からないが、どうやらその可能性はないらしい。


「ただ単に距離を置きたくなったの。なんか・・・、いろいろ合わないことがあって」

「合わないこと?」

「そう、合わないこと。趣味や食べ物の好み、目玉焼きには何をかけるのか、デートのランチで食べたパスタは割り勘か奢りか、朝起きたら最初に何をするのか、初対面の人のどこを最初に見るのか、靴下はどっちから履くか。まだ聞きたい?」

「もういい。つまり何もかも合わなかったということか」

「まあね。それはあくまできっかけだけど。他人と考えが合わないなんて当たり前でしょ?だから仕方ないって考えることもできるんだけど、最近ちょっとね」


苑子がいつになく話をはぐらかすので、高広はそれ以上何も言えなくなってしまう。もう詮索するのはやめろと暗に示していると判断した高広は再び話を戻した。


「で?いつ行くんだ」

「今日」

「帰宅部のお前の都合で考えるなよ。部活をさぼるつもりはないからな」

「じゃあ今週の土曜日ね。お母さんに仲介してもらって連絡入れといてもらった方がいいかな。いきなり来られて昔話教えてくださいっていう方がおかしいもんね」

「土曜日も午前中は部活だ」

「昼から行けばいいじゃない。あ、面倒だから昼もどこかで済ませてから行こうよ」

「もういい。勝手に決めてくれ。俺は大人しく従う。ただし、昼はハンバーガーだ。それ以外は行かないからな。あと奢るつもりもない」

「あんたにそんなこと期待してないわよ」


昔からの知り合いというのは本当に楽である。遠慮なく切りかかるのは既に清々しささえ感じてしまう。皮肉も相手の傷つかない程度が分かるので都合がいい。


「ねえ高広、赤い糸の話覚えてる?」

「ん?お前が昔よく指に巻き付けてたやつか?」


小学校低学年の頃、苑子は左の小指に赤い糸を巻き付けて遊んでいた。当時赤い糸の逸話なんてメルヘンチックなもの知らなかったので、苑子オリジナルのおしゃれなのかと思っていた。


高広の返事を聞いた瞬間、苑子は意外そうな顔を見せる。


「へー、覚えてたんだ」

「お前な、あそこまでこき使われた出来事を忘れるはずないだろ」


高広が苦い表情をするのには理由がある。


苑子はよく小指を掲げて自慢そうにしていたのだが、ふとした時に糸が指から抜けてどこかに行ってしまったことがあった。


あの時の苑子の横暴ぶりは今でも忘れられない。糸がなくなったと気付いた瞬間、周囲の目も気にせず泣き喚き、ひどいしゃくり声で一緒に探せと命じてきたのだ。その場所が二人の近くの空き地で、足元が雑草で茂っているという最悪のコンディションでだ。おかげで暗くなるまで二人で探し続けたのだが見つからず、その上遅くなったせいで二人揃って怒られたという最悪の思い出である。


「傍から見たら俺がいじめて泣かせたと思われるし、お前はお前で泣きながら俺を帰さないし、あの日ほど厄日だったことはないね」

「だって仕方がないでしょ。運命の人と繋がっているかもしれない赤い糸よ?まだ純粋だったあたしにとっては大問題だったんだから」

「今は純粋じゃないって認めるんだな」

「大人になったって事よ」

「もう少し落ち着きを覚えてから言ってほしいね」

「赤い糸ってね、中国にもあるんだよ」

「は?」


話の流れがいきなり切り替わるのも苑子の特徴だ。おかげで聞き手は思考回路を切り替えるという作業を要求させられる。長年の慣れというのは恐ろしく、高広はそれをほぼ無意識にやってのけた。


「日本と由来は違うんだけど、意味は殆ど同じ」

「お前そんなことに興味なんてあったのか?」

「おじいちゃんに教えてもらったの」

「じいちゃんに?」


ペットボトルから口を離して苑子を仰ぐ。そのような話は祖父の専門外だったはずだ。


「小学校の頃ね。その話を聞いたから付けてたのよ。後になってそれは物理的なものじゃないってことをようやく理解したけどね。可愛い思い出よ」

「中国の由来ってどういう話なんだ?」

「そんなこと覚えてないわよ」


何を言っているんだと言わんばかりの表情を向けた苑子に、予想できた返答だと示そうと大きな溜息を吐いて見せた。


「断片的な情報では知っているとは言わない。人に解説できて初めて自分のモノにできたと言えるんだ」

「あたしは教育者でも学者でもないからいいのよ。あんたの周りの常識に合わせたらこっちの身が持たない」


昔から苑子が言うセリフだ。それは歴史学者の祖父と、やり手の証券マンである父という一風変わった高広の家庭の事を言っているのだろうか。


いつからか深く考えていなかった疑問がじんわりと滲みだし、高広は何を思ったか、それを打ち消す様にペットボトルのお茶をがぶ飲みした。












その日の放課後。高広はバスケットボールのウエアに着替え、一年の仲間と共に外周を走りこんでいた。

高広の高校のバスケットボール部は、お世辞にも強いとは言えない弱小部だ。部員が少ない上に経験者も少ない。高広も含めほぼ全員がしっかり参加しているが、まるでサークルのようなノリがある所があるので、常に緩い空気が流れている。


高広がこの部活を選んだのもそれが理由だった。中学時代はハンドボール部に所属していたのだが、一日中練習に狩り出され、休日も当たり前のように存在せず、地獄のような暑さの中走らされるなんて稀という厳しさで、年中満身創痍だった。高校ではいろいろな知識を吸収時間が欲しいと思い、だが定期的に体を動かしたいという欲求もある中、『経験なしでもウェルカム!』と雄たけびを上げていたバスケットボール部の広すぎる門をくぐったのだ。


そしてふたを開けてみれば、大会に出ても大した実績もなく、そもそも発足されて間もないという状況のため、どうしても部員のモチベーションが低い。そんな良い意味での和やかな雰囲気が気に入っている。


ここで部のたるんだ空気を引き締め、大会で功績を残そうと意気込む熱血な顧問や生徒が現れたら、高広は間違いなく大掛かりなストライキを起こすだろう。その点に関しては現部員の意見は一致している。平穏で健全な自由な俺たちの部活をどこぞの牢獄にしてなるものか。


軽く走りこんだ所で、各々でフリースローが始まる。高広もボールを数回ドリブルさせながらそれに加わろうとした時、後ろから野太い声をかけられた。


「辻。ちょっといいか」


振り向いてすぐに、自分でも苦い表情をしているか不安になるくらいに頬が引きつった。


その理由は明白だ。昼食の際、苑子との間で話題に出ていた先輩・町田健太だったからだ。


「は、はあ。何か」


健太は当たりをきょろきょろと見渡し、短い髪を立たせた頭をガシガシかきながらバツの悪そうな顔をする。


「お前さ、苑子から俺達のこと聞いてるか?」


案の定すぎて逆に返答に困ってしまう。とぼけてしまうことも考えたが、自分の目が泳いでしまったのでその道は閉ざされてしまった。


「あまり詳しくは聞いてないっすけど、距離を置いているとは言ってました」

「そうか・・・」


居たたまれないくらいに思いため息を吐く健太を見ていると、なぜか高広が申し訳ない気持ちになる。これでも一応、二人の間を取り持った責任を感じているのかと思ったが、自分はそこまで責任感があるはずではなかったはずだ。


「まいったよ。いつものように一緒に帰ってた時に突然言われたから。突拍子のない所があるとお前から聞いてはいたが、まさかああも唐突とは・・・」

「何か思い当たることはないんすか?」

「いや、全然。喧嘩とか言い争いもするほど、互いの事をよく知らないままだし。まだ付き合って二カ月だぜ?」

「『もう二カ月だ』ってあいつに怒鳴られましたよ」

「まじかよ。あー女って分からねえ」


出た、健太先輩の口癖。


「まああいつのことなんで、このまま有耶無耶にするってことはないっす。何か考えがあるはずなんで」


そう言う高広だったが、長い付き合いである高広でさえ、苑子の思考を先読みできた試しがない。興味なさそうに突っぱねているつもりでも、最終的には苑子のペースに乗せられているのが常である。


健太は中途半端にひねくれている性格が高広と似ている。だから苑子も同じ対応をしがちなのかもしれない。長い付き合いだからこそ許される態度とその返答が、少し異なって戸惑っているだけだろう。


「困ったな。メールをしても返信がないんだ。理由も言ってくれないし手の打ちようがない。ったく、これだから女はよく分からない」


二回目だ。正直の所、高広はこの口癖が好きではない。


「お前からも何となく聞き出しといてくれよ。頼んだ」


頼んだ、と言われても。


後ろ手に手を振って去る健太からはあまり深刻さが感じられない。そもそも本当に困っているならもっと自分で行動するんじゃないだろうか。


軽率とは言い過ぎだが、どうも深く考えていないらしい。苑子が理屈なく行動するのは実はかなり由々しき事態だったりするのだが、高広はそのことをあえて言わないことにした。あまり他人が干渉するのはよくない。


あぁ、面倒だ。今の俺は他人の事を気にかけるほど余裕がないというのに。


ボールを強く掴みキッとゴールをにらみつけると、沸々と湧いてきた鬱憤を晴らすかのように力任せにシュートした。


だがボールはスピードがつきすぎたのか、ゴールに入るどころかバックボードに勢いよく体当たりし、あらぬ方向に跳ね返ってしまう。


「おい高広。何やってんだよー」


同級生からの茶化しにも反応する気にもなれず、誰にも聞こえないようにした舌打ちがいつまでも耳に響いた。













部活を早めに切り上げ、高広は寄り道せずに家に向かっていた。珍しくやけ食いでもしたい気持ちではあったが、金が勿体ないという己の性分が勝ってしまった。家に何か腹に収めるものがあることを祈るばかりである。


例の公園の前を通るのは、実は少し遠回りになる。だが祖父が退院したあの日から、高広の帰宅コースになってしまった。


見慣れた銀杏の木が見えてくると、すぐに公園の中が一望できる。また祖父が来ているのではと思い覗き込む高広だったが、途端に顔を渋くした。


つい最近見た白いワンピースが、これまたくるくると回っているのが目に入った。上の木々を仰ぎながら両手を広げ、落ちてくる葉を全て受け止めそうな力強さで腕を伸ばしている。


何かを叫んでいるように見えるが、高広からは何を言っているか分からない。だがその謎を追及する気はさらさらなく、高広は見なかったことにして素通りしようとした。


だが公園の入り口に差し掛かり、わき目を振らずにまっすぐ進もうとした時、


「クロ・・・」


ズシャ。


軽快な声が唐突に止み、代わりに砂が乱れる音が聞こえたので、高広は思わず足を止めて公園の中を覗いた。


あちゃー。派手に転んでるよ。


あれだけ激しく回っていたので当然と言うべきか。三半規管がやられて木の太い幹に足を引っかけてしまうことくらい、子供でも理解できそうなものだが。


先程の身軽な動きとは裏腹に、少女は倒れて顔を突っ伏したままピクリとも動かない。すぐに泣きだすかと思ったが、そのまま呼吸を止めてしまったのではと思うくらいに微動だにしない。


高広はその姿から目を逸らし、再び歩き出そうと試みる。だが二、三歩進んだ所で遠いすすり声が聞こえ、思わず足が止まってしまった。


その場で立ち止まり、しばらくの葛藤の(のち)、何かをあきらめたように大きく息を吐いた。


「・・・あぁ、もう!」


頭をガシガシ掻いて舌打ちをすると、踵を返してずかずかと公園の少女の元へ向かう。


「おい大丈夫か?」


一向に顔を上げない少女の傍にしゃがみ込むと、高広はそっと声をかける。するとそれが皮切りになったのか、少女の震える声が一層大きくなった。


「ほら立て。大丈夫だから」


肩に手を当て立つように促すと、少女はようやく泣き顔を高広に向けた。声を堪えているのか、顔中が泥と深い皺で一杯になっている。


おかしな子供だ。さっきまで幼く舞っていたのに、泣き声を上げるのを堪えるなんて。


足が痛むのか、少女はしゃくりあげながら腕の力だけで立ち上がろうとする。いくら体が華奢とはいえ、こんな細い腕で支えられるはずもない。高広は慌てて少女の脇に手を滑り込ませた。


「あぁほら。大人しくしてろよ。よ・・・っと」


小さい体なので持ち上げることなど容易い。高広の力でようやく立ち上がった少女は、涙が溜まった目を乱暴に拭おうとする。


「こら、汚れてる手で拭くな。あぁ、ちょっとだけど血が出ているな」


少女の膝小僧からうっすらと血が滲み出ている。大した傷ではないが、子供が泣く分には充分な威力を持っているだろう。


無骨で大雑把な男子高校生が、絆創膏など気の利いた物を持っている訳がない。駄目元で鞄をガサゴソと探ると、いつか母親に押し付けられたハンカチが皺だらけの状態で出てきた。


こんな物でもないよりはましだ。高広は公園の入り口にある蛇口に視線を向ける。


「ちょっと待ってろ。ハンカチを濡らしてく・・・、あ?」


方向転換して足を踏み出そうとした時、制服の裾が微力に引っ張られるのを感じ取る。怪訝に思い首だけで背後を見下ろすと、少女が小さく肩を震わせて俯きながら、高広の服をしっかりと掴んでいた。それを見て高広は思わず形容しがたい顔をしてしまう。


「何してんだよ。これじゃ歩けないだろ」


少女はただ目を擦りながら首を振る。行くなという意思表示だろうか。前に進もうと試みるたびに少女の手が服を引っ張る。


「すぐ戻って来るだろ。いい加減に手を離せ」


微かな苛立ちを覚え、思い切って振り切ろうと足を強く踏み込むも、それでも少女の手はさらに強く服を掴んで離さない。こういう時の子供の力は侮れないものだ。まさか今それを痛感することになろうとは。


一向に進歩がない戦いを続けていたが、最後に折れたのは高広だった。がっくりと肩を落として小さく舌打ちをすると、半ばやけくそに叫ぶ。


「分かったよ!お前も連れて行けばいいんだろ!?」


その後の高広の行動は非効率極まりなかった。小さくぐずる少女を抱えて水飲み場に向かい、繊細で壊れそうになる足にハンカチを当てるのに四苦八苦し、再び少女を抱えて向こうのベンチに腰掛けさせる。引きずって行こうとしたのだが、少女が一向に動こうとしなかったのだ。


やっていることが矛盾しすぎていて理解に苦しむ。これだから子供は嫌いなんだ。


いくら体が小さいとはいえ、子供を抱えて歩き回るのは骨が折れる作業だ。ようやっと自分もベンチに座った時、高広は一生分の疲労を感じた気がした。


「なんで俺がこんな目に・・・」


肘をついて独り言でそう呟くと、何気なく隣の少女に視線だけを向ける。少女は依然高広の制服を掴み、もう片方の手で傷口を押さえていた。少し赤くなった小さい目は、高広が差し出したハンカチに向けられている。


もう囁きに近い泣き声は聞こえなくなったが、先ほどから一言も口を開かない。どこにでもありそうなハンカチを見ていて何が楽しいのか分からず、なぜか妙に気になって高広から声をかける。


「おい、そんなもの見て楽しいのか」


返答はない。


「おい、聞こえているのか」


またもや返答なし。微動だにさえしない。


「お前な、返事くらい・・・」


そこでふと、迎えに来た男が少女を『花』と呼んでいたことを思い出す。柄にもなく妙な意地が出る。


「・・・花」


瞬間、少女の顔がこちらに振り向く。突如名前を呼ばれたのに驚く素振りすら見せない。それどころか満面の笑みをして見せるので、呼びかけた高広の方が面食らってしまう。


先程まで泣いて駄々をこねていた姿はどこへやら。相手の変貌ぶりに呆気に取られている高広を、花は輝かしい目で何かを訴えている。


「な、なんだ・・・?」

「これ」

「これ?」


花が指さしたのは、先ほどから熱中して眺めている紺色のハンカチだ。それを軽く叩いて楽しそうに笑う。


「色!」

「色?紺色だろ、それ」


花はブンブンと首を振る。


「ネイビーブルー!」

「は?ネイビー?」


ネイビーブルーとは聞いたことがあるが、それがこの色だとは認識していなかった。高広のカテゴリーでは紺色との違いが分からない。


「紺色じゃないのか、それ?」


首を傾げると花は心底不思議そうに口を歪め、今度は高広の鞄を指さす。


「紺色!紺色!」


指を指してそう訴えるので、二つを見比べてみる。だがパッと見、違いがよく分からない。心無しかネイビーブルーの方が薄く感じるものの、やはり殆ど一緒だ。


「同じ色だろ。商品が違うからそう見えるだじゃないか」


だが花は聞く耳を持たず、二つの色を交互に指してはしゃいでいる。もう先ほど怪我をして泣いていた面影は既になかった。すっかり調子を取り戻したらしく、再び回り始めそうな勢いがある。


「紺色!ネイビーブルー!」


子供独特の甲高い声で叫ばれるので、肩がいちいち驚いて上がってしまう。高広は頭を抱えたくなる衝動に駆られた。


先程から会話という会話が成立していない。いくら相手が子供だとしても、主語と目的語くらい明確であってもいいはずなのに、この子供は断片的な単語を放つだけで何を考えているのかさっぱり分からない。おまけに放たれる言葉がどれも飛躍しすぎている。


「んー!んー!」


唐突に服を引っ張られたのを感じ、高広はハッとしたように花の方を振り向く。花は空を仰いで上を指さしている。そして高広に何かを求めるように羨望のまなざしを向けてきた。それを見て高広は少し体を後退させた。


「な、なんだよ」

「ん!」


空を何度も指さし、何かを訴えている。


話の流れからして、色を当てろと言っているのだと解釈した高広は、花を同じように空を仰いだ。


どこまでも澄んだ秋空を占めているのは、白みがかかった、すっきりとした水色だ。


「あれは水色だろ?」


全部言い終わるより早く、またもや花は首を大きく横に振る。


「空色!」


「は?空色と水色なんて何が違うんだよ。そもそも空色なんてあるのか?」


自分の考えを否定したいだけじゃないのかと疑い始めた時、明らかに花と自分じゃない、第三者の声が頭上から降ってきた。


そう、それもまた唐突に。


「いいや、空色は存在するよ。空色の方が気持ち濃く見えるんだ。本当の水色は僕らが思っているより白に近いんだよ」


視界を満たしていた空色の景色に、落ち着いた声と長い前髪の男が突然現れる。空を見上げていた高広は思わず飛び上がった。


「おわっ!」


驚きの根源である男は、ニコニコと笑った笑みを崩さず、花と高広を交互に見る。


長い髪にだらしない服装には覚えがあった。前に花を迎えに来た男だ。相変わらず眠くなるような、温厚な雰囲気を醸し出している。


「花、お兄さんに遊んでもら・・・。おや?」


花の足に目をやった男は、そこでようやく怪訝そうな顔をする。


「怪我をしたのかい?そのハンカチは・・・」

「俺のです」


屈んで花の怪我を見ていた男は、高広の方を見てにっこりとほほ笑んだ。


「そうでしたか。花が迷惑をかけました。花、お兄ちゃんにお礼は言ったかい?」


花は何も言わない。代わりに男に満面の笑みを向けて足をばたつかせている。


「ネイビーブルー!」

「うん、そうだね。これはネイビーだ」


男は大きく頷いて、花の隣に腰かけた。


「お兄ちゃんと色当てして遊んでいたのか」

「色当て?」


聞いたことのない単語を思わず口にすると、男の顔がこちらに向けられた。


「花の大好きな遊びなんですよ。物の色の名前を当てるんです」

「色・・・」


高広は渋い顔をしながら、自身の鞄とハンカチを見比べる。それを察したのか、男は口元を緩める。


「私にもあまり違いは判りませんよ。それは当然の事です」

「当然・・・」

「えぇ。最近の研究で、男性と女性では色の識別能力が異なることが分かったんです。女性の方が細かい色まで見分けることが出来るらしいですよ」


見かけらしからぬ知的なセリフが飛び出してきたので、高広は少し面食らってしまう。難しい話は苦手だが、それくらいなら容易く理解することが出来た。


「色の判別が優れていると言っても、女ならすぐに名前が出てくるもんなんすか」

「いいや、それは難しいだろうねえ。色は違うと分かっても、それが何か特定するのは至難の業でしょう」

「それじゃあ・・・」


高広は無意識に、二人の男の間に座っている花を見る。花は飽きもせず、依然空を面白そうに眺めていた。

高広が何を言いたいのか察した男は口元だけで笑い、同じように花を眺めて目を細める。


「花はね、特別なんです」


三人の頭上を舞う落ち葉。ヒラヒラと舞い散るそれを、花は指さして笑う。


「花は、色を司る天使なんですよ」










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