第一話
「約束よ。絶対に」
顔は見えないが、秋風に髪を遊ばせている女はそう言って私の眼の前で小指を立てた。白くほっそりとした指は輪郭がおぼろげで、まるでその女自体が幻なのではと錯覚させられそうになる。だが女は確かに実在した。長い睫毛に朝露が付いて輝いていたのがはっきり見えたからだ。下睫毛の細かい一本まで数えることも可能なのに、なぜか顔は見えない。
二人は大きな銀杏の木の下に立っていた。二人の思い出の場所。幼い頃から変わらない黄色い銀杏が地面に落ち、美しい絨毯の上に立っているようだった。二人だけに作られた舞台の様だと、彼女がいつも喜んでいたことを思い出す。まるで幸せな王子とお姫様を祝福しているようだと。それが今では悲劇の二人の別れを鮮烈に彩ってしまっている。
橙の下地に椿の柄の着物が良く似合っている。顔が分からないのに似合っていると感じるのも不思議だ。
「きっと、この糸が私達を引き合わせるわ。私達だけの運命の糸よ」
立てられた小指には糸が結び付けられていた。着物と同じ橙色の糸。ふと自分の指を見ると、同じ色の糸が巻きつけられていた。
「約束よ。私はきっと忘れない」
ふと、下睫毛にも水が付いているのが見えた。だが女のくぐもった声で、それは涙だと理解する。
「僕も忘れません。いつかきっと約束を果たしてみせます」
女の小指に自分のそれを絡める。互いの糸のほつれた部分が重なって、まるで繋がっているように見えた。
「いつか会う日までお元気で、千恵子さん」
すると千恵子は悲しく、だが穏やかに笑った。
「待っているわ、幸彦さん」
最後に彼女の、大好きだった顔が見えた。
ぼんやりと校舎の色付いた木々を眺めていると、いきなり瞬間的な衝撃が頭を襲った。たいした攻撃ではなかったが、予期していなかった事なので思わず間抜けな声を上げてしまう。
「わっ!」
「大きな声出さないでよ。こっちがびっくりするじゃない」
教科書を丸めて机の前に立っていた苑子は少し目を大きくして一歩下がった。高広はわざとらしく叩かれた箇所をさすりながら顔を上げる。
「・・・なんだよ、なんか用か?」
「別に。なんか考え事してるみたいだから邪魔してやろうと思って」
そう言って鋭く口角を上げる苑子を見て、高広はため息をついて椅子に座り直す。
「お前も暇だな。俺なんかに構う時間があるなんて」
「失礼ね、あんたみたいな無気力でだらけた男の幼馴染に誰がなってやったと思ってんの?」
「頼んだ覚えはないんだが」
「あたしは覚えてるわよ。私が引っ越してきたその日に『僕と遊ばさせてください』って訳わかんない丁寧語使ってきた」
「あぁ、そうか」
何度も聞かされた話を軽く流す高広を見ても苑子はもう慣れているのか、めげる様子はない。
長い間付き合いがある苑子とは、ある意味気を遣わなくてよい家族のような間柄になりつつある。おせっかい焼きでなんでも首を突っ込みたがる伯母さん的立ち位置だ。さしずめ自分はそんな伯母さんの標的にされている甥っ子といった所だと、高広はいつも思っている。
「でもあんたがそこまで考え込むなんて珍しいわね。何か悩み事があるなら聞いてあげるよ?」
「よく言うよ。歩くスピーカーのくせに」
「あら、そんなに声は大きくないわ。それにかっこ悪いし。せめて牧田高校の情報屋ってくらいのインパクトがないと」
口が緩い所を否定しないのがさすがと言った所か。高広は呆れたようにため息をつきながら鞄を手に立ち上がる。それを見て苑子も慌てて鞄を取りに行く。
「待って、あたしも帰るから」
「は?お前は先輩と帰れよ」
「今日は委員会だから無理なんだって。良いじゃない、おじいちゃんの様子も見たいしさ」
高広はぐっと息を詰まらせるもすぐに立て直し、だるそうに教室を出る。後ろから文句を言いながら苑子が追いかけてくるのを遠くで聞きながら、高広は祖父の顔を思い浮かべていた。
「で、おじいちゃん元気?最近退院したんでしょ?」
「元気も何も、目を離せば外に出て行くくらいに活発で困るくらいだ。年も年なんだから大人しくしてほしいのに」
「そうなんだ、良かった。心配してたんだよね。あたしおじいちゃん大好きだから」
無邪気な笑顔でそう言った苑子とは対照的に、高広はなぜか暗い影を落として黙っている。二人の家は向かい合わせなので帰路は一緒だ。当然のように二人で公園の角を曲がった時、ふと公園のベンチに座っている人影が目に入る。
「あ、あれ」
苑子も気付いたようで、途端に顔を緩ませるとすぐさま公園の中に駆け込んでいく。高広も別の意味で慌てて駆け出した。
「おじいちゃん!」
苑子が叫びながら手を振るのが目に入り、祖父ははっとしたように顔を向けた。杖を手に持ち銀杏の木の隣に腰掛けていた祖父の前に立つ。
「おぉ、苑子ちゃんか。久しぶり」
「おじいちゃん、元気そうだね。会えなくて心配してたんだよ」
「すまんな。もう何ともないからこうして散歩してたんだが・・・。おぉ、高広も一緒か」
「じいちゃん何してるんだよ。もうすぐ冷え込むから体に良くないぞ」
高広が呆れたようにそう言うと、祖父も聞き飽きたようにため息をつく。
「全く。幸広といいお前といい、心配症で困るわ。ろくに散歩もできんとは」
「また父さん達の目を盗んで出てきたんだろ。ほら、もうすぐ夕飯だから帰るよ」
「仕方ないな・・・」
観念したように立ち上がる祖父の背中に手を置いくと、三人は公園を出て歩き出す。祖父の歩幅に合わせるので、自然に歩くスピードが遅くなる。
「おじいちゃん、退院祝いに何か欲しい物ない?」
苑子が祖父の顔を覗き込んでそう言うと、祖父はゆっくりと手を横に振る。
「そんな気を遣わなくていいよ、苑子ちゃん」
「いいえ、あたしが何かしたいんです」
「いやいや、本当に何も欲しいものがないんだよ。たまにこうして会いに来てくれたらそれでいい」
穏やか笑う祖父の顔に偽りがないのを見て取って、苑子は少し困ったように頬を緩ませる。
「そうですか?それなら・・・」
「うん、うん。気遣いだけもらっておくよ。ありがとう、苑子ちゃん」
皺が寄る優しい顔で頷く祖父を見て、苑子は嬉しそうに目を細める。
苑子は昔から祖父のことが好きだった。『なんでおじいちゃんの孫が高広なの!?』と、昔本気で言われて驚いたことを思い出す。
家の明かりが見え始め、苑子と家の前で別れると、祖父が口を開いた。
「苑子ちゃんは良い子だね。高広のお嫁さんになってくれたら嬉しいんだけどねえ」
「気味の悪い事言わないでよ、じいちゃん」
高広はバツの悪い表情を浮かべつつも、手を当てている丸まった背中を見てなんとも切ない目をしてみせた。
書斎で倒れているの祖父を見つけたのは母だった。高広はその事実を電話で知り学校を早退して病院に着いた時、祖父は人工呼吸器をつけられ病室のベッドで寝ていた。あんなに血色が良くていつも笑って開いていた唇は驚くほど青く、横たわる体から感じる生気はとても薄い。突如やって来た緊急事態に高広はとても冷静ではいられなかった。
眠る祖父を取り囲むようにして座っていた母と父の顔からも血の気が引いている。しばらく黙ったまま祖父の顔を見つめていると、医師と看護婦が静かに入ってきて話があると言った。高広は躊躇ったが、覚悟を決めて両親と共に祖父の病状を聞くことにし、落ち着いた口調で語りだす医師の言葉に耳を傾けた。
祖父の心臓に疾患が見られたこと。その手術はかなりのリスクを伴い成功率が低いこと。手術が成功しても、高齢の為体力が持つかどうか分からないこと。そして再発の可能性が非常に高いこと。
提示されたカードは全てジョーカーで、高広たちは目の前が真っ暗になった様な気がした。その場では結論を出す事が出来ず、高広たちは重い足取りで家路につき、幾度の話し合いの末に苦渋の決断をした。
最善と考え引いたジョーカーは、手術をせずに最後の時を家族と過ごすというものだった。祖父には何も言わず、ただ穏やかな終わりを迎えてもらおうというのが、打つ手がない高広達が涙を堪えながら選択したカード。
苦しんでほしくない。穏やかに最期を迎えて欲しい。その一心での選択だったが、それが祖父の意志を汲み取れているかは分からない。何も言わず決めた高広たちを恨んでいるかもしれない。それでも何も言わず普通に過ごす祖父を、高広たちは最後まで見守っていくつもりでいる。
「父さん、また勝手に出かけたのか?せめて一言言ってからにしてくれ」
高広と共に帰ってきた祖父を見て、父・幸広が安堵の息と同時に苦言を呈す。
「言ったら言ったでお前はそれを許すのか?」
「退院したばかりなんだから安静にしててくれよ。頼むから」
祖父は耳にタコができているのか、うんざりとした顔で幸広の隣をすり抜けていく。
「お帰りなさい。ご飯、出来てますよ」
リビングから母・清美が顔を覗かせ、持ち前のふんわりとした笑みを向けてきた。
「今日はお義父さんの好きなおでんですよ」
テーブルを見ると、大きな鍋の中でおでんの具材が煮立って揺れ動いている。
「おぉ、おいしそうだ」
行儀よく椅子に腰かける祖父を見て、高広と幸広も呆れたように息をついて席に着く。
マイペースで気ままでおっとりのんびりしている祖父に振り回されるのはもう慣れた。名のある大学教授だった祖父は典型的な学者肌で、己の好奇心の赴くままに行動する。気が向かない事に対しては一切目もくれず、一度嵌まったものにはひたすら一直線で情熱を注ぐ。歳を取った今でもその片鱗は見えるのだから、若い頃は相当なものだったと推測できた。
「いただきます」
高広たちのそんな心境などつゆ知らず、祖父は好物のちくわぶに齧り付いた。
最後の風呂に入った高広が冷蔵庫からコーラを取り出した時、ふいにリビングから両親の話し声が聞こえた。ここ最近は妙に重苦しい雰囲気で話し込んでいるので、大まかな内容は祖父の事だと推測できる。
キャップを開けながらリビングにやって来た高広は当然のようにソファにもたれ掛る。すると幸広がちらりと高広を見て言った。
「今日も親父はあの公園にいたのか?」
「うん。ベンチに座ってた」
それを聞いて幸広は小さく息を吐いて手で目を覆う。
「そうか、またあそこにな・・・」
家の近くにある、大きな銀杏の木がそびえ立つ小さな公園。そこは祖父のお気に入りの場所らしく、高広が物心付いたことからよく連れられて遊んだことがある。
遊ぶといっても、高広は勝手に一人で遊び、祖父は持ってきた本をベンチに座って読むのが決まりだったが、高広は祖父の読書をしている姿が好きだったので飽きることはなかった。
一回歴史の世界に入り込むとなかなか抜け出さない祖父は、礼節をわきまえた現代の武士のようにかっこよかった。祖父をそこまで虜にする歴史の事をもっと知りたくて、よく祖父に歴史の話を聞いたものだ。高広が興味を持ってくれたことに対して祖父は喜び、その時だけは輝いた目で語ってくれる。
「いいか、高広。過去なんて詳しく調べても無意味なんて言う奴もいるが、そんなの詭弁に過ぎない。昔の出来事や背景を知ってこそ、今の世界を見つめ直すことができる。良く覚えておきなさい」
歴史の事を話す祖父の言葉はいつになく説得力があり、そして計り知れない魅力があった。そんな祖父に憧れて歴史にのめりこんだ高広は、今や祖父の所有する本を制覇しようと意気込んでいる所まで達している。
「なあ、父さん。じいちゃんってなんか欲しいものとかないのかなぁ」
「なんだ、いきなり。俺は親父じゃないから分からん」
苦々しい口調でそう言う幸広だったが、なぜかふと遠くを見るような目をして口を開く。
「そういえば、昔に親父に似たような事を聞いたっけなあ。懐かしい」
幸広は顎を撫でながら思い出し笑いをする。手にしていた缶ビールを一口飲んだ清美が意外そうに目を見開くが、すぐに穏やかな表情を見せた。
「なんせ歴史馬鹿だったからな。それ以外は全く興味を示さないから誕生日のプレゼントに悩んでな。仕方ないから聞いてみたんだよ、『なんか欲しいものはないか』って
」
祖父の息子である幸広は学者としての血を全くと言っていい程引き継いでおらず、祖父をそこまで虜にしている歴史の魅力が全く分からないらしかった。考え追及することを苦手とし、まず直感を大事にするタイプだ。そんな性格が功を奏したのか、今はやり手の証券マンとして活躍している。
「へぇ。それでじいちゃんは何て言ったの?」
「何もない」
「え?」
「なにもいらないって言ったんだ。ま、だいたい予想してたことだったがな」
缶ビールを頼りなく振りながら遠い目で言った幸広だったが、ふと再び何かを思い出したようで高広を顧みる。
「そうそう。親父が珍しく大切にしてた本が一冊だけあったな。いつも部屋いっぱいに本を積んでるくせに、その本だけは肌身離さず持ってるんだ。プレゼントの参考にしようと思って開いたことがある」
それを聞いて高広は思い当たることがあった。祖父はいつも布団の枕元に手帳くらいのサイズの本を置いているのだ。黒皮の表紙で聖書のような重厚さがあるが、かなり年季が入ったものらしくあちこちボロボロだ。
「かなり読み込んでたなあ。今でも大切に持ってるから本当に大事なものなんだろうな」
缶ビールを傾け中身を飲み干す幸広の横で、高広は腕を組んで物思いに耽っていた。
そしてその日の夜中、時刻は十一時五十六分。高広は家の廊下を抜き足で静かに歩いていた。目の先にある祖父の寝室の襖が僅かに開いている。密閉された空間が苦手な祖父の癖だ。高広はその隙間に手を挿し込み、音をたてないようにゆっくりと横にスライドさせる。
予想通り、祖父は沢山の本に囲まれて横になっていた。浅い寝息が小刻みに聞こえ、暗闇でも祖父の穏やかな寝顔が映し出される。祖父が深い眠りに落ちていることを確認すると、枕元に置いてある黒い本に視線を映した。文庫本程の大きさの古い本。
昔、祖父がいつも大切にしている本の事が気になり手にしようとした時、普段は温厚な祖父が凄い剣幕でそれを拒んだこと思い出す。
祖父の意外な姿を見て興味深かったと同時に、その豹変ぶりに恐れを抱いて泣き散らした高広は、それから一度もその本のことを気にすることはなかった。いや、気にしないようにしていたと言う方が正しいか。
祖父にとってのパンドラの箱に再び触れる決心がついたのは、幼い頃の好奇心だけではない。知られたらすごい怒るだろうが、それも覚悟の上だ。上等。
高広はそっと祖父の部屋に入り、本の山にぶつからないように細心の中心を払って祖父の枕元に近付く。喉を鳴らすのも緊張してうまく出来ず、体の中の器官の音でも起きてしまうんじゃないかと恐れてしまうが、強張る腕を伸ばし、黒い本をそっと手に取る。
バクバクと鳴る心臓の音を押さえるように胸元で本を抱えると、高広は変わらず眠る祖父に手の平を立てた。そして帰路もゆっくりと差し足で進み、後ろで障子を音を立てずにゆっくりと閉めた。
パタン。
ここで気を抜いてはいけない。息を吐きたい気持ちを抑え、再び足音を立てないように己の部屋への階段を上る。予め開けていたドアをすり抜けて部屋に入ると、素早く静かにドアを閉めた。そして部屋の電気を付けた時、ようやく大きく息を吐いてその場にしゃがみ込む。
「はぁー、緊張した」
だがまだ安心はできない。この本を戻すという仕事が残っている。まあ、それは置いておこう。
普段ならこんな思い切った事はしなかっただろう。だが高広にとって祖父の事を知る術は少しでも知っておきたかった。何も成果がなくてもいい。
胸に抱えていた本をまじまじと見つめる。やはり表紙を含めボロボロですぐ崩れてしまいそうだ。表紙をめくって中を開く。紙が濃く焼けて所々は文字が潰れてしまっている。だが中身は漢文体がびっしりと連ねており、所々に平家だとか足利といった言葉が読み取れた。ページの所々が小さく破けていたり折れていたりと、相当読み込まれているのが分かる。ページを捲ろうと手にすると、乾いた紙が音を立てて折れた拍子に破れそうになるので思い留まる。これ以上中身を読むのは不可能だと感じ、高広はパタンと本を閉じると、表紙の題名をそっとなぞり、塗装がはがれている文字を目を凝らして読む。
「に、ほんがい・・・し。日本外史か?」
高広にはその名前に心当たりがあった。ベッドに放り投げていた携帯を手に取り『日本外史』を検索する。するとパッと画面に出てきた著者は、やはり祖父に教わったとある歴史学者の名前だった。
「やっぱり、頼山陽だ・・・!」
頼山陽。江戸時代後期の歴史家で、日本史上ベストセラーとなった日本外史の著者だ。また多才な人物としても知られており、文学・美術でも多くの功績を残したとされる。
そんな頼山陽が残した日本外史は源平二氏から徳川氏までの武家盛衰史で、簡潔で不正確な内容が多いことから史書というより歴史物語に近いが、独特の史観とダイナミックな表現で幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であったと言われている。
祖父は多くの歴史学者を尊敬していたが、特に崇拝していたのが頼山陽だった。祖父は源平時代の歴史を研究しており、それらを言葉巧みに表現し後世に伝えてきた頼山陽はまさに憧れの存在だったのだろう。
だがおかしい。日本外史は後に文語体として現代版で出版されており、祖父も持っていた筈だ。それにこの本は上・中・下巻の三巻から成り立っていて、高広の手元にあるのは上巻だ。原本ならもっと古くて大きい。皮の表紙なんてつけない筈だ。それに漢文体で書かれているということはその時代のものと思われるが、本の綴じ方が和本に糸を通して纏める和綴じではなく、糸を使わずノリで固める無線綴じになっている。作られた時代背景が曖昧で様式が異なる為、この本は正式に出版されたものとは考えられなかった。
「この本、なんか色々とおかしいな」
几帳面な祖父は全ての本を揃えておかないと気が済まない質だ。だからこんな風に上巻だけを持っているのは妙に違和感があった。よく見れば、出版元が書かれていない。朽ちて見えなくなったのかと思ったが、表紙にも背表紙にもそれらしき跡がなかった。
「にしてもなんの収穫もないな」
祖父の事をよく知りたい、願いを知りたいと思って本を持ち出してはみたものの、この本の違和感と祖父の歴史好きを改めて再確認しただけだった。
自分の行動が無駄骨だったと感じた高広は大きな溜息をつき肩を落としながら何気なく裏表紙を捲る。特に期待していなかったので気が散漫していたが、ふと裏表紙になにか挟んであるのが目に入った。諦めモードで横になり肘をつきながら見ていたものだから、その紙が本の色と異なる色をしていなければきっと気付かなかったかもしれない。
「ん?」
閉じかけていた手をピタリと止め、高広は再び体を起こす。目の錯覚かと思ったが、焼けている紙の色が微妙に違う。端っこにぼんやりと滲んだ文字が書かれており、本の達筆とは異なる乱雑な字が並んでいた。
高広はごくりと唾を飲む。少しだけ爪を立てると、一枚の紙が浮かび上がってきた。それを抜き取ると、隅に鉛筆で書かれている文字を読む。
「『あの銀杏の木の下で、千恵子さんと』?」
首を傾げながら裏面を捲る。
それは白黒の写真だった。銀杏が生い茂る木の下で、一組の男女が並んで笑っている。
歳は今の高広より少し上だろうか。二人の距離感で親密な関係であった事がうかがえる。
よほど大切に保管されていたのだろう。古いものであることは間違いのに皺ひとつなかった。高広は写真を食い入るように見つめ、やがて目を見開いて驚きで口が開く。
「間違いない・・・」
着物姿で手に大きめの本を持ち、瓶底眼鏡を付けている男は、若かりし頃の祖父だった。歳を重ねていても、その面影は間違いなく同一人物で、なによりその顔は幸広によく似ている。口だけで笑うその顔は本当そっくりだ。
だが問題はその隣にいる女だった。一瞬会った事のない祖母かと思ったが、写真の中で明るく笑うその顔を見て違うと確信した。
『高広は本当にお袋にそっくりだ。低い鼻に面長な顔。その口元のほくろ、お袋にもあったんだよ。』
幸広の母、つまり高広の祖母は幸広が小学生の頃に病気で亡くなったらしい。しおらしく大変おとなしかったと聞いている。祖父のことを献身的に支え、穏やかな笑みをする人だったとか。
だが写真の中で明るく笑う女は、話に聞いている祖母の像とかけ離れてしまっている。おまけに高広にちっとも似ていない。小さい顔に鼻筋の通った綺麗な人だ。屈託ない笑みを向けている女の隣で、照れくさそうに不器用な笑みを向けている祖父。
たった一枚の写真だけで、二人を取り巻く環境が分かってしまうようだった。敵わない若かりし頃の恋という所だろう。だが祖父が未だにその頃の写真を残しているのが妙に引っかかった。そして再び白黒の写真に目を通す。
「・・・・・・ん?」
ふと、二人が立っている後ろの大きな木に目が留まる。舞う葉の形からして銀杏の木だろう。裏にもそう書いてあったから間違いない。
銀杏の木で思い出すことがあった。幼い頃から祖父と出かけたあの公園。高広達の目を盗んで足を運んでいた公園にも、立派な銀杏の木があった。
周りに並んでいる木など比べ物にならない位、高くそびえる銀杏の木。正面に大きめの空洞があって、よく鳥が巣を作っていた。一度巣の中の鳥にちょっかいを出したら、嘴で突かれて泣き出したことを思い出す。
この写真にも丁度似たような所に大きな空洞が・・・。
「まさか、これ・・・!」
高広は驚きで声を張り上げそうになるのを堪え、刺すように写真を睨みつける。二人を見守るように立っている銀杏の木の正面に、確かに大きめの丸い影があったのだ。