第二話
真緑の葉が頭上で音を立てて揺れている。だが幸彦の視線は分厚い眼鏡を通り越して、黒く淡々と綴られた文字をひたすら追っている為、そのようなことは全く気にかけていなかった。今幸彦の耳を支配しているのは、本を捲る時の紙の音だけだ。
幼い頃から本を読むことが好きだった。だが戦争で亡くなった父は文学より武道を重んじる人だったので、本を買ってほしいなど口が裂けても言えなかった。なので幸彦の家には本など一切なく、いつもとあるお屋敷の書斎に入らせてもらっていた。今読んでいる本もその書斎から借りてきた物だ。
勉強熱心な幸彦を見て感じるものがあったのか、屋敷の主は快く書斎を開けてくれた。なんでも有名な大学教授らしく、書斎のコレクションも素晴らしいものだった。
戦争後、両親を亡くしてとある家に養子に入った後も、幸彦は足しげく屋敷に通っていた。そんな屋敷のすぐ近くに、大きく立派な銀杏の木があるのだ。生家の近くでもあった銀杏の木は、一人静かに過ごすことを好んだ幸彦のお気に入りの場所だった。
そんな定位置の銀杏の木の下、物語が佳境にさしかかってきた所だった。次のページを捲ろうとした時、突然後ろから声がかかる。
「ねえ、なに読んでるの?」
ずっと屈んでいた首を思わず上げる。すると硬直していた首に僅かな痛みが走った。少し顔を歪ませて何気なくうなじに手をやると、今度は小さな笑い声が聞こえた。
「読む体制が悪いから体痛めるんだよ。姿勢も悪くなるよ」
当てている手をそのままに、驚いて視線を声の方にやる。真っ先に見えたのは、橙の鮮やかな着物だった。
けろりとした屈託ない笑顔を向けているその人は、驚きで呆然としている幸彦を面白そうに眺めてまた笑った。
それが千恵子との出会いだった。
帰りのホームルームが終わるやいなや、高広は軽い鞄を引っ提げて足早に教室を出る。すると後ろから高く大きな声が背中に突き刺さった。
「高広、待ってよ!」
バタバタと慌ただしい音を出しながら駆け寄ってくる苑子を待つこともせず、高広は廊下を進む。そんな無愛想に慣れたように当然に隣を歩き始めた苑子が言った。
「ちょっと付き合ってよ。御堂屋の栗羊羹買って帰りたいの」
「健太先輩と行けよ。今日は部活も委員会もないだろ」
「だっておじいちゃんに買っていくんだもん。先輩に付き合ってもらうのは悪いでしょ?」
付き合っているのに悪いということはないと思う、と言いたくなったが、苑子にそんな事を言ったら倍になって返ってくるのが予想できるので黙っておく。
高広の部活の先輩の卯月健太と苑子が付き合い始めたのは約二ヶ月前。二人の共通の知り合いということで色々と相談され、結果的に二人をくっつけた高広だったが、最近になってあまり二人が一緒にいないことを薄々疑問に感じている。とはいえこれ以上疲れることはしたくないので何も言わないが
。
「昨日なにもいらないって言ってたけどさ、やっぱりなにかお祝いしたくて。おじいちゃんあそこの栗羊羹好きでしょ?」
こてんと首を曲げた苑子はじっと高広の顔を覗き見る。
「だけどあそこ高いだろ。いつも服ばっか買って金欠だって騒いでるくせに、そんな金あるのか?」
今時の流行に敏感な苑子は、外で見るたびに違う服を着ている。小さい頃一度入ったことのある部屋は服で溢れていて、年頃になった現在はさらにとんでもないことになっているは想像がつく。校則で禁止されているアルバイトで稼いだお小遣いもすぐに使ってしまう為、貯金など一円もない筈だ。
「あるわけないじゃない。少し協力してよ」
にやついた笑みを向けてくる苑子を横目で一瞥し、高広はしばしの沈黙の後に言った。
「・・・・・・三分の一なら出してやる」
「え」
ぼそっと呟いた高広とは正反対の、意表を突かれたような間抜けな声を出した苑子は一瞬その場に立ち止まる。先程の勢いが瞬く間に鎮静化したようで、すぐさま後を追ってくる足音は小さく小走りになっていた。
「御堂屋なら電車乗らなきゃいけねえじゃねえか。電車賃がもったいないな、全く」
ぶつぶつ文句を言いつつも、高広の口からは拒絶の言葉は出ていなかった。小さく舌打ちをしながら腕時計を見て、高広はようやく苑子の顔を見て言った。
「そうと決まれば急ぐぞ。あそこは閉店時間が早い」
「う、うん」
苑子は少し動揺しながらも頷く。それを確認すると、高広は進める歩を速めて昇降口を目指した。
閉店間際の店にどうにか滑り込み、お目当ての栗羊羹を買った帰り道。二人はいつもの道をならんで歩いていた。だが家に近付くごとに高広はなぜか落ち着かないと言わんばかりに頭をかく。そして先程から黙って俯いている苑子をちらりと見た。
あのいつもテンションが高くておしゃべり好きの苑子が、学校から出てから口数が少ないのだ。何か物思いに考えているような、そこかうわの空で頼りない。おまけに最寄駅を降りて一言も話していないのだ。
(調子が狂う・・・)
高広は歩きながら思考を巡らせる。何か機嫌を損ねるような事を言ったか思い出そうとするが、思い浮かばず頭を振る。そもそも高広がぞんざいな言葉を投げかけてもケロッと平然としているのが常だ。先程まで乱暴な口は聞いていないから発言が問題ではないだろうが、ますます理由が分からない。
そうこうしている内に、例の銀杏の木の公園にさしかかった。お目当ての銀杏の木が見え、高広ははっとしたように目を見開く。そして口を渋くしながら恐る恐る苑子に言った。
「苑子。俺さ、ちょっとそこの公園に寄ってから帰るわ。じゃ」
例に見ない気まずさに耐えかね、高広はそそくさと公園の入り口に駆け寄る。が、そうする前に苑子はガバッと顔を上げ、手にしていた鞄の取っ手を強く握りしめて叫んだ。
「待って高広!」
いつになく真剣な声音が響き、高広が不意に振り向くと、苑子が勢いよくかけてきて高広のジャケットを強く掴ん引く。
「うわっ!なんだよいきなり」
予想外の強い力に慌てるが、苑子の真剣で切羽詰まった顔が視界に映り、動揺の熱が冷め困惑の冷気が流れる。
「苑子?」
「あんた、あたしに言わなきゃいけないことあるでしょ」
その瞬間、一気に冷や汗が溢れそうになる感覚に陥る。普段の調子のいい苑子はなく、有無を許さない気迫が高広の心臓を荒くさせた。だがそれでもなんとか冷静を保とうと苑子から目を逸らす。
「は?なに言ってんだよ。お前に逐一報告することなんてないぞ」
「嘘。絶対何か隠してるでしょ。あたし分かるんだから」
「じゃあ何を隠してるってんだよ。言ってみろよ」
動揺を隠すように強く言った言葉に臆することなく、苑子は裾を更に深く掴み直して荒々しく口を開く。
「おじいちゃん、本当は治ってないんでしょ。病気、治ってないんでしょ!?」
その瞬間、今度こそ高広の顔が硬直して口が動かなくなる。珍しく狼狽えて目を逸らす高広を見て、苑子は確信したようだ。
「おかしいもん!普段は缶ジュース一本買うのも躊躇するくらいケチな高広が、いくらおじいちゃんの為とはいえあんな簡単にお金出さないもん!あたしなんか一回も奢ってもらった事ないのに!」
「な、なんだよそれ!そんなことで人の事疑ってんのか?勘弁してくれよ・・・!」
「そんな事じゃないわよ!お小遣いも貯金してろくに遊びに行かないし、友達にも無理して奢らせたりしてるじゃない!昔幼稚園の遠足で、あたしがお菓子忘れたって泣いてても平然と目の前でお菓子貪ってたくせに!」
「いつの話をしてるんだよ!忘れたお前が悪いんだろうが」
ハハハッと乾いた笑いで気を逸らそう試みたが、どうやら上手くいかなかったらしい。引きつって上手く誤魔化せていないことが自分でも分かった。その証拠に、苑子が潤んだ瞳で睨みつけてくる。
いつまでも隠せるとは思っていなかった。ただ決心がつかないだけで。言い出せなかっただけで。
高広は大きく息を吸い込み、動転している気をどうにか落ち着かせる。肩から力を抜くと、自然と頭が冷静になってきた。苑子はそんな様子を糾弾することなく黙って高広の言葉を待っている。
「・・・座って話そう。全部話すから」
だらりと下がった肩の先で公園のベンチを指さすと、苑子は鼻をすすりながら黙って頷く。ジャケットを離さない苑子を引きずるようにしてベンチに座った高広は、大きく息を吐いてから全てを話した。
祖父の命がもう長くないこと。手術はせずにこのまま見守っていくこと。そして、祖父の本のこと。
話を黙って聞いていた苑子の目には、次第に涙が溜まっていった。高広と同様、他のものに目もくれず読書に没頭する祖父の姿が好きで、子供のくせして祖父に絵本やら漫画やら手渡していた苑子は、今でも最新の小説を祖父にあげたりしている。自分の好みでない本でも、祖父はいつも喜んで大切に保管していた。本の山が出来ている祖父の部屋の隅には、ひっそりと整列された苑子寄贈の本が並んでいる。
苑子が人の為に財布を開けるのは祖父だけではないだろうか。
そして例の黒い本の事を話すと、やはり苑子もその本の存在は知っていた。当然というべきか、頼山陽は聞いたこともないようだったが。
「あの本、確かに触らないように言われてたな。古くてボロボロだから慎重に扱わないといけないからって」
目をはらしながらも感情的にならないようにしている所はさすがだと思った。本当は号泣して祖父に縋りたいだろうに、自分より悲しい筈の高広の強い様子を目の当たりにしてなんとか押し留めているのだろう。
「そう。で、あの本はなにかと不自然な点が多い。それは別にどうでもいいんだけど、挟まってた写真がどうにも気になるんだ」
「どんな写真だったの?」
高広はポケットから携帯を取り出すと、軽く操作して苑子に差し出す。例の、男女が映った写真を撮っておいたのだ。それを見て苑子の眉が瞬時にハの字になる。
「これ、おじいちゃんだよね。隣の人は・・・、おばあちゃん?」
「違う。写真の裏に書いてあったんだ。『あの銀杏の木の下で、千恵子さんと』って。ばあちゃんの名前は静だったらしい。」
「ふうん・・・。で、この写真がどうしたの?昔の写真を残しておいても別におかしくないじゃない。」
「二人の後ろの木。見覚えないか?」
そう言われて、苑子はじっと写真の木を凝視する。今度は先程より時間がかかったものの、予兆なく頭を上げてベンチの隣にそびえ立つ銀杏の木に視線をやった。それを見て高広はにやりと笑う。
「その写真はきっとここで撮ったものなんだ。こんな大きくて特徴も似ている木なんてないだろうし、何よりじいちゃんがよく来ていたのが証拠だ」
この公園に来て本を読むとき、祖父はいつも例の本を傍らに置いて手を添えていた。時折フッと顔を上げ、その度に遠い目をしていたこと思い出す。
「確かに・・・。そうするとおじいちゃん、もしかして・・・」
「その千恵子さんを待ってるんじゃないかと俺は思う」
苑子の話を遮るように力強い声で高広は言った。苑子の驚愕の色に染まった瞳が向けられるが、高広は視線を銀杏の木に向けていた。
「この思い出の銀杏の木の下で、じいちゃんは待ってるんだ」
色付いてきた銀杏の木を遠い目で見る高広の横顔は、ひどく祖父に似ていた。苑子はハッとしたようにその顔を見つめる。
「高広とは長い付き合いだから、何をしようとしてるかくらい、予想できるんだからね、あたし」
目を乱暴に擦り頬を両手で叩くと、苑子は茶化すことなく言った。
「その千恵子さんを探すつもりなんでしょう」
すると高広の肩が一瞬だけ揺れた。そして苑子に視線をやると、いつものやる気のなさそうな口だけの笑みを見せた。
「見つからなくてもいいんだ」
秋になると綺麗な黄色になる銀杏の葉を見上げて、懐かしい目を向けていた祖父。その姿だけで間違った想像をして勘違いしているだけかもしれない。
「昔の事だしもうこの辺にはいないかもしれない。もしかしたら、という可能性もない訳じゃないし。じいちゃんのことだから、そんんなロマンチックなこと考えてないかもしれない」
でもさ、と口を開いた高広は前を向く。
それでも俺は、じいちゃんの孫だから。少しでもその可能性を信じてみたい。
「できることなら何でもしてみたいんだよ。それに、おれはもっとじいちゃんの事を知りたい。それだけでいいんだ」
自分の事など滅多に語らず歴史の事ばかり楽しそうに話す祖父にも、祖父の辿って来た歴史がある。あの写真を見た時、高広はその歴史を追求したくなった。ただそれだけ。
やけにすがすがしい表情をしている高広の横顔を見て、苑子はいつの間にか顔をにやけさせていた。いつもの調子のいい表情だ。
「なんで話してくれなかったの?」
「んなこと言ったら自分もやる!って言うだろ、お前」
「当然じゃん。面白そうだし、おじいちゃんの為だもん」
「可能性は低いぞ」
「そんなこと探してみなきゃわからないじゃん」
すっかり涙の引いた赤い目を細め、苑子はにんまりと笑う。
「なんかさ、探偵みたいじゃない?変装でもしてみる?」
「お前、絶対楽しんでるだろ。」
いつもの苑子に戻ったのを確信し、高広の口から自然と安堵の息が漏れた。同時に強張っていた顔から力が抜け、思わず緩んでしまう。
傍から無謀だと思われるようなことでも、この銀杏の木の下で決めたことならできそうな気がして、高広は再び頭上の木々を見上げた。再び決意を固めるように息を大きく吸い込んだ、その時だった。
新鮮な冷たい空気を灰に取りこんだ、その瞬間。待っていたかのように強い風が突き付けた。それは唐突に、予測なく。
「きゃっ」
突然の事だったので高広は思わず目を瞑り、苑子は小さく声を上げて前髪を咄嗟に抑える。がばさばさと木々が音を立て枝にしがみついていた葉が勢いよく空中で舞い、そのままマイペースに落ちてくる。
「うわっ。びっくりした」
高広が肩を上げて辺りを見渡した時、どこからともなく楽しそうな声が耳に飛び込んできた。
「ジョンブリアン!」
「へ?」
体に落ちてきた落ち葉を払おうと頭にやっていた手をそのままに、高広は反射的に声の方に振り向いた。苑子もその声を聞き取り、声のした銀杏の根元に視線を向ける。そして二人して呆気にとられたように何も言えなくしまった。
いつからそこにいたのか、白いワンピースにこげ茶のカーディガンを羽織った少女が、木の幹の傍で大きく手を広げて空を仰いでいた。そのままくるくると体を回し、楽しそうに飛び跳ねている。そしてまたもや高い声で何かを叫ぶ。
「クロムイエロー!あ、カナリア!」
舞い散る落ち葉を指さし、それが地面に落ちるごとに次の落ち葉を指し何かを発しているが、二人はその動きに全く理解が追い付かないでいた。そんな二人を尻目に、少女は変わらずその場で飛び跳ねたり回ってはしゃいでいる。まるで空中を舞い踊る銀杏の精であるかのように、落ち葉と動きを同化させているしなやかさを覚える。
なんとも不思議な雰囲気を持った少女だった。歳は七、八という所だろうか。このご時世妙に大人びている小学生が多いというのに、擦れた傷が一切見えずどこまでも透明な瞳を持っていた。それは表面的な印象かもしれないが、一欠けらも心に闇を持っていない、まっさらで純粋な仕草をする子だった。膝までのワンピースの裾が動くたびに翻り、少女の動きに倣って踊っているようだ。
なんとも無邪気に、だが何をしているのか分からない少女の行動をただ追う事しかできない高広が、次第に遠巻きに視線を変えようとした時、唐突に動きを止めてその場に直立した。
「・・・どうしたんだろう」
こそっと苑子が耳打ちしてきた直後、少女の端正ながらに幼げな面差しが高広に向けられる。高広と苑子は突然の事に目を見開き肩を激しく震わせた。思わず上ずった声が出そうになる。
その少女は一切表情を変えず、先程の上機嫌とは裏腹の無表情で、小刻みに高広達に駆けてきた。幼い少女にも関わらずなぜか身構えて体を反る高広だったが、その少女はベンチの裏に回り高広の背後で止まった。
「・・・え?」
反射的に後ろを振り向いた時、少女は無邪気な満面の笑みを向け、高広の頭上を指さして明るい声で鳴いた。
「マリーゴールド!」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
やや遠い視線を向ける二人に構わず、少女は高広の頭に手をかざす。
「え?なんだ、おま・・・」
咄嗟に腕で防ぐより先に、その小さな手は頭上から離れる。再び訝しげな視線を向けた時、少女の手には落ち葉がくるくると舞い踊っていた。
「は?」
「あ、あぁ。高広に付いていた落ち葉、取ってくれたの?ありがとう」
咄嗟に機転を利かせて声を高くする苑子だったが、少女の視線は既に手元の銀杏から高広の方に向いている。指先で器用に紅葉を回しながら、なんとも不思議そうに首を傾ける様は、珍しい動物を初めて見たかのような反応だ。
高広は向けられる視線に顔を渋くするが、それが高広ではなく手元の携帯に向けられていることに気付く。例の写真を開いたままの携帯は、じきに画面が黒くなりそうだ。
「なんだ、お前。一体・・・」
「橙」
「は?っておい!」
少女は驚くほどの素早さで高広の携帯をひったくる。そして画面を嬉しそうに見ながら先ほどと同様、くるくると回り始めた。
「おい!返せよ!」
元来子供に優しくとう考えがない高広は、おもむろに立ち上がって少女の腕を荒々しく掴んだ。
「んー!」
腕を掴まれたからか気分を害されたからか分からないが、少女の口から低いうめき声が吐き出される。そしてその小さな体をフルに使い暴れだし、必死で振りほどこうとする。
少女が抵抗の言葉をはっきり示さないのを見て、苑子が何かに気付いてベンチから立ち上がった。
「高広、離してあげて」
「あぁ?だってこいつ、俺の携帯を・・・っておい!暴れるなよ!」
なりふり構わず激しく暴れだす少女に辟易しながらも、何とかして携帯を取り返そうとした時だった。
「こらこら。これはお兄さんのだから取っちゃ駄目だよ」
状況に似つかわしくないおっとりとした口調が聞こえたかと思ったら、あれほど乱暴だった少女の動きがぴたりと止まる。それを見計らったかのように鮮やかな所作で、少女から携帯を抜き取った厚い男の手が見えた。
「花、探したよ」
所々に目立つ皺が入ったロングコートを着た長髪の男は少女ににっこり笑いかけると、優しく少女の手を取った。少女は落ち着いていたが、視線は依然男の持つ高広の携帯に向けられている。
「お兄さんたちに遊んでもらったのかい?でも人の物を取るのはよくないよ」
長い前髪のせいで表情はよく分からないが、少なくとも害のない人間であることは肌で感じることができた。のんびりとした穏やかな口調は人に安心と甘えを与えるものだ。
「ごめんね、花も悪気があったわけじゃないんだ。許してあげてね」
ぬっと差し出された携帯を受け取るも、取った本人からの言葉がないので、高広としてはあまりいい気がしない。そして高広が望む言葉は永遠に得られないことは明白だった。唐突に人の携帯をひったくった当の本人は、何事にもなかったかのように男に抱きついてなにやらはしゃいでいる。
「・・・・・・」
納得しきれていない高広の表情を聡く読み取ったのか、その男は小さく苦笑して少女の頭を撫でる。
「いやー、ちょっとこの子は勘違いされやすくてね。本当に盗もうと思ってたんじゃないんだよ。好奇心の対象があればすぐ手が出ちゃうんだよ」
少女を叱るどころか庇うセリフを吐いた男は、そのまま代わりに頭を下げた。
「ごめんね、本当に。花、そろそろ行くよ」
抱き着いたまま顔を上げた少女に笑いかけると、男は優しく手を握った。
「ほら、お兄さんにさよならは?」
だが少女は心底不思議な顔をして首を傾げる。そしてやはり高広の携帯を指さした。
「橙!」
はじけた声にとっさに肩を上げてしまった高広は、怪訝そうに己の携帯と少女を交互に見つめる。
「は?何を言ってんだ?」
「橙、橙!」
指さした手をいっぱいに振ってそう言う少女を見て、男は少し考え込んだように黙ってしまう。そしてなにか合点がいったようににっこりと笑った。
「そうか、橙が見えるんだな。うんうん」
高広と苑子だけがその場に取り残されたようで理解できずにポカンとしていると、男が少女から顔を上げて平和的な笑みを向けた。
「花の言うことはよく当たるんですよ。橙ですか。良い色ですね」
なんとも意味深で謎の言葉を残し、男は少女の手を引いて公園から去ってしまう。少女の手には依然高広の頭から取った枯れ葉が最後まで回っていた。
「・・・なんだったんだ」
「・・・さあ」
つむじ風のように謎の爪痕を残して消えた二人の背を呆然と見ていた高広と苑子だったが、しばらくして高広が大きくため息をついてどっかりとベンチに腰を下ろした。
「なんなんだあのガキは。あんな風に甘やかすから傍若無人な行動をするんだ」
「あんたって本当察しが悪いわね」
大まか予想していた反応とはだいぶ異なる返事が返ってきて、高広は少し驚いたように苑子の呆れ顔を見た。
「なんで俺が馬鹿にされなきゃならないんだ。悪いのはあっちだろ」
「そういう判別がつかない子が世の中にはいるのよ」
「どういうことだよ」
「それくらい自分で考えなさい」
投げやりに問題を提示された高広は納得がいかないが、苑子は気に留めることなく頬に手を当てる。
「でも可愛い子だったわね、花ちゃんかあ」
少しばかり輝きを持たせて瞳を爛とさせる苑子は身を翻し、高広を急かす様に腕を引く。
「さ、この栗羊羹をおじいちゃんに早く届けに行こう。明日から二人だけの探偵団の活動がスタートするんだから、その前におじいちゃんの顔を見たいし」
こういう目をした苑子は止められない。加えて今の高広はなぜか疲れていたので反論する気も失せていた。
渋々であるが重い腰を上げた高広の腕にしがみつき、苑子は満足げに息を吐いた。